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潮待ちのレール  作者: たむ


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7/14

第七章 夏の船着場

 六月の終わりから七月にかけて、春口の色は少しずつ変わっていった。


 海の青が濃くなる、というだけではない。空の白さが強くなり、坂道の石が昼には熱を持ち、柑橘畑の緑が光を跳ね返すようになる。宿の軒先に置かれたオリーブの鉢も、雨上がりの時期を過ぎると急に葉の裏の銀色を見せるようになった。町全体が、静かなまま輪郭をはっきりさせていく。瀬戸内の夏は、最初から騒がしく始まるのではなく、光の密度だけが少しずつ増していくのだと湊は知った。


 宿にはぽつぽつと客が入るようになった。

 春口に海水浴場があるわけでも、大きな観光名所があるわけでもない。それでも、夏休み前になると、島へ渡る途中で一泊する人、古い町並みを見に来る夫婦、小さな撮影旅行をしているらしい若者たちが現れる。汐里は相変わらず大げさなもてなしはせず、けれど誰にも不足を感じさせない手際で客を迎えた。湊も、食器を運び、玄関を掃き、買い出しに付き添うようになっていた。東京へ戻る日を決めないまま、春口での時間だけが確かな重さを持ち始めている。


 それでも、父と千紘のことは止まっていなかった。


 澄江の手記と、父のノートと、断片的な証言。

 それらを突き合わせるたび、輪郭は少しずつ見えてくる。

 だが中心だけが、まだ霧の中にあった。


 ある午後、宿の帳場で古い宿帳を見直していた汐里が、ふいに顔を上げた。


「相沢さん」

「はい」

「これ、見てください」


 差し出されたのは、かなり古い宿帳だった。

 客の署名は達筆で読みづらく、職業や人数だけが辛うじて追える。汐里が指先で押さえていたのは、ある年の八月のページだった。


「このあたり、変なんです」

「変?」

「前後の月はそれなりに記録があるのに、この年の八月だけ、途中で空いてる」


 たしかにそうだった。

 七月までは小さな字で客の出入りが記されているのに、八月の中旬に入ったところで、何日分かがまるごと空白になり、そのあとまた唐突に再開している。書き忘れというには、不自然な空き方だった。


「宿が休みだったとか」

 湊が言うと、汐里は首を振った。

「祖母は休むときも一言くらい書く人だったらしいです。法事とか、家の都合とか」

「じゃあ、この空白は」

「分からない。でも」


 彼女は、もう一冊のノートを取り出した。

 澄江の手記だった。

 同じ年の八月の記述がないかを探し、ページをめくっていく。だが、こちらもまた、七月の終わりから九月の頭まで、ぽっかり記述が途切れていた。


「同じだ」

 湊が低く言う。

「母の手記も、八月だけ抜けてる」


 外では蝉が鳴いていた。

 夏に入ったばかりの、まだ本気になりきらない鳴き方だ。

 その音が、帳場の上の空白をかえって際立たせた。


 父のノートを開く。

 その年の前後を追っていくと、やはり八月にあたるページだけ筆跡が途切れている箇所がある。完全に空白ではないが、いつもなら細かく書かれている時刻や風向が抜け落ち、ただ数行だけ、鉛筆で浅く押しつけたような字が残っていた。


 ――八月。

 ――便の乱れ。

 ――待合、港、仮場。

 ――千紘の白い帽子。

 ――そのあと、記せない。


 湊は文字の浅い跡を指でなぞった。

 そのあと、記せない。

 父がそう書くしかなかった出来事が、その空白の中にある。


「この年の八月に何かあった」

 汐里が言う。

「そう考えるしかないですね」

「宿帳も、母の手記も、あなたのお父さんのノートも、全部そこで途切れてる」

「偶然ではなさそうです」


 その夜、篠原に連絡を取ると、翌日すぐ宿へ来てくれた。

 外は真夏の入口のような日差しで、坂道の石が昼の熱を返していた。篠原はいつもの布鞄を提げ、汗をぬぐいながら座敷へ上がった。


「八月の空白?」

 話を聞くと、彼は眉を寄せた。

「年は分かりますか」

「このあたりです」


 宿帳と手記と父のノートの該当箇所を見比べる。

 篠原は少し黙り込み、やがて鞄の中を探って小さなメモ帳を出した。


「たしか……」


 ページを繰り、ある箇所で手を止める。


「この年、夏の終わりに大雨があっています」

「大雨」

「地方紙の小さな記事で見ただけですが。春口周辺で一時、道路と船便に影響が出た」

「それだけですか」

「記事としては、それだけです。ただ、地方紙の小さな記事というのは、町にとって小さい出来事とは限らない」


 それは以前にも聞いた話だった。

 記録の規模と、人の記憶の深さは一致しない。


「他に何か資料は」

 湊が訊くと、篠原は少し考えてから頷いた。

「港の古い写真を持っている人がいます。春口ではなく、隣町の船具屋の息子さんです。昔、何でも写真に撮る癖のあった人でね」

「その人に会えますか」

「たぶん」


 午後、三人で隣町まで出かけることになった。

 列車で二駅。そこから海沿いの道を少し歩く。車窓には、以前よりはっきりした夏の光が差していた。海は白くまぶしく、島の影だけが濃い。車内には買い物客と、釣り竿を持った若い男が一人。天井の扇風機が低く回り、その風が吊り革を小さく揺らしている。


 隣町の船具屋は、今は店を閉めて倉庫だけが残っていた。

 案内された家には、八十を越えていそうな細身の老人がいて、篠原の顔を見るなり「あんた、また昔のことか」と笑った。


「昔のことを訊くには、昔の人しかおらんから」

 篠原が言う。

「悪いな」

「悪いと思うなら、もう少し酒でも持って来い」


 老人はそう言いながらも、三人を座敷へ通してくれた。

 部屋の片隅には古いアルバムがいくつも積まれている。湊たちが八月の空白のこと、大雨のあった年のこと、春口の港や船着場の様子を知りたいと伝えると、老人は黙って一冊の分厚いアルバムを引き寄せた。


「これが、その頃や」

 ページを開く。


 そこには港の写真が何枚も貼られていた。

 雨の前の曇天の海。

 船着場に並ぶ人影。

 ロープを巻く男たち。

 岸壁の脇に積まれた荷。

 祭りの提灯。

 そして、雨のあとらしい濡れた港。


「このへんです」

 老人の指が一枚の写真で止まる。


 春口の船着場だった。

 人がいつもより多い。

 大人たちが何か話し合っているように固まり、その後ろに子どもが数人立っている。写真は少し遠く、顔は判然としない。だが右端に、白い帽子の小さな姿があった。


 湊は息を呑んだ。

 汐里も黙ったまま、その写真を見つめている。


「この子……」

「分からんよ」

 老人が先に言う。

「顔まで見えるもんじゃない。ただ、白い帽子の子がおることだけは分かる」


 その一枚の写真だけで十分だった。

 千紘はいた。

 そして、その年の八月、港にいた。


「そのとき、何があったんですか」

 汐里が訊くと、老人は少し黙ってから答えた。


「大雨や」

「それだけですか」

「だけ、ではないな」


 老人は写真から目を離し、窓の外を見た。

 庭の向こうに、青白い海が細く見える。


「雨で道が崩れて、船の便も乱れた。線路のほうも心配でな、人が港と駅のあいだを行ったり来たりしとった。どっちが先に動くか分からんかったから」

「待機場所が必要だった」

 篠原が低く言う。

「そういうことやろな。正式には何でもない場所でも、人が集まりゃそこが場になる」


 潮待ち浜。

 待機。

 仮場。

 船と列車のあいだにできた、名前のない場所。


「子どもは?」

 湊が訊く。

「子どももいた。親が仕事で手を離せんかったり、島へ渡るはずが便が乱れたり、迎えが遅れたり……そういうのは珍しくなかった」

「千紘も?」

「そこまでは分からん。ただ」


 老人はアルバムの別のページをめくった。

 そこに挟まれていた新聞の切り抜きの裏に、鉛筆の走り書きがあった。


 ――待合の前、澄江、千紘、亮介らしき若い男


 湊の視界が一瞬、狭くなった。


「亮介」

「わしが後から見て書いたメモや。確証があったわけやない」

 老人が言う。

「でも、そのころ港と駅のあいだをうろうろしとった若い男がおってな。地元の子やないのに、手伝いみたいなことをしとった」

「父……」

「かもしれん。名前まではその場では知らんかった」


 父は、その場にいた。

 少なくとも、そう考えるだけの輪郭がここまで来ていた。


「そのあと、どうなったんですか」

 汐里の声は静かだったが、わずかに硬かった。

「その日のこと、詳しく覚えてますか」

「詳しくはない」

 老人は正直に言った。

「こういうのはな、あとから一つの大きな出来事として残るんやなくて、細かい混乱の集まりとして残るんや。船が遅れた、誰かが来ん、道が崩れた、子どもを預かった、列車がどうなるか分からん。そういうのが一気に重なってな」

「でも」

 湊が続ける。

「何かがあったから、みんな記録を途切れさせた」

「そうやろうな」


 老人はしばらく考えてから、低く言った。


「一人、いなくなったと聞いた」

「……」

「その場で海に落ちたとか、土砂に巻かれたとか、そういう確かな話ではない。ただ、いたはずの子が、いつのまにかおらんようになった。大人たちは迎えや便や後始末でばたついとって、誰がどこにおったか、あとでよう分からんようになった」


 部屋の中が、急に暑くなったような気がした。

 白い帽子の少女。

 八月の港。

 待たされた子。

 そして、いつのまにかいなくなった一人。


 それが千紘なのかどうか、老人は断言しない。

 だが、ここまでつながれば、もう偶然ではない。


 帰りの列車の中で、三人はしばらく誰も話さなかった。

 窓の外の海はあいかわらず明るかった。午後の光が強く、島の輪郭が陽炎のように揺れる。夏の瀬戸内は美しい。だがその美しさが、かえって残酷に思えた。こんなふうに光が満ちている日にさえ、人は誰かを見失うのだ。


 春口に戻ると、駅前の空気は熱を含んでいた。

 坂道を上がる途中、無人販売所のレモンが陽を受けて白っぽく光っている。もう初夏の色ではない。夏そのものの色だ。時間は確実に進んでいる。けれど、父のノートの八月だけは、その先へ進めないまま止まっていた。


 その夜、宿の居間で三人は改めて断片を並べ直した。


 八月。

 大雨。

 港と駅の混乱。

 仮場としての待機場所。

 澄江、千紘、亮介らしき若い男。

 そして、いなくなった一人。


「写真、もう一度見せてください」

 湊が言うと、老人から借りた複写を広げた。

 港のざわめきの右端。

 白い帽子。

 その少し奥に、たしかに若い男の肩らしい影がある。

 顔は分からない。だが、顔が分からないことそれ自体が、この事件の性質に似ていた。肝心なところだけが、いつも少し見切れている。


「母もこの場にいた」

 汐里がぽつりと言う。

「たぶん」

「そして、何かが起きた」

「ええ」

「だから、あとで何も言えなかった」


 湊はうなずいた。

 父もまた、同じだったのだろう。

 知っているのに語れない。

 見たのに記しきれない。

 その沈黙が何十年も続いた。


「相沢さん」

 汐里が写真から目を上げた。

「あなたのお父さん、千紘を探してたんじゃなくて、千紘が“どういなくなったか”を探してたのかもしれません」

「そうかもしれません」

「生きてるか死んでるかだけじゃなくて、その時、誰がそばにいて、誰が待たせて、誰が来なかったのか」

「……」


 それは、ただの捜索ではない。

 贖罪に近い。

 父は自分が関わったかもしれない欠落を、何年たっても見過ごせなかったのだ。


 湊はその晩、父のノートの空白の前で長く止まった。

 ページの白さが、ただ未記入なだけの白ではなく、何かを飲み込んだあとの白に見えた。

 そして、その白の手前に、こんな一文を見つけた。


 ――帰る便があると思っていた。

 ――だから、待たせても大丈夫だと、誰もが一度は思っていた。


 誰もが。

 その主語の大きさに、湊は息が詰まった。

 父一人の罪ではない。

 けれど、父もその「誰もが」の中にいたのだ。


 夏の夜は、昼の熱をゆっくり手放していく。

 窓の外では虫の声が増え、港の灯が水に揺れていた。遠くを遅い列車が通る音がする。見えないレールの上を、まだ一日の終わっていない時間が走っていく。


 夏の船着場。

 そこにいた子どもたち。

 大人たちの事情。

 乱れた便。

 そして、ひとつの空白。


 湊は白いページを見つめながら思った。

 父の探していたのは、失われた駅名でも幻のホームでもない。

 あの日、「帰れる」と信じていた人たちの軽さが、どこで誰か一人を取り残したのか、その境目だったのだ。

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