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潮待ちのレール  作者: たむ


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第六章 凪の底にあるもの

 雨のあと、海はかえって静かになった。


 翌朝、春口の港に立つと、水面はまるで一枚の薄い金属板のように平らだった。波がないわけではない。ただ、その動きがあまりに細かく、全体としては止まって見える。島影はくっきりと浮かび、船の影まで水の上にもう一つあるみたいに揺れていた。こういう日を、凪というのだろうと湊は思った。けれどその静けさは、安らぎというより、何かを深く沈めて見えなくしてしまう静けさにも感じられた。


 朝食の席で、汐里はいつもより少し口数が少なかった。

 焼いた鯵の身をきれいに外し、味噌汁をよそい、食後の茶を淹れる。その一つひとつに乱れはない。だが、昨日の資料で見た「待機」の文字や、篠原の言った「三崎の家に関わる古い話なら」という言葉が、彼女の中にも引っかかっているのだと分かった。


「今日は宿のほう、何かありますか」

 湊が訊くと、汐里は湯呑みを置いてから答えた。

「午前中に少しだけ仕入れに行くくらいです」

「手伝えることがあれば」

「ありますよ」

 彼女は少し笑った。

「今日は観光客じゃなくて、居候の顔してるから」


 その言い方が、妙にうれしかった。

 ここへ来てからまだ数日なのに、春口での時間はすでに東京の一週間より濃い。列車と船を追い、父の足跡をたどり、知らない土地の朝の匂いに馴染み始めている。その一方で、自分が何かの客であることも、まだ完全には消えていない。居候というのは、その中間にちょうどいい呼び方だった。


 午前中、湊は汐里と一緒に坂の上の商店へ歩いた。

 豆腐、味噌、干物、野菜、掃除用の紙。買うものはどれも特別ではない。けれど、その「特別ではなさ」が、湊には新鮮だった。東京では生活用品を買うことすら、仕事の合間に済ませるべき小さなタスクになっていた。ここでは坂を上り、店先で天気の話をし、季節の魚の値段を聞き、帰りに知り合いへ会釈をする。その往復そのものが生活の厚みになっている。


 店の帰り道、神社の石段の脇で、近所の老女が汐里を呼び止めた。

 白い割烹着に小さな買い物袋。顔中に皺が刻まれているが、目だけはやたらと強い。


「今度の祭り、あんた出るの」

「少しだけ顔を出します」

「少しだけ、じゃ困るのよ。若い人が少ないんだから」

「若くはないですよ、もう」

「この町では十分若いわよ」


 その調子でしばらくやり取りが続き、やがて老女の視線が湊に移った。


「あら、こないだの」

「こんにちは」

「宿の客?」

「はい」

「長いの?」

「少し」

「少しって何日」

「まだ決めてません」

「ふうん」


 老女はそれ以上詮索しなかった。だが、帰り際に汐里へだけ聞こえるような小さな声で、「あんたのお母さんに似てるわね、そうやって余所の人を家へ上げるところ」と言った。汐里は「そうですか」とだけ返したが、そのあとしばらく黙ったままだった。


 宿へ戻るころには日が高くなり、凪いだ海の照り返しが強くなっていた。

 昼食の準備をしながら、汐里はようやく口を開いた。


「さっきの人、うるさいでしょう」

「でも悪い人ではなさそうでした」

「悪くはないです。よく見てるだけで」

「この町の人はみんなそうですね」

「そうですね」

 汐里は包丁で葱を刻みながら言った。

「見てるし、覚えてる。でも全部は言わない」


 それは、この町そのものの性格のようだった。

 海も駅も人も、何かを知っているのに、知っている形のままは渡してこない。半分沈んだまま、潮のように寄せては返す。


 昼食のあと、宿の蔵をもう一度見せてもらうことになった。

 父のノートが見つかったあの蔵だ。薄暗く、乾いた木と古紙の匂いがする。棚には古い布団、籠、漆器の箱、帳簿、使われなくなった看板の板切れが積まれている。汐里は脚立に上がり、上段の箱を一つずつ下ろした。


「ここ、母が亡くなってからほとんど整理してないんです」

「お父さんは?」

「私が高校のときに再婚して、今は別の町に住んでます。ここは祖母が残してくれて、そのあと私が」

「一人で?」

「そういう流れで」


 言葉は簡単でも、その流れの中にいくつもの事情があったはずだ。

 湊は箱の中身を広げるのを手伝いながら、あまり不用意に踏み込まないようにした。


 古い宿帳がいくつか出てきた。

 達筆で宿泊客の名前が書かれている。魚市場の仲買人らしい名、船員、営業らしき会社名、学生風の個人名。父の署名はまだ見つからない。だが、何冊目かの宿帳の間から、薄い封筒が一枚こぼれた。


 宛名はない。

 中には写真が二枚入っていた。


 一枚目は、港の前で撮られた家族写真だった。

 若い女性と、まだ幼い女の子、その後ろに無口そうな男が立っている。女の子は五歳か六歳くらいだろう。よく見ると、それが子どものころの汐里だと分かった。女性は彼女の母なのだろう。面差しがどこか似ている。笑っているが、強く笑ってはいない。口元だけが少し上がり、目の奥は海の色みたいに静かだった。


 二枚目は、駅の待合室の前で撮られたらしい写真だった。

 赤い屋根。

 今の春口駅の待合室より、少し新しい。

 写真の端に、十代半ばくらいの少女が立っている。顔は横向きで完全には見えない。けれど帽子の白さだけが、褪せた写真の中でも妙に際立っていた。


 湊の呼吸が止まった。


「これ……」

 汐里も写真を覗き込み、言葉をなくした。

「白い帽子」

「たぶん」


 二人とも、しばらく黙って写真を見つめた。

 少女の姿は小さい。待合室の屋根の下に半分隠れるように立っていて、記念写真の主役ではない。偶然写り込んだだけかもしれない。だが、その偶然のほうがかえって本物らしかった。白い帽子の少女は、たしかにこの町の時間の中に立っていたのだ。


「裏、何か書いてある」

 汐里が写真をひっくり返した。


 鉛筆で薄く、こう書かれていた。


 ――春 待合室

 ――澄江と、千紘


 澄江。

 それは汐里の母の名前だった。


「お母さん……?」

 湊が思わず言うと、汐里は写真を持つ手を少し震わせた。

「母が、千紘と一緒にいた……」


 白い帽子の少女は、汐里の母の友人か、姉妹か、あるいはもっと近い存在だったのかもしれない。

 少なくとも、無関係の誰かではない。


「千紘は、お母さんの知り合いだったんですね」

「そういうことになります」

「話してくれなかったんですか」

「母の昔の話って、ほんとうに少ししか聞いてないんです」


 汐里は写真をそっと封筒の上に戻した。

 その顔には驚きだけではなく、もっと複雑な感情が浮かんでいた。自分の知らなかった母の時間が、こうして急に形を持って出てくることへの戸惑い。嬉しさというにはまだ遠く、喪失に似た痛みのほうが近いように見えた。


 蔵の中は、昼なのに薄暗かった。

 外では蝉が短く鳴き始めているのに、この場所だけ別の季節みたいだった。古いものは、出てきた瞬間に今へ繋がる。けれどそれは「戻る」ことではなく、知らない過去が今の足元に穴を開けることに近い。


「少し、外へ出ませんか」

 湊が言うと、汐里は小さく頷いた。


 宿の裏手には、海の見える小さな坂道があった。

 石垣の上に野草が伸び、その先に港の屋根と静かな水面が見える。風はほとんどない。凪いだ海はどこまでも落ち着いているのに、その落ち着きが逆に不安を呼ぶ。水が静かすぎると、底がどれほど深いのか分からなくなる。


 汐里は石段に腰を下ろし、しばらく写真を見たまま黙っていた。


「母は」

 やがて、ぽつりと言う。

「私が小学生のときに亡くなりました。病気だって聞かされて」

「はい」

「たしかに病気ではあったんです。でも、家ではその前後の話をほとんどしなかった。何がつらかったのか、何を気にしていたのか、どうしてよく駅のほうを見ていたのか、誰も説明しなかった」

「駅を?」

「ええ。子どものころ、母と買い物に行くと、時々春口駅の近くで立ち止まることがあったんです。ただ待合室のほうを見て、それから何でもない顔で帰る」


 湊は写真の白い帽子を見た。

 澄江と、千紘。

 母はその少女を知っていた。

 そして父は、その少女を探していた。


「母は、千紘のことを話したことがあります」

 汐里が続けた。

「でも、子どもの私にはよく分からない言い方だった。“待たせたままになった子がいる”って」

「待たせたまま」

「それ以上は言わなかった」


 その一言で、凪いだ海の静けさが急に重くなった気がした。

 待たせたままになった子。

 それは事故や失踪よりも、もっと生々しい。誰かが約束を果たせなかったという形を帯びているからだ。


「お母さんが?」

 湊が慎重に訊く。

「そう言ったのが、自分のこととしてなのか、家族のこととしてなのかは分かりません」

「……」

「でも、母はたぶん、そのことを抱えたまま生きていたんです」


 海の向こうで、小さな船が一艘だけ動いた。

 水面がほとんど揺れていないので、その航跡だけがはっきり残る。まっすぐではない、少し曲がった白い筋。まるで、一度沈んだ時間がそこだけ表面に浮かび上がってきたようだった。


「相沢さん」

 汐里が写真から目を上げた。

「あなたのお父さん、母と会っていたかもしれません」

「そう思います」

「だとしたら、母は何を知っていたんでしょう」

「分かりません。でも、父が千紘を探していたなら、お母さんに聞いていた可能性は高い」

「そうですよね」


 彼女はそう言ったきり、しばらく黙った。

 その沈黙は拒絶ではなかった。むしろ、言葉にすると崩れてしまうものを、両手で持ちこたえているような沈黙だった。


 午後、二人は宿の仕事をしながら、昨日までの断片を改めて並べてみた。

 父のノート。

 待合室の古い時刻表。

 篠原が持ってきた「潮待ち浜 待機」と書かれた生活者の時刻表。

 神尾浜の仮場。

 橘浜の船着場。

 島で聞いた、待つことが事情と結びついているという話。

 そして、澄江と千紘の写真。


「千紘は、母の友達だったのかもしれません」

 汐里が言う。

「姉妹、ではなく?」

「母に姉がいたという話は、聞いたことがないです。でも、家でそういう話を避けていたなら、絶対とは言えない」

「そうですね」

「ただ、写真の距離感が、友達とも家族とも言える感じで……」


 湊は頷いた。

 写真の二人は、仲良く並んで笑うというより、同じ場所に一緒にいることが自然な人たちに見えた。近すぎず、遠すぎない。長い時間を共有してきた距離。


「父は何を後悔してたんでしょう」

 湊が言うと、汐里は少し考えてから答えた。

「置いていったこと、かもしれない」

「千紘を?」

「あるいは、そのことを澄江さん――母に、きちんと言えなかったこと」


 その可能性は、湊にもずっとどこかで引っかかっていた。

 父は誰かを裏切ったのかもしれない。

 あるいは、救えなかったのかもしれない。

 どちらにせよ、その傷の輪郭を家庭の中へ持ち込めなかったのだろう。


 夕方近く、汐里は唐突にこう言った。


「少し、母の部屋を見ます」

「今から?」

「はい。今じゃないと、また閉じてしまいそうだから」


 その部屋は二階の一番奥にあった。

 普段は物置のように使っているらしく、扉を開けると布の匂いと、古い化粧品のかすかな香りが混じっていた。小さな鏡台、箪笥、押し入れ。時間が完全に止まっているわけではないが、進みすぎてもいない部屋だった。


 箪笥の下段から、布に包まれたノートが出てきた。

 汐里が慎重に開く。家計簿かと思ったが、違った。短い日記のようだった。毎日ではない。月に数回、思いついたときにだけ何かを書いている。字は整っていて、どこか父のノートと似た「感情を直接書かない」書き方だった。


 何ページかをめくったところで、汐里の指が止まる。


「……これ」


 湊が隣から覗くと、そこにはこうあった。


 ――春口駅で、またあの人を見た。

 ――千紘のことをまだ探している。

 ――私は何を言えばいいのか分からなかった。

 ――待たせたままにしたのは、誰だったのだろう。


 部屋の空気が、少し変わった。


 あの人。

 父のことだろう。

 澄江は、父と再会していた。

 しかも千紘のことを話題にしていた。


「母は、父と会ってた」

 汐里がかすれた声で言った。

「そうみたいですね」

「私、何も知らなかった」


 その言葉には怒りより、置いていかれた寂しさのほうが強く滲んでいた。

 母にも父にも、それぞれの沈黙があり、その沈黙の外側で自分は育ってきた。いま、その外側だったはずのものが、ひとつずつ部屋の中へ戻ってきている。


「もう少し先も見ていいですか」

 湊が訊くと、汐里は無言で頷いた。


 次のページには、こう書かれていた。


 ――千紘の白い帽子を、まだ海の夢で見る。

 ――あの日、わたしたちはどちらも子どもだった。

 ――約束を決めたのは大人たちなのに、待つのはいつも子どもだった。


 湊は目を閉じたくなった。

 約束を決めたのは大人たちなのに、待つのはいつも子どもだった。


 それはこの土地の、いや多くの土地の現実なのかもしれない。

 船の時刻も、列車の都合も、仕事も、生活も、大人の事情で動く。

 その継ぎ目に置かれた子どもたちは、待つしかない。

 千紘は、その一人だったのだろうか。


 窓の外で、遠く列車の音がした。

 夕方の便だろう。

 線路は見えないが、音だけが部屋へ届く。

 誰かを運び、誰かを連れ去り、また何事もなかったように次の駅へ向かう音。


「母は」

 汐里が低く言った。

「千紘を知ってた。父親の……あなたのお父さんとも会ってた。なのに、どうして何も言わなかったんだろう」

「言えなかったのかもしれません」

「私が子どもだったから?」

「それもあるでしょうし……言葉にすると、自分もその場所へ戻らないといけなかったからかもしれない」


 汐里はノートを閉じ、膝の上に置いた。

 その横顔は泣いていなかった。けれど、泣かないことがかえって切実だった。


 夕食の支度をしながらも、二人のあいだには澄江の手記の余韻が残り続けた。

 魚を焼く匂い。

 味噌の湯気。

 皿の当たる音。

 暮らしの音はいつも通りなのに、その下に別の時間が流れている。

 凪いだ海の下に、見えない潮が動いているように。


 食後、港のほうへ少しだけ歩いた。

 空は薄く紫がかり、海は鏡のような静けさを保っている。岸壁のロープも、船も、建物も、みな水面に二重に映っていた。


「こういう海、少し怖いです」

 湊が言うと、隣を歩く汐里が小さく頷いた。

「分かります」

「静かすぎて、何でも沈めてしまいそうで」

「母も同じことを言ってました」

「え?」

「凪の日は、いなくなったものが戻ってこれない気がするって」


 湊は足を止めた。

 澄江もまた、この海に何かを見ていたのだ。

 美しさだけではない、戻れなさを。


 岸壁の先で、ひとつだけ灯りのついた船が揺れている。

 その揺れさえ、今夜の海ではほとんど見えない。


「相沢さん」

 汐里が言った。

「私、母のことをもっと知りたいです」

「はい」

「あなたのお父さんのことも。でも、知れば知るほど、たぶん簡単には好きになれない部分も出てくる」

「それでいいと思います」

「いいんでしょうか」

「父親って、死んだ途端に“いい人だった”か“許せない人だった”かのどちらかにされがちですけど、本当はもっと中途半端なものだと思うので」


 汐里は少し驚いたようにこちらを見て、それからほんの少しだけ笑った。


「それ、たぶん正しいです」

「正しくなくても、そう思わないと追いつけない気がします」

「私も」


 二人はしばらく、何も言わず海を見た。

 凪の海は、感情を映さない鏡みたいだった。

 だからこそ、隣にいる人の気配だけがよく分かる。

 言葉にしなくても、同じものの縁に立っていることが。


 宿へ戻るころには、空に最初の星が出ていた。

 港町の夜は深くなるのが早い。けれど、その暗さの中にも、遠い駅の灯りや船の灯りが細く点っている。完全な闇ではない。失われたものがあっても、残っているものも確かにある。そういう夜だった。


 寝る前、湊は父のノートの余白に小さく書き足した。


 ——約束を決めたのは大人たちなのに、待つのはいつも子どもだった。

 ——凪の海は、きれいすぎて残酷だ。

 ——底にあるものを隠すから。


 書き終えて目を閉じると、白い帽子の少女ではなく、待合室の前に並んで立つ二人の少女の後ろ姿が浮かんだ。

 一人は澄江。

 もう一人が千紘。

 二人ともまだ子どもで、これから何を失うのかを知らないまま、海の見える駅のほうを見ていた。


 凪の底には、まだ見えていないものがある。

 それを引き上げるたび、海はもう少しだけ重くなる気がした。

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