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潮待ちのレール  作者: たむ


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第四章 島影を縫う列車

 翌朝、海は薄い絹を何枚も重ねたような色をしていた。


 晴れているのに、空はどこか白く、島々の輪郭は昨日よりもやわらかい。春口の港には朝の船が一艘、もう出る支度をしていて、岸壁では長靴の男がロープを巻き取っていた。船のエンジンが低く鳴るたび、水面に細かい皺が立つ。その向こうを、まだ人の少ない線路が町の端から端へ、静かに伸びていた。


 湊は宿の朝食を終えると、父のノートと昨日見つかった紙片を鞄に入れた。

 今日の行き先は橘浜。春口から列車で三駅、途中で小さな港町を一つ挟む。海に近い駅だと汐里は言った。海に近い駅ばかりを父が巡っていたのは、偶然ではないはずだ。船と列車が交わる場所、人が渡り、人を待つ場所。父はきっと、そういう境目にだけ残る何かを追っていた。


「お昼、戻れそうですか」

 玄関で靴を履きながら湊が訊くと、帳場の前に立っていた汐里は首を振った。

「たぶん無理です。橘浜の帰りに、もし時間が合うなら島へ渡る便もありますから」

「島?」

「向かいの小島です。父のノート、少し見せてもらってもいいですか」


 湊が差し出すと、彼女はページをめくり、ある箇所を指先で押さえた。

 そこには駅名と時刻のほかに、細い字で「昼便、志々島へ」「帰り、四時十五分」と書かれていた。さらに隅に、「船を待つ顔はみな同じではない」とある。


「これ、春口の港から出る船じゃなくて、橘浜の先の小さな渡し船だと思います」

 汐里が言う。

「今も出てるんですか」

「本数は減ったけど、たしか残ってるはず。買い物や通院で使う人がいるから」

「父はその島にも?」

「たぶん」


 湊はノートを受け取り、父の字を見下ろした。

 鉄道だけではない。そこから先の船まで、父は記録している。線路の先へ行くために、さらに海を渡る。春口に来てからずっと感じていたことだが、この土地の移動は目的地へ一直線には伸びない。鉄道と船、坂と港、道と潮位。人はそれらのあいだを折れ曲がりながら進む。父がなぜ「電車と船に任せろ」と書いたのか、その言葉は単なる旅情ではなく、もっと土地の骨格に近いものだったのかもしれない。


「無理しないでくださいね」

 汐里が言った。

「今日は暑くなりそうだし、海沿いの駅は日陰が少ないから」

「はい」

「それと」

「それと?」

「島へ渡るなら、最終の時間をちゃんと見てください。こっちは都会みたいに、逃しても次がすぐ来るわけじゃないから」

「肝に銘じます」


 彼女は小さく笑った。

 その笑い方が、昨日より少しだけ近かった。


 春口駅のホームには、買い物袋を提げた年配の女性が二人、すでに列車を待っていた。花柄の帽子をかぶったそのうちの一人が、湊の顔を見て「あら、お客さん」と言い、もう一人が「昨日も乗ってた人よね」と続けた。都会なら見知らぬ相手同士の視線は通り過ぎるだけだが、この町では同じ列車に二度乗れば、それだけで薄い認識の糸が結ばれるらしかった。


「どこまで?」

 花柄の帽子の女性が訊く。

「橘浜です」

「まあ、あっちは何にもないわよ」

「海がありますから」

 湊がそう答えると、二人は顔を見合わせて笑った。

「それを言うなら、こっちもだいたい海はあるのよ」


 列車が入ってきた。

 今日の車内は昨日より少し賑やかで、部活帰りではない高校生たちの集団と、通院らしい年配客、それに大きな保冷バッグを抱えた男が一人いた。湊は窓際に座り、発車と同時に少し揺れる車体に身を預ける。


 線路はすぐ海を見せ、すぐに隠した。

 右手に現れた湾は朝の光を受けて白く浅く見えるのに、カーブを曲がると今度は低い山の斜面が迫り、みかん畑の緑が窓いっぱいに広がる。畑の石垣はどれも古く、土を押さえ、海風を受け止めながら、何十年もそこにあるらしい。畑のあいだから時々、小さな祠や、錆びた農機具の影が見える。風景は穏やかなのに、その穏やかさは決して単純ではなかった。人が手を入れ続けなければ、すぐに崩れ、荒れ、草に呑まれてしまう地形の上に、この静けさは成り立っている。


 ふと、父のノートの一節が頭をよぎった。


 ——せとうちは、待つことで成り立つ場所ではない。

 ——待ちながら、手を動かし続ける場所だ。


 昨日までは意味を掴みかねていたその文が、車窓を見ていると少しだけ理解できた。

 船を待つ。列車を待つ。季節を待つ。潮を待つ。

 だが、そのあいだ人は何もしないわけではない。網を繕い、畑の石を積み、坂の町を掃き、魚を干し、客を迎える。この土地の静けさは、休止ではなく持続の静けさなのだ。


 途中の小駅で、保冷バッグの男が降りていった。

 代わりに、小さなリュックを背負った中年の男性が乗ってきて、通路を挟んだ席に座る。その人は窓の外を見るなり、「今日は霞んどるなあ」と独り言のように言った。誰に話しかけたわけでもなかったが、向かいの席の年配女性がすぐ「午後から晴れるわよ」と返す。車内にはそんなやり取りが何度も生まれ、消えていった。見知らぬようでいて、完全な他人でもない。土地の列車というのは、たぶんこういう半分だけ開かれた共同体なのだろう。


 橘浜駅は、想像していたよりさらに小さかった。


 ホームが短い。

 駅舎もない。

 線路脇に簡素な待合の屋根があるだけで、その向こうにはすぐ海が見えた。春口や南瀬戸口のように駅前に小さな商店街があるわけでもない。道路が一本、海沿いに伸び、その反対側に数軒の家と倉庫が見えるだけだった。


 列車が去ると、音の抜けたあとの静けさが一気に押し寄せる。

 蝉はまだ本格的ではない。波の音も穏やかで、むしろ岸壁のほうから聞こえる金属のかすかな触れ合いのほうが耳に残った。ロープか、係船具か、そういうものが風で動く音だった。


 ホームの端まで歩くと、海が近かった。

 近いというより、駅が海の手前でぎりぎり踏みとどまっているような感じだ。防波堤の向こうでは、小さな漁船が二艘、ほとんど止まっているような速度で沖へ出ている。島は手が届くほど近く見えるのに、そこへ渡るにはやはり船が必要だ。瀬戸内では「見える」と「行ける」が簡単には一致しない。


 待合のベンチに腰を下ろし、湊は父のノートを開いた。

 橘浜に印をつけたページには、時刻のほかにいくつか断片が書かれている。


 ——昼下がり、売店なし。

 ——島へ渡る船、待合の陰に三人。

——千紘は笑っていなかった。

 ——待っていたのではなく、待たされていたのかもしれない。

 ——約束の相手は列車ではなく船か。


 湊は最後の一文に目を止めた。

 約束の相手は列車ではなく船か。


 それは、ごく当然のようでいて、決定的な差だった。これまで父は海の見える駅を回っていたため、湊は少女が「列車を待つ人」だと思い込んでいた。だが、駅で海を見る人が待っているのは、必ずしも列車とは限らない。島から来る船、あるいは島へ帰るべき誰か。港と駅が近い場所では、待つ対象はいくつもの交通のあいだをずれる。


 父はそのずれに気づいていたのかもしれない。


 ホームを下り、海沿いの道を歩くと、ほどなく小さな船着場が見えた。

 コンクリートの岸壁に簡素な屋根付きの待合がつき、時刻表が一枚、柱に張られている。船便は一日数本。午前が二便、午後が三便。観光のためではなく、生活のために最低限残っている便数だった。


 待合には、先客が二人いた。

 買い物籠を足元に置いた老婦人と、帽子を目深にかぶった初老の男。互いに会話はしていないが、気まずさもない。湊が入ると、老婦人が一度だけ目を上げ、「今日は揺れないね」と言った。誰に向けた言葉か曖昧なまま、それでも初老の男が「風がないから」と答える。待つ場所には、こういう会話の生まれ方があるのだと思った。


 時刻表を見ると、次の船は二十分後だった。

 乗るかどうか迷う時間としては、ちょうどよかった。

 ここまで来て、父が渡ったかもしれない島へ行かずに戻る理由も見つからない。湊は財布から小銭を確かめ、船賃の額を頭に入れて待合の端に立った。


「島の人じゃないね」

 老婦人が言った。

「はい」

「観光でもなさそう」

「そう見えますか」

「荷物が少ないから。観光の人は、もっと撮る気の顔してる」


 湊は少しだけ笑った。

 たしかにカメラをぶら下げてもいなければ、景色に驚いた反応もあまり見せていない。父の痕跡を追うほうに意識が向きすぎて、この美しい風景の中にいてもなお、自分は何かを探す人の顔をしているのだろう。


「何しに島へ?」

 今度は初老の男が訊いた。

「少し……昔のことを調べに」

「役場の人か」

「違います」

「新聞か」

「それも違います」

「じゃあ厄介ごとか」

「そうかもしれません」


 その答えに、男は帽子のつばの下で小さく笑った。


「厄介ごとはたいてい、島に残る」

「どうしてですか」

「行き場がないから」


 船が来るまでのあいだ、誰もそれ以上は訊かなかった。

 湊は待合の柱にもたれ、海を見た。水面にはきらめきがあるのに、全体としてはどこか曇った鏡のようで、底に沈んだものを隠している感じがした。父も、この待合で船を待ったのだろうか。千紘もまた、列車ではなく船を気にしてここに立っていたのだろうか。


 やがて、島影のあいだから小さな定期船が現れた。

 白い船体に青い帯。客を大勢乗せるつくりではなく、十数人もいればいっぱいになりそうな大きさだった。岸壁に寄ると、船員が手慣れた動きでロープを取り、乗船口の板を渡す。待合にいた三人は黙って立ち上がり、順番に乗り込んだ。湊もそれに続く。


 船内には、潮と油の匂いがあった。

 客席のビニール張りの椅子に腰を下ろすと、窓の外に橘浜の船着場がすぐ見えた。駅は少し高い位置にあって、線路が白く細く光っている。列車と船。別々の時間で動いているようでいて、この土地ではたぶん、人の一日はその両方の時刻表の上に乗っている。


 船が離岸すると、水面の揺れが椅子越しに伝わってくる。

 音は低く、一定だった。列車の揺れとは違う。レールの継ぎ目の規則ではなく、波のゆらぎに従う揺れ。だが不思議なことに、湊にはその二つが対立しているようには思えなかった。むしろ鉄道が陸の上で刻む時間の続きを、海の上で船が受け持っているようだった。


 志々島は、十五分ほどで着いた。

 島と言っても大きくはない。船着場の先に、小さな集落がひとかたまり見えるだけで、その背後にはすぐ斜面が立ち上がり、柑橘畑と雑木林が混じっている。港に降りると、日差しは橘浜よりさらに近く感じられた。空も海も、陸との距離が狭い。


 観光案内の看板は色褪せていた。

 港の脇に自動販売機が一台、古い郵便ポストが一つ。その向こうに細い道が一本、集落へ入り込んでいる。降りた客はそれぞれ迷いなく散っていき、湊だけがしばらく港に立ち尽くした。


 父はここで何を見たのだろう。


 歩き始めると、島の道はすぐ坂になった。

 石垣が両側に続き、その上から夏みかんの枝が張り出している。古い家々の戸は閉じられているものも多いが、完全な廃屋ではない。干し網、プラスチックの桶、植木鉢、新聞受け。人がいまも住んでいる痕跡が細く、しかし確かに残っている。島の生活はたぶん、線の太さではなく、続いていること自体で成立している。


 坂の途中で、小さな商店のような建物が見えた。

 看板は外されているが、店先にアイスの冷凍ケースだけが残っている。開いているのか閉まっているのか分からずに覗くと、奥から声がした。


「何かいるなら言って」


 出てきたのは、七十代くらいの女性だった。

 腰は少し曲がっていたが、目は驚くほど明るい。湊がアイスを一本買うと、女性はおつりを渡しながら何気なく言った。


「本土の人?」

「ええ」

「珍しいね。お墓参りの時期でもないのに」

「少し、人を探していて」

「生きてる人?」

「……たぶん、昔ここにいた人です」


 女性はその答えに、すぐには驚かなかった。

 むしろ「そういうことか」という顔をした。


「名前は?」

「千紘、という女の子です」

「千紘」


 女性は眉を寄せ、少し考え込んだ。

 それから、店の奥の丸椅子を顎で示した。


「座りなさい。立ったまま考えると、昔のことは逃げるから」


 店内は薄暗く、外の光がそのまま入ってくる玄関口だけが白かった。

 壁には古いカレンダーがかかったままになっていて、もう何年も前のものらしい。冷凍ケースの唸る音だけが静かに続いている。


「千紘っていう名は、聞き覚えがあるよ」

 女性が言った。

「島の子かどうかは、すぐには言えないけど」

「駅にいた子だと聞きました」

「駅に?」

「海の見えるホームによく立っていたと」

「それなら、本土側の子だね。この島の子は、駅には立たない。立つなら船着場だ」


 その言葉は、湊の胸にすとんと落ちた。

 当然のことなのに、はっきり言われるまで掴めていなかった。島の人間にとって「待つ場所」はまず船着場だ。駅は、本土側へ渡ってから初めて意味を持つ。千紘が駅に立っていたのなら、彼女は島の人間ではないか、あるいは島に来る側の人間だった。


「でもね」

 女性は続けた。

「千紘って子が、誰かを待たされてたっていうなら、話は別かもしれない」

「どういうことですか」

「昔は、子どもでも大人の都合に巻き込まれたから。船が遅れる、仕事が延びる、迎えが来ない、親が帰らない、約束がずれる。こっちでは“待つ”は事情とセットなんだよ」


 湊は父のメモの一文を思い出した。

 待っていたのではなく、待たされていた。


「その子が誰に待たされていたか、分かりますか」

「分からないねえ。でも、港と駅の両方に関係があるなら、大人の仕事の都合か、家庭の事情か、どちらかだろうね」


 女性はそう言いながら、冷凍ケースのふたを一度押さえた。

 中の冷気が逃げないようにする、ただそれだけの仕草なのに、妙に生活の重みがあった。


「若い男の人と一緒にいたことがあるって聞きました」

 湊が言うと、女性は顔を上げた。

「学生みたいな?」

「ええ」

「……そういう人なら、見たことがある気もする」


 湊の喉が乾いた。


「どこで」

「船よ。昔、昼の便にたまに乗ってた。島の人じゃないのに、観光客でもなかった。誰かを訪ねる感じでもなくて、着くとすぐまた帰るときもあった」

「それが父かもしれません」

「そうかもね」


 女性はあっさり受け止めた。


「でも、その人が千紘と一緒だったかは分からないよ。記憶って、こういう小さな島じゃ混じるから」

「はい」

「ただ、何か探してる顔の人は覚えてる。島にはね、何か探しに来る人が時々いる。だいたい、もう見つからないものを」


 その言葉が、店内の薄暗さの中で静かに沈んだ。


 店を出たあと、湊は集落の上まで少し歩いた。

 坂道の途中から港が見え、そこにさっき降りた定期船が小さく繋がれている。その向こうに本土があり、橘浜の駅は見えないが、線路の位置だけは何となく分かる。船と列車。待つ場所は違っても、誰かを待つ気持ちはそれらのあいだを行き来するのだろう。


 父はこの島で何を確かめたのか。

 千紘が島の子ではないことか。

 あるいは、彼女が待っていた相手が、船に関わる人間だったことか。


 帰りの船まで少し時間があり、湊は港の防波堤に腰を下ろした。

 海面は昼の光をいっぱいに抱え、どこまでも穏やかだった。だが、その穏やかさはのどかさだけではない。島と本土の距離は近いのに、船の便を逃せば簡単に断たれる。暮らしも約束も、この細い水路の上で揺れている。父が追っていたものは、人ひとりの失踪や思い出だけではなく、この土地の「行けるはずなのに、行き着けない」という感覚そのものなのかもしれなかった。


 帰りの船に乗ると、客は湊ひとりだった。

 操舵室の横の席に座り、本土が近づくのを見る。橘浜の船着場、その先の待合、さらに上の線路。ちょうど船が岸に寄るころ、崖の上を列車が一本通過した。銀色の車体が陽を受けて一瞬だけ強く光り、すぐ木立の向こうへ消える。陸の時間と海の時間が、ぴたりと重なる瞬間だった。


 湊はその光景から目を離せなかった。

 千紘は、こういうふうに船と列車を見比べながら誰かを待っていたのだろうか。

 父は、それをどこから見ていたのだろうか。


 橘浜へ戻ると、船着場の待合には今度は誰もいなかった。

 ただ、柱に張られた時刻表が風もないのに微かに揺れている。湊は待合の隅に立ち、父のノートを開いた。ページの余白に、今日の自分の字で書き加える。


 ——橘浜。船着場。

 ——駅に立つ者が待つのは列車とは限らない。

 ——島の人は駅を待たない。船を待つ。

 ——千紘は本土側の子か、島へ来る側の子。

 ——父は鉄道を追っていたのではなく、鉄道と船のあいだで起きたことを追っていたのかもしれない。


 書き終えて顔を上げると、海の上に薄い靄が出始めていた。

 午後の熱で輪郭の緩んだ島々は、まるで少しずつ記憶へ戻っていくように見える。近いはずのものほど、かえって手触りを失いやすい。瀬戸内の景色はいつも、そういう不思議な距離をまとっていた。


 春口へ戻る列車まで、少し待ち時間があった。

 湊は駅の待合のベンチに座り、向かいの海を見た。ホームに人影はなく、風だけが時々、線路際の草を揺らす。こうして何も起きない時間のなかにも、父の探し続けたものは確かに沈んでいる気がした。


 不意に、ホームの端に白いものが見えた。


 帽子かと思った。

 心臓がひとつ強く打つ。


 だが次の瞬間、それは風に飛ばされた買い物袋だと分かった。袋は線路際の柵に引っかかり、白く揺れているだけだった。湊は自分の緊張に苦笑した。けれど、その拍子抜けのあとに残った感覚は小さくなかった。自分はもう、風景の中の些細な白さにまで反応するところまで来ている。父の見ていた世界へ、少しずつ視力を合わせてしまっているのかもしれない。


 列車は定刻より二分遅れてやって来た。

 その「二分」が、この土地では遅れというほどの意味を持たないことも、湊はもう分かり始めていた。列車に乗り込むと、車内は夕方前のゆるい疲れに満ちている。学校帰りの子ども、買い物帰りの人、仕事を終えた作業着姿の男。誰もが自分の持ち場へ戻る途中で、その途中の時間を黙って共有している。


 窓の外に、島影が再び流れ始める。

 線路は海を離れ、また近づき、時に崖の裾を縫うようにして走る。まさに、島影を縫う列車だと思った。列車そのものが風景を切って進むのではなく、もともとそこにある海と島のあいだを慎重に通してもらっているような走り方だった。


 春口へ着くころには、光は少しだけ傾いていた。

 ホームに降りると、潮の匂いに混じって魚を焼く匂いがした。港町の夕方だ。遠くで子どもの声がして、坂道の上では誰かが洗濯物を取り込んでいる。大きな出来事の起きない夕暮れ。けれど湊には、それが何より大事なもののように思えた。失われた時間を追う旅は、同時に、いま続いている時間の手ざわりを確かめる旅でもあるのだ。


 宿へ戻ると、汐里が台所で魚をおろしていた。

 銀色の鱗が包丁の先で光り、流しの水が細く鳴っている。


「おかえりなさい」

「ただいま」

 言ってから、湊は自分で少し驚いた。

 旅先の宿で「ただいま」と口にしたのはいつぶりだろう。


 汐里はその言葉に何も言わず、ただ一度だけ目を上げて微かに笑った。


「橘浜、どうでした」

「父は鉄道だけを見ていたわけじゃないかもしれません」

「船?」

「ええ。千紘が待っていたのは、列車じゃなくて船だった可能性があります」

「なるほど……」


 彼女は手を止め、少し考えた。


「この土地では、そのほうが自然ですね」

「島の人は駅を待たない、と言われました」

「たしかに」


 湊は鞄からノートを取り出し、今日聞いた話を伝えた。

 島の小さな店の女性のこと。島の人間にとって待つ場所は駅ではなく船着場だということ。父らしき若い男が昼の便に乗っていたかもしれないこと。汐里は黙って聞き終えると、流しの水を止め、布巾で手を拭いた。


「相沢さん」

「はい」

「少しだけ、わたしにも見えてきた気がします」

「何がですか」

「あなたのお父さんが追っていたものの形が」


 窓の外では、夕方の海が静かに色を変え始めていた。

 青でも灰でもなく、深い金属のような色。島の輪郭は昼より濃くなり、そのあいだを通る船の白さだけがくっきりと浮いている。


「たぶん、お父さんは“人”を探していたんです」

 汐里が言う。

「でも、その人そのものというより、“その人が取り残された場所”を」

「取り残された場所」

「駅と港のあいだ。船と列車のあいだ。帰るはずの時間と、帰れなかった時間のあいだ」


 その言葉は、まるで父のノートに書かれていたかのように、しっくりと湊の中へ入ってきた。


 列車は島影を縫って走る。

 船は島影をほどいて進む。

 そして人はそのあいだで、行き違い、待ち、置いていかれる。


 もし千紘が待たされていたのだとしたら、彼女が取り残されたのは単なるホームの上ではない。

 この土地の移動そのものの隙間だったのかもしれない。


 湊は父のノートを閉じた。

 海の匂いが夕暮れと一緒に濃くなる。遠くで列車の音がした。見えない線路の上を、誰かの一日を乗せた時間がまた通り過ぎていく。


 そして湊は、父がこの土地に何度も戻った理由を、まだ輪郭だけながら確かに感じ始めていた。

 美しいからではない。懐かしいからでもない。

 ここに、時間の継ぎ目が残っているからだ。

 人がうまく言葉にできなかった別れや、説明されないまま過ぎていった一瞬が、海と鉄路のあいだに、今も薄く堆積しているからだ。


 その夜、湊は夢を見なかった。

 けれど眠りに落ちる直前、白い帽子の少女ではなく、海を見下ろすどこかの高台に立つ若い父の背中が浮かんだ。

 振り返らないその背中は、以前より少しだけ近かった。

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