第二章 坂の町、潮の匂い
朝の駅は、夜の名残をまだわずかに留めていた。
春口駅へ向かう坂を下りながら、湊は海から来る風の冷たさを頬に受けていた。日が昇りきる前の空気には、昼の瀬戸内とは別の緊張がある。凪いだ海の表面がうっすらと青みを帯び、島影はまだ輪郭だけを浮かべている。町の家々も、起きているのか眠っているのか判然としない静けさの中にあった。どこかの台所から味噌を温める匂いが漂い、細い路地では猫が一匹、石垣の上に座ってこちらを見ていた。
駅前には人影がほとんどなかった。
シャッターの閉じた食堂、まだ灯りのつかない郵便局、昨夜と同じ場所に止められた原付。ホームへ続く構内の向こうで、朝の業務に入ったらしい駅員が一人、箒で改札脇を掃いている。小さな駅には小さな駅の時間があり、その一日は最初から騒がしく始まることを必要としていないらしかった。
赤い屋根の待合室のガラス戸を開けると、鈴が小さく鳴った。
長椅子の端に、背の高い老人が座っていた。
灰色の帽子を膝に置き、濃紺のカーディガンの上からベージュの作業着めいた上着を羽織っている。八十に近いか、それを少し越えているかもしれない。体は痩せていたが、肩は意外なほど真っ直ぐだった。目元には深い皺が刻まれているものの、その眼差しにはぼけたところがなく、むしろ長いあいだ人の出入りと時刻を見続けてきた者だけが持つ静かな鋭さがあった。
「相沢さん」
老人は立ち上がった。
「はい」
「藤堂です。朝早うからすまんね」
「いえ」
差し出された手は乾いていて、骨ばっていた。握ると、指先に力が残っているのが分かる。湊が頭を下げると、藤堂は待合室の長椅子を軽く示した。
「座りましょう。列車の来る前なら、少しは静かに話せる」
窓の外では、ホームの端の花壇に朝の光が差し始めていた。紫の小さな花が、風に震えるでもなく、ただそこに咲いていた。湊は腰を下ろし、膝の上に父のノートを置いた。藤堂の視線がそれを認め、ほんのわずかに表情が動いた。
「やっぱり、まだ残っとったか」
「これをご存じなんですか」
「見覚えはある。あんたのお父さんが、よう持ち歩いとった」
湊は背筋を伸ばした。
こうして父を知る人間が目の前にいることが、まだどこか現実味を持たなかった。父の若いころなど、自分には一枚も写真のない時代に近い。父は最初から父としてそこにいたような気が、ずっとしていた。その人にも二十代や三十代があり、誰かに名前で呼ばれ、どこかを歩き、何かに迷ったことを、頭では分かっていても実感できなかったのだ。
「父は、いつごろここへ?」
「最初はずいぶん昔や。あんたが生まれる前じゃろうな。そのあと何年か間が空いて、また来るようになった。毎年いうほどではないが、忘れたころにふっと現れる感じでな」
「何をしに来ていたんですか」
「それが分かれば苦労はせん」
藤堂はそう言ってから、少し言い直すように続けた。
「いや、正確には、何をしに来とるかはある程度分かっとった。人を探しとったんよ。あるいは、場所かもしれんが」
「潮待ち浜ですか」
「……その名も口にしとった」
待合室の空気が、少しだけ沈んだ。
外を、一両編成の列車が通過していった。朝の通学時間の便なのだろう、制服姿の高校生が窓際にいくつか見える。列車は短い音を残して過ぎ、また静寂が戻る。レールの揺れだけが、しばらく床下に残っていた。
「正式な駅じゃないんですか」
湊は訊いた。
「少なくとも、わしが駅員になってからの記録にはない」
「でも待合室の古い時刻表には載っていました」
「それが厄介なんよ」
藤堂は帽子のつばを指先でなぞりながら、ゆっくり言葉を選んだ。
「昔の資料を見てもな、潮待ち浜いう名前はちゃんとした駅名では出てこん。臨時の乗降場やら、仮の呼び名やら、地元の連中が勝手にそう呼んどっただけやら、いろんな説がある。けど、ないと笑い飛ばせるほど、誰もきっぱり否定もできん」
「どうしてですか」
「見たと言う人がおるからや」
「駅を?」
「場所を、じゃな」
湊は藤堂の顔を見た。
老人は眉ひとつ動かさず、ただ前を向いていた。
「若い人には怪談みたいに聞こえるじゃろう。実際、そう思ってええ。わしも長いことそう思うとった。ただ、駅で働いとると、妙な客に会うことがある。行き先をはっきり言わん客、切符のいらんはずの話をする客、すでに無くなった列車のことを昨日のことみたいに訊く客。そういう人らの何人かが、潮待ち浜いう名を口にした」
「父も、その一人だった」
「そうやな。けど、あんたのお父さんは少し違った。あの人は、分からんものを面白がりに来たんやない。何かを確認しに来とった」
確認。
その言葉が、湊の胸に小さく引っかかった。
「何を?」
「それは分からん。じゃが、ただの懐古でも観光でもない顔をしとったよ。海が見えるホームに立って、列車の通過を見送るときの顔がな、あれは景色を楽しんどる人間のもんやなかった」
藤堂はそこで口を閉じた。
湊もすぐには言葉を継げなかった。父が「景色を楽しんでいなかった」というだけで、その場の姿が妙にはっきり想像できる気がした。海辺のホーム、通過する列車、風、見送る父の横顔。その人はたぶん、何かが来ないこと、何かが戻らないことを確かめていたのかもしれない。
「誰を探していたか、ご存じですか」
ややあって湊が問うと、藤堂はすぐには答えなかった。
「はっきり名を聞いたわけじゃない。ただ……」
「ただ?」
「女の子のことを訊いとったことはある」
湊の指先が、膝の上のノートの表紙を強く押した。
夢の中の少女。白い帽子。静かな目。
「どんな子ですか」
「さあなあ。わしが直接知っとるわけやない。じゃが、海の見えるホームによくおった子がいた、いう話をしとった。白い帽子をかぶって、列車をよう見とったと」
「白い帽子……」
「知っとるんか?」
「いえ、夢に出てきたんです」
「夢?」
藤堂はそこで初めて、少しだけ驚いた顔をした。だがすぐにその表情は消えた。長く土地に根を下ろして生きた人間は、説明のつかないことに対しても、都会の人間ほど大袈裟に反応しないのかもしれない。
「夢を見ること自体は珍しくない」
藤堂はそう言った。
「この町では?」
「人が何かを抱えて来る場所では、夢はよう混じる」
それは答えになっているようで、なっていなかった。
だが湊は、これ以上この老人に合理的な説明だけを求めても意味がないように思えた。むしろここでは、土地にある曖昧さをそのまま受け取るほうが近道なのかもしれない。
「父は、その女の子を見つけられたんでしょうか」
「見つけられんかったから、何度も来たんやろう」
藤堂の言葉は簡潔だった。
だがその一言で、湊のなかに父の姿が少し違う形で立ち上がった。無口で、感情を見せず、家庭の外のことを語らなかった父。その人が、何年も同じ土地へ戻り続けていた。見つからない何かを抱えて。そう考えると、父の沈黙は単なる性格ではなく、言いようのない未完を背負った人間の沈黙だったのかもしれない。
待合室の外で改札の鋏の音がした。朝の第二便が入ってくるらしい。数人の地元客がホームへ向かって歩き、制服の少女が一人、友人らしい相手に手を振っている。そんな何気ない朝の光景の中で、自分だけが別の時層へ足を踏み入れたような気持ちになった。
「相沢さん」
藤堂がふいに声を落とした。
「はい」
「父親を知りたい気持ちは分かる。じゃが、昔のことを掘り返すのは、たいがい、きれいな答えにはならん」
「きれいな答えなんて、最初から期待していません」
「そうか」
「ただ、知らないままなのは、もっと嫌なんです」
藤堂はしばらく湊の顔を見ていた。
それから小さくうなずき、上着のポケットから折りたたんだ紙片を取り出した。古いメモ用紙らしく、角が柔らかく丸まっている。
「これは、あんたのお父さんが最後に来たとき、わしに訊いた場所や」
「最後に?」
「七、八年前やったかな。もうあのころには髪も白うなっとった。けど目つきだけは若いころと同じやった。これを見せて、ここへ行くにはどうしたらええかと訊いてきた」
湊は紙を受け取った。
地図とも言えない簡単な走り書きで、春口から二駅先の小さな無人駅の名と、その先の海沿いの旧道らしい線が描かれている。余白に「神尾浜」と走り書きされ、その下に父の字らしき癖で、小さく「午後四時、上り通過後」とあった。
「神尾浜……」
「今は人も少ないとこや。海の見える古いホームが残っとる」
「父はそこへ?」
「行った。戻ってきたとき、顔色が変わっとった」
「何があったんですか」
「何も言わんかった。ただ、しばらくホームの端に立って、海を見とった」
また、それだけだった。
だが「顔色が変わっていた」という事実だけで十分だった。父の身に、そこで何かが起きたのだ。見たのか、聞いたのか、思い出したのかは分からない。けれど、列車に乗って戻る前と後とで顔色が変わるほどの何かが。
「行ってみるといい」
藤堂は言った。
「今も何かあるかは分からんが、あんたのお父さんは、そこに引っかかっとった」
「ありがとうございます」
湊が深く頭を下げると、藤堂は片手を軽く振って立ち上がった。
「礼を言うほどのことやない。むしろ、余計なことをしたかもしれん」
「どうしてですか」
「昔のことは、静かに沈んどるうちは、それなりに形を保つ。掬い上げると、濁る」
それだけ言って、藤堂は帽子をかぶり、待合室を出ていった。
ホームの向こうを歩くその背中は細く、けれど不思議と小さくは見えなかった。鉄道の時間を生きてきた人の歩き方だと、湊はぼんやり思った。急ぎもせず、かといって迷いもない。来るものと去るものを見送ってきた人間の歩幅だった。
待合室に一人残ると、ようやく自分の呼吸の速さに気づいた。
父の足跡は、思っていた以上に具体的な輪郭を持ち始めている。手紙だけなら抽象的な遺言で済んだものが、古いノート、元駅長の証言、海の見える無人駅、白い帽子の少女と、次々に現実の地名と時間を伴ってこちらへ迫ってきていた。
湊はメモを財布へしまい、駅を出た。
坂を上るころには、町はすっかり朝の顔になっていた。
食堂のシャッターが半分開き、魚屋の前に発泡スチロールの箱が並び始めている。通学途中の中学生が自転車で坂を下り、郵便配達の軽バンが角を曲がっていった。誰かの家のラジオから、天気予報らしい女声が微かに聞こえる。海辺の町は朝の立ち上がりが静かなぶん、動き出すときのひとつひとつがよく見えた。
宿へ戻ると、台所から出汁の匂いがした。
汐里はエプロン姿で味噌汁の鍋を見ていた。窓から入る光が、横顔の輪郭をやわらかく照らしている。
「早かったですね」
彼女は振り向いた。
「駅長さん、会えました?」
「はい。いろいろ聞けました」
「顔を見れば分かります。少しだけ、世界の見え方が変わった顔してる」
そんなことが分かるのかと湊は思ったが、否定もできなかった。
実際、この町に来てまだ一日も経っていないのに、目に入るものの奥行きが変わり始めている。石垣にも坂にも海にも、単なる風景以上の時間が沈んでいる気がした。
朝食は焼き魚と味噌汁、卵焼き、漬物だった。
湊が箸をつけながら藤堂の話をかいつまんで伝えると、汐里は黙って聞いていた。「白い帽子の少女」のところで、彼女の指先が茶碗の縁で一度止まったのを、湊は見逃さなかった。
「心当たりがあるんですか」
訊くと、汐里はすぐには答えなかった。味噌汁を一口すすってから、静かに茶碗を置く。
「はっきりじゃないんですけど」
「はい」
「うちの母が、昔そんな話をしていたことがあります。白い帽子の子が海の見える駅に立っていたって」
「その子が誰かは?」
「そこまでは。子どものころに聞いた話なので、私も半分夢みたいに思ってました」
湊は箸を置いた。
「お母さんは、この町の人なんですか」
「ええ。生まれも育ちも。私はもうほとんど母の記憶がないんですけど」
「亡くなられたんですか」
「私が小学生のころに」
声色は平らだったが、平らであること自体が慎重さを含んでいた。
踏み込むべきではない線がある。湊にもそれは分かった。けれど同時に、汐里の過去にもまた、語られない空白があるのだと知れた。
「すみません」
「いえ。死んだ人の話をするとき、こっちが気を使われるのって少し変ですよね」
汐里はかすかに笑った。
「だから大丈夫です。ただ、母のことも、家ではあまり細かく語られなかっただけです」
食後、汐里は宿の帳場で予約帳を見ながら、神尾浜へ行くなら昼前の列車がいいと教えてくれた。二駅先の小さな駅で降り、旧道沿いに海のほうへ歩けば、古いホーム跡のような場所に出るらしい。
「でも、何かあるような場所じゃないですよ」
「父はそこに行った」
「そうですね」
汐里は帳面を閉じ、湊のほうを見た。
「相沢さん」
「はい」
「見つからないかもしれませんよ」
「分かってます」
「見つかったとしても、うれしいものとは限らない」
「それも、たぶん」
彼女は少し考えてから言った。
「それでも行くんですね」
「行かないと、たぶん東京へ戻っても同じなので」
「同じ?」
「何も知らないまま、元の生活に戻るだけです。今までと同じ顔をして、同じ会議に出て、同じような言葉を書いて。でも、そのたびに父の手紙のことを思い出す気がする」
汐里は、今度は笑わなかった。
その代わり、まっすぐにこちらを見てうなずいた。
「じゃあ行ったほうがいいですね」
昼前まで少し時間があったので、湊は宿の周辺を歩いた。
昨日よりも朝の光が高く、町は輪郭をはっきりさせている。坂の途中にある無人販売所には、レモンと八朔が小さな籠に分けられていた。百円玉を入れる缶のふたが潮風で少し錆びている。近くの神社では、社殿の木が長いあいだ塩気を吸ってきたのか、褪せたような艶を帯びていた。境内の石段を上がると、港と駅の両方が見えた。線路はまっすぐではなく、海岸線に合わせて少しだけ身体をひねるように延びている。その曲がり方が、人間の都合だけで引かれたものではないことを示しているようだった。
列車の時間が近づき、湊は再び春口駅へ向かった。
今度のホームには、朝より少し人が多かった。買い物帰りらしい年配の夫婦、部活の道具を抱えた中学生、紙袋を持つ若い母親。どの顔にも急ぐ色は濃くない。都市の駅では、乗り遅れまいとする身体の流れがまず先にあるが、ここでは列車の到着そのものが一日の手触りのひとつになっているようだった。
やがて一両の列車が入ってくる。
金属の車体に午後前の光が当たり、窓には空と海が淡く映る。扉が開くと、湊は車内へ乗り込んだ。座席に腰を下ろし、窓の外を見る。汐里に教えられた通り、神尾浜までは二駅だ。短い距離のはずなのに、そのあいだにどんな景色が現れるのか、妙に意識してしまう。
列車が動き出すと、春口のホームがゆっくりと後ろへ流れた。
赤い屋根の待合室。花壇。ベンチ。改札の白い柱。そのひとつひとつが、もうただの旅先の印象ではなくなりつつある。父の沈黙に通じる入口として、景色が別の意味を帯び始めていた。
海が近づいた。
線路はしばらく道路と並び、その先で低い崖の下をかすめるように走る。窓の外には穏やかな内海が広がり、島々の輪郭が昼の光の中で少しずつ柔らかくほどけている。防波堤のそばに干された網、造船所の小さなクレーン、古い倉庫のトタン、岸壁に結ばれた白い船。どれも目新しいものではないのに、なぜか胸の内側を静かに擦っていく。
父も、この席ではなくても、この高さ、この角度で海を見たのだろう。
そのとき父は何を思っていたのか。
探し人のことか。
戻らなかった時間のことか。
あるいは、自分がいつか息子に何も語れなくなる未来を、すでにどこかで知っていたのか。
列車は小さなトンネルを抜け、神尾浜駅に着いた。
ホームは短く、上屋も半分しかない。駅名標の白が潮風で少し黄ばんで見える。降りたのは湊ひとりだった。列車は数秒で扉を閉め、そのまま次の駅へ向かって走り去る。あとに残るのは、蝉の早い声と、遠くで砕ける波の小さな音だけだった。
無人駅の静けさは、春口よりさらに深かった。
駅舎らしい建物はなく、券売機もない。コンクリートのホームに木のベンチが一つあり、その向こうに海が見える。なるほど、と湊は思った。父が海の見えるホームにこだわっていた理由が、少し分かる気がした。こういう場所では、列車を待つことと海を見ていることが、ほとんど同じ行為になる。時間は線路の上をやって来るのに、感情は海のほうへ開いていく。
湊は駅を出て、父のメモにあった旧道のほうへ歩き始めた。
舗装の剥がれた細道は、海岸線に沿ってゆるやかに続いている。左右には低い藪と古い石垣、ところどころに廃屋めいた建物の基礎が残り、夏草がその隙間から伸びていた。歩くほどに人の気配は薄くなり、代わりに海の匂いが濃くなる。潮だけではなく、温められた石と藻と鉄が混じった匂い。長く使われないまま海の近くに置かれたものの匂いだった。
やがて道が少し開けたところで、湊は立ち止まった。
そこには、駅とも広場ともつかない平たい場所があった。
コンクリートが不自然に横長に残り、片側には錆びた柵の名残がある。白線のようなものも、消えかけながら地面に細く残っていた。ホーム跡、と言われればそう見える。単に資材置き場の跡と言われても納得しそうな曖昧さだった。だが、海に面したその形のなかに、人が並んで何かを待つ気配が確かに残っているように思えた。
湊は息をつめて、その場所を見つめた。
風が吹き、草が擦れた。波の音は近いのに、どこか遠かった。
ここに父が来た。
午後四時、上り通過後。
そのとき何を見たのか。
ふいに、背後で列車の音がした。
はっとして振り向くと、崖の上のほうを一本の列車が通過していくのが見えた。銀色の車体が陽を受け、すぐに木立の陰へ消える。ほんの数秒。だがその通過に合わせるように、目の前のコンクリートの縁が一瞬だけ、現役のホームのように白く際立って見えた。
湊は動けなかった。
錯覚かもしれない。光の反射かもしれない。
けれどその一瞬、ここが単なる廃れた空き地ではなく、たしかに「待つ場所」だったことが、理屈より先に身体へ伝わってきた。
海から風が吹き上がり、どこかで鈴のような音がした。
駅の待合室の扉の音に似ている、と湊は思った。
そして、誰かに見られているような気がした。
振り返っても人はいない。
旧道の先にも、藪の陰にも、波打ち際にも。
それでも視線の気配だけが、確かにそこにあった。
夢の中でこちらを見ていた少女の目を、不意に思い出す。
湊はポケットから父のメモを取り出し、もう一度見た。
神尾浜。午後四時。上り通過後。
父はこの場所で何を待ったのか。
あるいは誰を。
空は穏やかに晴れているのに、その場所にだけ時間の膜が薄く張っているようだった。
触れれば破れそうで、破れた先に何があるのか分からない。
湊はその場にしばらく立ち尽くした。
海はやわらかく光り、遠くの島は昼の霞の中に溶けていく。瀬戸内はどこまでも穏やかだった。だがその穏やかさは、何も起きていないという意味ではない。むしろ、起きたことを静かに抱え込んで、表面だけをなだらかに見せているのかもしれなかった。
やがて、ポケットの中のスマートフォンが震えた。
汐里からの着信だった。
「もしもし」
「今、神尾浜ですか」
「ええ」
「どうですか」
「……よく分からない場所があります」
湊は海を見ながら答えた。
「ホーム跡みたいでもあるし、何もない場所みたいでもある」
「そういう感じです」
電話の向こうで、汐里の声が少し低くなる。
「相沢さん、その場所で、何か拾わないでください」
「え?」
「石でも、紙でも、何でも」
「どうして」
「昔から、この辺ではそう言うんです。待つ場所にあったものは、持ち帰らないほうがいいって」
「迷信ですか」
「たぶん。でも、そういうのって、理由が消えたあとにも残るでしょう」
湊は足元を見た。
風で寄せられた枯れ草のあいだに、何か白いものが半分だけ埋もれているのが見えた。紙片のようにも見える。反射のせいかもしれない。拾おうと思えば拾える距離だった。
「……分かりました」
湊は答えた。
「今、そっちへ戻ります」
「気をつけて。坂道、午後は日差しが強いから」
通話が切れたあとも、湊はすぐには動かなかった。
足元の白いものを見つめたまま、しばらく立っていた。拾わないほうがいい、と言われた直後に見つけるには、あまりに出来すぎている。だが、そういうふうに出来すぎて見えること自体が、この町では不思議と不自然ではなかった。
海のほうを見る。
穏やかな水面の向こうに、島がいくつも重なっている。光の加減で、その境目は時々、ひどく曖昧になる。
湊は最後に一度だけ、その平たい場所全体を見渡した。
そして白いものには触れず、旧道を引き返した。
戻り道の途中、崖の上の線路をまた列車が通った。
今度は下りだった。車体は短く、窓の反射で中の人影はよく見えない。それでも、その列車が一瞬こちらを横切るだけで、自分がいまひとりの父の足跡の上を歩いていることが、どうしようもなく現実になった。
坂の町へ帰るころ、潮の匂いはいっそう濃くなっていた。
春口は変わらず穏やかだった。
だが湊の中では、何かが確実に動き始めていた。




