第三章 レモン色の午後
神尾浜から戻った日の午後、春口の光は朝よりもあきらかにやわらかくなっていた。
海辺の町の午後には、都市の午後とは違う傾きがある。時計の針が同じように進んでいても、光の移ろい方が人の気配と強く結びついているせいかもしれない。港では午前の作業を終えた船が揺れ、商店の軒先には昼寝をする猫が現れ、坂道の影は家々の壁に沿って少しずつ長くなる。春口の午後は、何かが終わりに向かう時間というより、一日の芯がいちばん静かに見える時間のようだった。
宿へ戻ると、玄関に見慣れないサンダルが一足あった。
小柄な年配の女性が上がり框に座り、汐里と話している。白髪をきっちり後ろでまとめ、薄紫のカーディガンを羽織っている。背は低いが、座っていても妙に背筋が通って見えた。湊が戸を開ける音に気づくと、その人はゆっくり振り返り、湊の顔をじっと見た。
「この人?」
女性が言った。
「ええ」
汐里が答える。
「相沢さんです」
「そう」
女性はその短い返事だけで湊を値踏みするような気配を見せ、それから「おかえりなさい」とも「こんにちは」とも違う、もっと生活に近い調子で言った。
「暑かったでしょう」
「少し」
「神尾浜まで行ったって聞いたから」
「どうしてそれを」
「この町じゃ、そういうのは風より早いの」
言い方はきつくないのに、妙に核心を外さない人だった。
汐里が湊に向かって説明する。
「うちの近所の、早苗さんです。元は港の食堂をやっていて、今は半分隠居みたいなものですけど」
「半分ね」
早苗と呼ばれた女性は鼻で笑った。
「隠居ってほど暇じゃないわ。魚の顔も人の顔も、毎日一応見てるもの」
湊が頭を下げると、早苗は視線を少しだけ和らげた。
「相沢さん、亮介さんの息子さんなんでしょう」
「父をご存じなんですか」
「知ってる、というほどでもないけど、顔は覚えてる」
その一言で、湊は立ったままになった。
こうして町のどこへ行っても、父を見たという人が静かに現れる。そのたびに、死んだ人の輪郭がこちらの知らない場所でまだ生活の中に残っていることを思い知らされる。
「座ったら」
汐里が麦茶のグラスを置いた。
「早苗さん、さっきからずっと待ってたんです」
「待ってたっていうと大げさよ。気になっただけ」
座敷に座ると、畳の匂いと麦茶の冷たさが、神尾浜の海風で熱くなった身体を少しずつ落ち着かせた。早苗はまっすぐに湊を見たまま、躊躇なく話し始めた。
「昔ね、亮介さんがうちの食堂に何度か来てたの。港のそばにあった、今はもう閉めた食堂」
「どんな人でしたか」
「寡黙」
即答だった。
「でも、何も見てない人の黙り方じゃなかったわね。食べながらでも窓の外を見てる。人の話を聞いてるようで、別のこともずっと考えてる。そういう顔だった」
「何を聞いていましたか」
「女の子のことよ」
湊は一瞬、言葉を飲み込んだ。
「白い帽子の?」
「そう」
汐里も黙って聞いている。
早苗はグラスを持ち上げ、ひと口だけ麦茶を飲んでから続けた。
「名前までは最初、言わなかったの。海の見える駅によくいた子を知らないかって、そんな聞き方だった。でも、そのうち“千紘”って言ったことがある」
「千紘……」
「ええ。苗字までは聞かなかったし、私も知らない。けど、あのころ、この辺では見かける子だった。よく白い帽子をかぶってた。帽子というより、夏の麦わらを白くしたような軽いの。顔立ちははっきり覚えてないのに、帽子だけは妙によく覚えてるのよね」
千紘。
夢の少女に、初めて名前が与えられた気がした。
「その人は、春口の人ですか」
「さあ。島の子だったかもしれないし、親の都合でこっちに来てたのかもしれない。あの時代は、人の行き来が今よりもっと複雑だったから」
「父とは、どういう関係だったんでしょう」
「そこまでは知らないわ」
早苗はあっさりそう言った。
余計な想像を足さない人らしかった。
「ただね、亮介さんは、その子を懐かしがってるようには見えなかった。会いたがってるとも少し違った。確かめたい人の顔をしてた」
「確かめたい」
「生きてるかどうか、とか。あのとき何があったのか、とか。そういう顔」
朝、藤堂が口にしたのと同じ言葉だった。
父は懐旧ではなく、確認のために戻ってきていた。何か、決着のつかなかったことのために。
「それで、神尾浜はどうだったの」
早苗が訊く。
「ホーム跡みたいな場所がありました」
「まだ残ってたのね」
「ご存じなんですか」
「そりゃ、あのへんで育ったんだもの。昔、子どものころは近づくなってよく言われたわ」
湊は身を乗り出した。
「なぜですか」
「危ないから、が建前」
「本当は?」
「さあね」
そう言いながらも、早苗の目は少しだけ遠くを見た。
「海のそばの“待つ場所”には、いろんなものが集まるのよ。船を待つ人、列車を待つ人、帰ってくる誰かを待つ人、待っても無駄だと分かっていても立ち尽くす人。そういうのは、土地に残る」
「土地に残る」
「ええ。物じゃなくて、気配としてね」
それは怪談のようでもあり、長く土地に生きてきた人間の実感のようでもあった。
湊は神尾浜のコンクリートの縁を思い出す。列車が通った一瞬だけ、そこが現役のホームみたいに白く際立って見えたこと。誰かに見られているような感覚。足元に埋もれていた白い紙片。
「拾わなかった?」
早苗が不意に言った。
「え?」
「神尾浜で、何か落ちてるもの」
「……拾っていません」
「それでいいわ」
湊は思わず汐里を見た。
汐里もまた、少しだけ眉を上げていた。どうやら早苗は、汐里が電話で言ったことと同じことを知っているらしい。
「昔から言うのよ」
早苗は淡々と続けた。
「待つ場所にあるものは持ち帰らない。持ち帰ると、誰のものでもない時間まで一緒に連れてくるからって」
「迷信ですね」
「そうね。でも、迷信って、意味がなくなったあとにも形だけ残るでしょう」
その言い方まで、汐里とほとんど同じだった。
この土地では、理由を失った言い伝えだけが、骨のように残っていくのかもしれない。
早苗が帰ったあと、湊は部屋に戻り、父のノートを改めて広げた。
すでに何度か目を通したはずなのに、今度は千紘という名前がどこかに書かれていないかという視点で見始めると、ページの意味が少し変わる。潮位と風向、列車の通過時刻、港の混み具合、曇り空の下の島影。そうした実務的な記録の隙間に、ごく短い文がいくつか挟まっている。
——白い帽子は、遠くからでもわかった。
——待つことに慣れていたように見えた。
——こちらが見ていることに、先に気づいていた。
名前はない。
だが、これが同じ少女を指していることは明らかだった。
さらにページを繰っていくと、駅名の横に小さな丸がつけられている箇所がいくつかある。春口、神尾浜、その先の「南瀬戸口」、そして読みにくい字で「橘浜」と見える地名。どれも海の近くの駅なのだろう。父は少女を、あるいは彼女の記憶を、そうした駅の列の中で追っていたのかもしれない。
部屋の外から、風鈴の短い音がした。
窓を開けると、午後の海は陽を受けて白くきらめいている。強い青ではない。光が細かく砕け、銀と淡い水色のあいだを絶えず揺れていた。港の向こうの斜面には柑橘畑があり、その緑がまぶしいほどの鮮やかさで海の色を受け止めている。
レモン色の午後だ、と湊は思った。
比喩ではなく、この土地では本当に、午後の光に柑橘の皮のようなやわらかい黄色が混じることがある。
その明るさの中で、父のノートの文字はかえって深く沈んで見えた。
夕方前、湊はノートに印のあった「南瀬戸口」へ行ってみることにした。
春口駅からさらに先へ二駅。今日中に往復できる距離だと、汐里が時刻表を見ながら教えてくれた。
「南瀬戸口は、今は何がありますか」
「駅のまわりに小さな商店街が少し。あと古い売店の建物が残ってます」
「父はそこにも?」
「たぶん、何度か」
「どうしてそう思うんですか」
「昔の宿帳に、春口で一泊して翌朝そっちへ行く人の書き込みが何度かあるんです。名前までは残ってないけど、時期が似てるから」
汐里はそう言ってから、ふと視線を伏せた。
「うちの蔵、もっとちゃんと見たら他にも何か出るかもしれません」
「無理に探さなくていいですよ」
「無理じゃないです。ただ……」
「ただ?」
「昔のものって、見つかると少し困るでしょう」
「困る」
「見つからなかったあいだは、無いことにできたから」
その感覚はよく分かった。
父の手紙だって、見つからなければただの遺品整理で終わっていた。見つかってしまったから、今こうして春口まで来ている。過去は存在するだけでは力を持たない。現在に触れた瞬間にだけ、人を動かす。
午後の列車は空いていた。
高校生が二人、イヤホンを片耳ずつ分け合って音楽を聴いている。買い物帰りらしい女性が座席の端でうたた寝をし、運転席の後ろでは幼い子どもが前方を見たがって母親の手を引いている。車内は静かだったが、完全な沈黙ではない。生活の音の小さい集まりが、列車の振動に合わせて揺れていた。
湊は窓際に座り、外を見た。
海は時々見えなくなり、そのたびに柑橘畑や低い山の斜面、古い集落が現れる。そしてまた、カーブを曲がると海が戻る。まるで風景そのものが、ひとつの大きな呼吸のようだった。見える、隠れる、また見える。そのリズムが、父のノートに記された断片のようにも思えた。すべては語られないが、完全には失われない。
南瀬戸口駅は、春口より少しだけ大きかった。
それでも改札は簡素で、駅前の通りも広くはない。古いアーケード商店街が海へ向かって延び、その途中に、父の時代には賑わっていたのかもしれない果物店や電器店の名残がある。今開いているのは惣菜屋と文房具店、それから乾物屋くらいだった。
駅舎脇の、使われていない売店の建物が目についた。
小さなガラス窓の上に色褪せた看板が残り、木枠には潮風で剥げた白い塗装がまだらに残っている。ノートの端に書かれていた「売店のおばさん」という言葉を思い出し、湊はあたりを見回した。すると、建物の陰に小さな椅子を出して座っている老婦人がいた。
頭に薄い手ぬぐいを巻き、膝には買い物籠。
ただ日陰で休んでいるだけにも見えたが、湊が近づくと、その人は先にこちらを見上げた。
「何か御用?」
「この売店、昔やっていた方をご存じですか」
「私だけど」
思いがけない答えに、湊は一瞬言葉を失った。
老婦人はそれを面白がるでもなく、ただ当然のことのように続ける。
「今は閉めてるけどね。何十年やったと思ってるの」
「失礼しました。実は、昔ここに来ていたかもしれない人のことを伺いたくて」
「警察?」
「違います」
「新聞?」
「それも違います」
「じゃあ何」
「父のことです」
そう言って父のノートを見せると、老婦人は目を細めた。
しばらく表紙を見つめ、それから「ああ」と小さく声を漏らした。
「この人、見たことある」
「本当ですか」
「あるわよ。ずいぶん昔だけど。海の見えるホームばっかり気にしてる人だった」
「何か聞かれませんでしたか」
「聞かれた。白い帽子の子を知らないかって」
また同じ話がつながった。
湊は喉の奥が乾くのを感じた。
「その子をご存じだったんですか」
「顔はね。名前までは、はっきり覚えてない」
「千紘、という名前かもしれないんですが」
「……ああ、そうだったかもしれない」
老婦人は遠い記憶を探るように目を細めた。
「よく売店の前を通っていったの。切符を買うでもなく、お菓子を買うでもなく、ただホームの端へ行って海を見てた。ほんとに、列車を見るために来てたのか、海を見るために来てたのか分からない子だった」
「一人で?」
「たいていはね。でも、ときどき年上の男の子と一緒のときがあった」
「男の子」
「若い人よ。学生さんみたいな感じ」
湊は息を止めた。
それが父なのかどうか、年齢的には合うかもしれない。だがそれだけで結びつけるのは危うい。
「顔は覚えてますか」
「ううん、ぼんやり。でも、よくしゃべる感じじゃなかったわ」
「それは父かもしれません」
「かもね」
老婦人は肩をすくめた。
「ただ、あのころは港も駅も今より人が多かったから、記憶なんて潮みたいなものよ。寄せては引くし、残ってると思っても肝心なところは空いてる」
その言い回しが、この土地の人らしく思えた。
記憶は記録ほどはっきりせず、けれど波のように確かに何度も戻ってくる。
「その子は、どうなったかご存じですか」
「知らない」
老婦人は首を振った。
「ある年を境に見なくなっただけ。駅ってそういうものよ。昨日まで毎日いた人が、ある日から来なくなる。引っ越したのか、進学したのか、死んだのかも分からないまま」
「……」
「でも、亮介さん――たぶんその人ね――あの人は、いなくなったことに納得してなかった」
湊はノートを抱え直した。
父に、こんなふうに名前を呼んだ記憶を持つ人間が自分以外にもいる。その事実が、なぜか少し痛かった。父は自分の知らない人生のなかで、確かに誰かに見られ、覚えられていた。
「これ」
老婦人が突然、膝の買い物籠を探り始めた。
「まだ持ってたかしら」
薄い紙の束の間から、一枚の古びた写真を取り出す。
駅前の商店街が写ったスナップ写真だった。時代はかなり古い。色はほとんど褪せ、端が丸く擦れている。画角の隅に、駅舎と売店の一部が見える。その前を数人の人が横切っていて、顔までははっきりしない。だが、白い帽子をかぶった細い少女の姿だけが、妙にくっきりと目に残る。
「昔、地元の祭りのついでに撮ってもらったやつ」
老婦人が言う。
「整理しても捨てそこなってね」
「見せてもらっていいですか」
「いいけど、持って帰るのはだめよ」
「はい」
写真を手にすると、紙は驚くほど軽かった。
少女は横向きで、顔の輪郭はよく分からない。けれど帽子の白さと、駅のほうを向いた立ち姿に、夢の中の気配がかすかに重なった。
「その子の隣にいる人は?」
湊が訊く。
「分からない。たまたま写り込んだだけかもしれないし」
「……」
写真の端に、ぼやけた若い男の肩が写っていた。
顔は半分切れている。父かどうかなど判別のしようもない。だが、その曖昧さがかえって現実らしかった。過去はいつも、決定的な証拠より、こうしたぼやけた断片として残る。
写真を返し、礼を言って駅へ戻ると、次の列車まで少し時間があった。
湊はホームの端まで歩いた。線路の向こうに海が見える。春口ほど広くはないが、ここにもたしかに、列車を待ちながら海を眺める時間がある。少女がここに立っていたとしても不思議ではない、と思った。
列車が来るまでのあいだ、湊は父のノートに新しく書き足した。
——南瀬戸口。古い売店。白い帽子の少女の写真。
——顔は判然としない。だが、立っていたことだけが残っている。
——見えなくなることと、いなくなることは同じではない。
自分の字だった。
父のノートの中に、自分の記録が混じる。そのことにわずかなためらいがあったが、同時に必要なことのようにも思えた。父の足跡を追う旅は、ただ過去を読むだけでは済まない。見たものを自分の言葉で繋がなければ、途中で途切れてしまう。
帰りの列車は西日を受けていた。
窓から差し込む光が車内の床を斜めに切り、吊り革の影が細く揺れる。向かいの席では高校生が眠り、通路をはさんだ席では年配の夫婦が買った魚の話をしている。淡々とした時間だった。だがその静けさの中で、湊は不意に、自分がこの数日でほとんど仕事のことを考えていないことに気づいた。
東京では、頭の中が常に何かの締切や返信や提案の言い回しで埋まっていた。ここでは列車に乗っている時間そのものが、考えを外へ開いてくれる。流れていく風景が、答えを与えるわけではない。ただ、問いを急がせない。父がなぜ「電車と船に任せろ」と書いたのか、少しだけ分かる気がした。
春口に戻ると、駅前の光はすでに夕方へ傾いていた。
港からは魚を焼く匂いが流れ、坂道には買い物袋を提げた人の影が長く落ちている。宿へ帰る途中、無人販売所の籠に残っていたレモンが夕陽を受けて、ほんとうに小さな灯りのように見えた。
宿の玄関では、汐里が洗濯物を取り込んでいた。
白いシーツが風に揺れ、その向こうに海が見える。湊が帰ってきたのに気づくと、彼女は物干し竿を押さえたまま首をかしげた。
「どうでした」
「写真を見ました」
「写真?」
「白い帽子の女の子が写ってる古い写真です」
汐里の表情が、ほんの少しだけ変わった。
「……本当にいるんですね」
「いた、のかもしれません」
「それで、何か分かりましたか」
「余計に分からなくなりました」
湊は苦笑した。
汐里も小さく笑ったが、その目はどこか考え込んでいた。
「分かることが増えると、分からないことも増えますよね」
「そうですね」
「うちの蔵も、そんな感じです」
彼女は洗濯物を畳みながら言った。
「少し探してみたんです。昔の箱の中に写真とか封筒とか、まだいろいろ残っていて」
「何かありましたか」
「まだ整理できてません。でも、相沢さんのお父さんの字に似たメモがもう一枚あった」
「どこに?」
「食後に見せます」
その夜、夕食のあとに居間へ呼ばれた。
卓袱台の上に、古びた封筒と数枚の紙片が並んでいる。封筒には宛名がなく、紙片には走り書きがいくつもあった。宿の備品の裏に書いたような、急いだ字だ。
「これです」
汐里が一枚を差し出す。
そこには父の字で、こう書かれていた。
——橘浜で聞いた。
——千紘は“待っていた”のではなく、“待たされていた”のかもしれない。
——それが誰だったのか、まだ分からない。
湊は紙を持つ指先に力が入るのを感じた。
待っていたのではなく、待たされていた。
その一文だけで、少女の輪郭がわずかに変わる。
自ら選んでホームに立っていたのではなく、誰かとの約束や事情の中で、そこに居続けざるをえなかったのだとしたら。父が彼女を探した理由も、単なる憧れや懐旧ではなくなる。
「橘浜」
湊はつぶやく。
「ここも駅なんですね」
「たぶん。海沿いのもっと小さなところです」
「行けますか」
「行けます。でも、列車の本数は少ない」
「明日、行きます」
「たぶんそう言うと思ってました」
汐里は紙片を丁寧に封筒へ戻した。
その手つきは、古いものを壊さないためだけではなく、そこに触れることで何かが出てきすぎないようにしているようにも見えた。
「相沢さん」
「はい」
「その女の子のこと、少し気になってきました」
「今までは?」
「今までは、町にある曖昧な昔話の一つだと思ってたんです。でも写真があって、あなたのお父さんのメモがあって、駅長さんも同じ話をしてる。そうなると、“いたかもしれない”じゃ済まなくなるでしょう」
「ええ」
「それに」
「それに?」
「母が昔、その話をしたときの顔を、少し思い出したんです」
汐里はそこで黙った。
言うかどうか迷っているのが分かった。
「どんな顔でしたか」
湊が静かに訊くと、彼女は視線を落としたまま答えた。
「懐かしそうじゃなかった。怖がってるわけでもない。ただ……置いてきたものを思い出した人の顔でした」
その言葉は、卓袱台の上に置かれた封筒よりも重く、湊の胸に残った。
夜更け、部屋に戻って窓を開けると、港の灯が海面に細く揺れていた。
昼間のレモン色の光は消え、かわりに水は深い群青に沈んでいる。遠くで列車の音がした。見えないけれど、確かに線路の上を時間が走っている。
湊は父のノートを膝に置き、今日見た写真の輪郭を思い出そうとした。
白い帽子。
駅の方を向いた体。
顔は分からないのに、立っていたことだけははっきりしている少女。
千紘。
待っていたのではなく、待たされていたかもしれない人。
父は何を約束し、何を果たせなかったのだろう。
あるいは、父ではない誰かを、彼女は待たされていたのだろうか。
答えはまだ遠い。
けれど、断片は少しずつ形を持ち始めている。
駅、港、写真、名前、メモ。
それらはばらばらなのに、夕方の海に散る光のように、ひとつの面をどこかで作っている気がした。
窓の外には、島影が夜の中でさらに曖昧になっている。
見えるものと見えないものの境目が、この土地ではいつも少し薄い。
湊はノートを閉じ、灯りを消した。
暗闇の中でも、レールの音だけは時々遠くから届いた。
海と町を結ぶその響きは、まるで誰かがまだどこかで、こちらを呼び続けているみたいだった。




