第十五章 せとうちのパレット
出発の日の朝、春口駅の空は高く澄んでいた。
夏の終わりにはまだ早い。けれど、光の角度だけが少し変わっていた。真上から一様に降りてくるのではなく、島影や屋根の縁に沿って、ものの輪郭をやわらかく浮かび上がらせるような光だ。港の水面は穏やかにきらめき、坂道の石はもう昼の熱を持っていない。風には塩の匂いのほかに、乾いた草の匂いが少しだけ混じっていた。
湊は二階の部屋で荷物をまとめながら、何度か手を止めた。
大して多くはない。着替えと、洗面道具と、東京から持ってきた仕事用のノートパソコン。それから父のノート。
東京を出るときは、数日で戻るつもりだった。
父の手紙に導かれ、少し海を見て、何かの答えらしきものを持ち帰れればいいと、その程度にしか考えていなかった。
けれど今、鞄の中に入れる一冊のノートは、ただの遺品ではない。父の筆跡に自分の文字が混じり、春口で聞いた証言や見た景色が書き足され、もう単独のものではなくなっている。過去を読むための記録ではなく、過去と現在が同じページを分け合った痕跡だった。
そのノートを、湊は半分だけ宿に残すことにした。
もともと父の記録の一部はこの家で見つかったものだ。
潮待ち浜に繋がる時間を、自分だけのものとして抱え込むのは違う気がした。
春口に残るべき記憶があり、自分が持って帰るべき記憶もある。どちらか一方に寄せるのではなく、分け合うことが、この物語にはふさわしいと思えた。
階下へ降りると、汐里が朝食の支度を終えたところだった。
味噌汁の湯気が立ち、焼いた魚の匂いが静かに広がっている。食卓は、初めてこの宿で食べた日の朝とほとんど変わらない。だが変わっていないことが、今日はやけに尊く見えた。
「本当に今日、戻るんですね」
汐里が言った。
「ええ」
「実感ありますか」
「半分くらい」
「私も同じです」
二人は少し笑った。
別れの朝にしては、会話は穏やかだった。
何かを言い残したり、劇的な約束を交わしたりする感じではない。そういうふうに整理できる関係ではないし、この町の時間にも似合わない。
ただ、同じものを見た人間同士が、それぞれの持ち場へ戻っていく朝の静けさがあった。
「ノート、本当に置いていくんですか」
食後に汐里が訊く。
「全部じゃないですけど。父の元の記録に近い部分は、こっちへ」
「大事ですよ」
「だからです。ここにあったほうがいい」
「……ありがとうございます」
「汐里さんのところにも、お母さんの手記がありますし」
「ええ」
「どちらか一つだけだと、きっと形が偏る気がして」
「そうですね」
彼女はしばらく黙ってから言った。
「私、宿を続けようと思います」
「うれしいです」
「前から続けるつもりではいたんですけど、意味が少し変わりました」
「どんなふうに」
「ただ残すんじゃなくて、また来られる場所として残したいんです」
「帰れる場所、みたいに」
「そうです」
その言葉に、湊は深く頷いた。
春口は、完全に帰る場所ではないのかもしれない。
けれど、何度でも来ることのできる場所にはなれる。
父がそう願ったように、そして自分自身もそう感じているように。
出発の支度を終え、宿を出る前に、二人は母の部屋へ寄った。
片づけは少し進み、箪笥の上も前より整っている。窓から入る光が、白い壁をやわらかく照らしていた。澄江の手記と、父の手紙の写し、それに一枚だけ残した写真が小さな箱に収められている。春口駅の待合室の前で撮られた、澄江と千紘の写真だ。
「この写真」
湊が言う。
「ここに残していいですか」
「はい」
「母の部屋にあったほうが自然な気がして」
「私もそう思います」
千紘は最後まで確定的な形では戻らない。
それでも、この写真があることで、彼女は単なる噂や怪談ではなく、一度この土地にたしかに立っていた人として残る。
それで十分とは言えない。
だが、それが今できる一つの終わらせ方なのかもしれなかった。
宿を出るとき、玄関先のオリーブの葉が朝の風に揺れた。
坂道を下る足取りは重くなかった。むしろ、初めて春口へ来たときよりも軽いくらいだった。
喪失が消えたわけではない。
千紘の行方も、父の負い目も、澄江の沈黙も、そのまま残っている。
けれど、それらが自分にとってもう「曖昧な重み」ではなくなっていた。言葉にしきれなくても、輪郭のあるものとして抱えられる気がした。
春口駅のホームには、始発を過ぎた時間らしい静かな往来があった。
買い物に向かうらしい老夫婦、通学の高校生、背広姿の男が一人。ホームの端の花壇では、紫の小さな花がまだ咲いている。赤い屋根の待合室は、初めて見たときと同じように、静かにそこにあった。
湊は一人で待合室へ入った。
ガラスの掲示板。木の長椅子。古い時刻表。
潮待ち浜の名を探すように、自然と視線がそこへ向かう。
けれど今日は、文字が少し違って見えた。
そこにあるようでもあり、ないようでもある。
実際には印字のまま変わっていないのに、もう「地図にない謎の駅名」としての力を失っていた。
潮待ち浜は今や、文字の中にあるのではなく、自分が受け取った時間の側にある。
ガラスに映る自分の顔を見て、湊は小さく息を吐いた。
東京を出たときの、自分でも見慣れなかった疲れた顔とは少し違う。すっきりしたわけでも、明るくなったわけでもない。だが、空白の置き方が変わったように思えた。何もない空洞ではなく、まだ名前をつけきれないものを抱えている顔だ。それでいいのだと、今は思える。
扉の鈴が鳴り、汐里が入ってきた。
ホームに列車が近づく気配がしている。
「来ますね」
「ええ」
「見送り、これでよかったですか」
「はい」
彼女は少し迷ってから、封筒を一つ差し出した。
「これ、持っていってください」
「何ですか」
「母の手記の写しの一部です。全部じゃないですけど」
「そんな、大事なもの」
「だからです」
汐里は静かに言った。
「あなたのお父さんのノートを少し置いていってくれるなら、私も少し預けたい」
湊は封筒を受け取った。
軽い。
けれど、その軽さの中に澄江の沈黙と、千紘の不在と、父の言いそびれた言葉まで詰まっている気がした。
「また来ます」
湊が言うと、汐里はすぐ頷いた。
「ええ。たぶん、そういう場所ですから」
「春口は」
「はい」
ホームに列車が入ってきた。
一両編成の車体が朝の光を受けて白く光る。扉が開き、内側から冷えた空気が少しだけ流れ出した。湊は鞄を持ち直し、振り返る。赤い屋根、待合室、汐里の立つ影、その向こうの港。何も劇的なことは起きない。ただ、列車が来て、自分は乗る。その当たり前のことが、いまはひどく大切だった。
車内に入って窓際に座る。
発車の短い合図。
列車がゆっくり動き始める。
ホームが後ろへ流れる。
汐里が小さく手を上げる。
待合室の赤い屋根が視界の端に残り、その向こうに海が開けた。
春口を離れる列車の窓から見える瀬戸内は、来たときとは違う色をしていた。
海の青。
柑橘畑の緑。
石垣の灰色。
造船所のクレーンの鈍い銀。
港のトタン屋根の褪せた白。
夕方ではないのにどこか柔らかな金。
それらは観光パンフレットのように一つの鮮やかな色へまとめられるのではなく、もっと細かく、生活の手触りのまま重なっていた。せとうちのパレットとは、こういうものなのだろうと思った。明るさだけではなく、待つ時間の色、帰れなかった人の影の色、朝の台所の湯気の色、海霧の白、レールの銀、そのすべてが混ざっている。
列車がカーブを曲がると、港が少しだけ遠くなった。
けれど見えなくなることは、なくなることではない。
それももう知っている。
スマートフォンが震え、東京の仕事の通知がいくつか表示された。
未返信のメール、会議の予定、締切の確認。
以前なら、それを見ただけで胸の内側が乾いていたかもしれない。
今は違った。
同じ仕事へ戻るとしても、同じ自分では戻らない。
言葉を売るためだけに書くのではなく、自分の見たものを失わずに済む書き方があるのではないかと、初めて思えた。父が残せなかった言葉を、すべて代わりに書けるわけではない。けれど、自分の時間を自分の言葉で引き受けることくらいは、できるかもしれない。
膝の上の父のノートを開く。
最後の空いたページに、湊はゆっくりと書いた。
――春口を去る。
――去るが、失うわけではない。
――潮待ち浜は地図に残らなくても、人の中には残る。
――待たされた時間を、置き去りのままにはしない。
――また来ることのできる場所として、この海を覚えておく。
書き終えて顔を上げる。
窓には自分の顔が薄く映り、その向こうを瀬戸内の海が流れていく。
父もまた、こんなふうに窓へ映る自分を見たことがあるのだろうか。
そのとき父は、何を思ったのだろう。
今となっては、すべては分からない。
けれど、分からないままでも繋がるものがあるのだと、湊はようやく知った。
列車は島影を縫いながら進む。
線路の先にあるのは東京で、仕事で、これまでの生活の続きだ。
だが、その続きは以前と同じではない。
春口で見た海、駅、港、待合室、澄江の沈黙、父の背中、千紘の白い帽子。
それらはもう外の風景ではなく、自分の内部のどこかに根を下ろしていた。
せとうちの魅力は、ただ穏やかで美しいことではない。
待つことの意味を知っていること。
渡ることの重みを知っていること。
帰ることと、帰れないことの両方を抱えながら、それでも朝の食卓を整え、列車を迎え、船を出すこと。
その静かな強さが、この土地にはある。
列車はさらに速度を上げ、春口の気配はもう見えなくなった。
それでも、どこかで遠い警笛のようなものが聞こえる気がした。
呼ばれているのではない。
ただ、「また来ればいい」と告げられているような音だった。
湊はノートを閉じ、窓の外の海を見た。
瀬戸内の光は変わらずやわらかい。
その底に沈んだものを、すべて掬い上げることはできないだろう。
けれど、自分の手の届くところまでを見つめ、引き受けて生きていくことはできる。
春口は、終わった場所ではなかった。
また来ることのできる場所だった。
潮待ち浜もまた、消えたのではない。
待ち続けた人の時間として、これからもときどき、自分の内側に現れるのだろう。
海へひらく線路の先で、湊はようやく、自分の人生の続きを引き受ける場所へ戻っていく。
喪失を抱えたまま。
それでも少しだけ、前より深い光を知った人間として。




