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潮待ちのレール  作者: たむ


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1/12

第一章 海へひらく線路

 新幹線の窓に映る自分の顔は、思っていたより疲れていた。


 相沢湊は、そのことに東京駅を出てから一時間ほど経ってようやく気づいた。車窓の外では、都市の背骨のような高層ビル群がとうに途切れ、整えられた住宅地も、見慣れた郊外も、すでに名のない畑や川や工場の列に置き換わっている。けれど、窓に映る自分だけは出発のときのままそこにいて、どこへ運ばれていこうとしているのかをよく理解していない顔をしていた。


 座席のテーブルには、封を切られたまま折り目のついた一枚の便箋がある。父の字だった。癖のない、やや右上がりの筆跡。几帳面だが感情のにじみにくい字で、短い文が三行だけ書かれていた。


 ——お前が疲れたら、せとうちへ行け。

 ——あの海は、急がなくてもいい生き方を、黙って教える。

 ——もし行くなら、春口駅で降りろ。そこから先は、電車と船に任せるといい。


 父が死んで二か月が経っていた。


 急病だった。倒れてからは早かった。通夜と葬儀、役所の手続き、保険会社とのやり取り、実家の片付け、仕事先への説明。悲しむための時間は、そのどこにもきちんと存在していなかったように思う。やることが多すぎると、人は泣くより先に紙に署名をし、引き出しを開け、古い服を束ね、不要な食器を新聞紙にくるむ。悲しみはそのあとで来るのではなく、むしろ来そびれるのかもしれないと、湊は父の部屋を片づけながら思った。


 その机の最下段から出てきたのが、この手紙だった。自分宛てでありながら投函されていない。便箋は封筒に入れられ、切手まで貼られていたのに、なぜか発送されなかったらしい。父がいつ書いたものなのかは分からない。消印がないので推測するしかないが、紙質も封筒も新しくはなく、少なくとも数年は引き出しの底に眠っていたようだった。


 父は寡黙な人だった。

 不機嫌なわけでも、冷淡なわけでもない。ただ、語る言葉の少ない人だった。湊が子どものころから、父は必要なことだけを言った。学校のこと、就職のこと、冠婚葬祭のこと、家の修繕のこと。問いかければ返事はある。助けを求めれば動いてくれる。だが、自分の若いころのことや、何を好きだったのか、どこへ行きたかったのか、人生のどこで何を後悔しているのかといった話は、ついに一度も聞いたことがなかった。


 その父が、「疲れたらせとうちへ行け」と書いた。


 ひどく不器用な遺言のように思えた。


 湊自身、疲れていた。

 東京で広告会社に勤めて十年が過ぎていた。コピーを書き、提案書を作り、ブランドの物語を整え、商品に意味を与える仕事だった。言葉で何かを魅力的に見せることには慣れていたし、それなりに評価もされていた。けれどここ数年、自分が書いている言葉のほとんどが、自分の手を離れた瞬間に別の何かへ変換されていくのを感じていた。数字、反応、戦略、好感度、拡散率。どれも間違ってはいないが、その中に自分の実感はほとんど残らない。父の葬儀のあと、取引先の会議室で新商品のキャンペーン案を説明しながら、湊は唐突に、自分が何も信じていないことに気づいた。


 その翌週に有給をまとめて取り、東京を出た。

 思いつきにしては、遠い旅だった。


 岡山で新幹線を降り、在来線へ乗り換える。大きな駅の雑踏はまだ都市の延長線上にあったが、ホームに立つ列車の色や匂いは、東京の鉄道とはどこか違っていた。鋭く人を呑み込んでは吐き出すための乗り物ではなく、もう少し長い呼吸で土地の時間に触れているような気配がある。湊は自動販売機で買った缶コーヒーを片手に車内へ乗り込み、指定された席に腰を下ろした。


 列車が走り出すと、窓の外に海が現れた。

 最初は遠く、空の明るさの下に白く滲むだけだった水面が、路線が進むにつれて少しずつ輪郭を持ちはじめる。大きく開けた外海ではない。陸に抱かれ、島影に区切られ、光を小さく折り返す内海だった。海というより、地形の中に残された深い呼吸のように見えた。


 島がある、と湊は思った。

 その向こうにもまた島がある。

 海は広いのに、瀬戸内の海はどこか人の住む近さを持っている。見渡しても果ての見えない水平線ではなく、どこかへ渡れるかもしれない距離が、幾重にも重なっている。船が小さく進み、岸には工場のクレーンが立ち、その手前に家々の屋根が寄り添っていた。生きることと海とが、東京で見るどんな湾岸風景よりも近いところで結びついているようだった。


 父も、これを見たのだろうか。


 そう思ったとき、ようやくこの旅の輪郭が少しだけ生まれた気がした。観光ではない。追悼でもない。ただ、父が何を見ていたのか、その視線の端に自分を置いてみたいという気持ちがあった。


 春口駅は、午後の淡い光のなかに小さく現れた。


 列車を降りると、ホームにいたのは湊を含めて三人だけだった。制服姿の高校生が一人、麦わら帽子をかぶった老婦人が一人、そしてスーツケースを持つ自分。列車が去ると、駅の周囲は驚くほど静かになった。アナウンスも人声もない。聞こえるのは、線路の向こうから流れてくる風の音と、遠くの港で鳴る機械音のような低い響きだけだった。


 駅舎は古びていたが、荒れてはいなかった。白い壁は何度も塗り直されたらしく、軒下の木材は潮風に晒されて色を失いながらも、まだきちんと形を保っている。改札脇には観光ポスターが数枚貼られていて、そこには青い海、柑橘の実、坂の町並み、石段の寺、陶器の皿に盛られた魚料理が並んでいた。どれも「ようこそ」と大きく叫ぶような写真ではなく、むしろそっとこちらを見返してくるような静かな色合いだった。


 ホームの端には、小さな待合室があった。

 赤いトタン屋根。

 父の手紙にあった言葉が頭をよぎる。


 ——赤い屋根の待合室で、古い時刻表を見ろ。


 その追記に気づいたのは、昨夜、岡山のホテルで手紙を何度も読み返していたときだった。便箋の余白に、後から書き足したような小さな字でそう書かれていた。湊はそれを思い出し、スーツケースを引いたまま待合室へ向かった。


 扉を開けると、鈴がかすかに鳴った。

 中はひんやりとしていた。木の長椅子が二つ、壁に寄せて置かれている。ガラスの掲示板には、自治会の回覧のような紙や、地元の祭りの写真、小学生が描いた魚の絵が貼られていた。その隅に、額に入れられた古い時刻表がある。今のものではないと、一目で分かった。紙の色がすでに飴色に変わっていて、印字の書体も古い。国鉄時代のものかもしれない。


 湊は近づき、ガラス越しに駅名を追った。


 見覚えのある地名がいくつか並び、その下に停車時刻が細かく刻まれている。今は使われていない臨時列車の記号もある。視線を下に滑らせていくと、ひとつだけ、今どの地図にも載っていない名前が混じっていた。


 潮待ち浜。


 湊は息を止めた。


 見間違いかと思い、さらに顔を寄せる。

 だが文字はそこにある。確かに「潮待ち浜」と印字されていた。手書きで書き足されたようには見えない。列の並びのなかに、ごく自然な顔をしてその名が収まっている。


「そこ、みんな気になるみたいです」


 背後から声がした。


 振り返ると、二十代半ばほどの女性が立っていた。肩までの髪を無造作に後ろで束ね、生成りのシャツに濃紺のパンツを合わせている。日に焼けた肌と、目元にだけ残る涼しい影が印象的だった。観光客向けに明るく整えた笑顔ではなく、もともとこの土地の光と風の中にいた人の表情だと思わせる自然さがあった。


「初めて来た人は、だいたいその駅名で立ち止まるんです」

「実在するんですか」

「どうでしょう」


 彼女は少しだけ笑った。

 笑ったのに、冗談に聞こえなかった。


「観光ですか」

「……半分は」

「もう半分は?」

「父の足跡探しみたいなものです」


 そう言ってから、なぜ見ず知らずの相手にそんなことを言ったのかと湊は思った。けれど彼女は不躾に聞き返すこともなく、ただ一度うなずいた。


「なら、なおさらかもしれませんね」

「何がですか」

「この町に来る理由です」


 その言葉の意味を問い返す前に、彼女は自分から名乗った。


「三崎汐里といいます。駅の近くで宿をやっています」

「相沢です」

「お宿、もう決まってます?」

「いえ、まだ」

「うち、空いてますよ。古い家ですけど、海は見えます」


 商売気の薄い誘い方だった。

 駅前を見回しても宿らしき看板は見当たらず、タクシーも停まっていない。この土地で一晩泊まるつもりなら、むしろその申し出は都合がよかった。だがそれ以上に、彼女が「海は見えます」と言ったときの言い方に、土地を売り込む感じがなかったのが妙に心に残った。海が見えることが魅力である前に、ただ事実としてそこにある、と告げる口調だった。


「お願いします」

「じゃあ、歩けますか」

「たぶん」

「坂ですけど」

「東京でも毎日わりと坂は上ってるので」

「それは仕事の比喩ですか」

「半分ぐらい」

「なるほど」


 汐里はふっと笑い、湊のスーツケースの片側を軽く持ち上げた。断る間もなく、そのまま歩き出す。湊は慌ててあとを追った。


 駅前の道は、海へ向かって緩やかに下っていた。小さな郵便局、シャッターの半分閉じた食堂、日用品店、空き家になったらしい木造家屋。路地の先に時々、青白い水面が切り取られて見える。風には塩の匂いがあった。都会の埠頭で嗅ぐ潮の匂いより、もっと生活に近い匂いだった。濡れたロープ、干しかけの網、魚を洗ったあとの流し、乾いた藻、そういうものが混じり合っている。


「相沢さんのお父さん、この町に来たことがあるんですか」

「たぶん。詳しいことは何も聞いてないんですけど」

「手紙で?」

「ええ」

「いいですね、手紙」

「そうでもないです。生きてるときに話してくれればよかった」


 自分でも驚くほど率直な言い方だった。

 汐里はそれにすぐ返事をしなかった。坂を少し下ったところで、海の見える角を曲がり、それから静かに言った。


「死んだ人の沈黙って、少しずるいですよね」

「ずるい?」

「こっちはもう、問い返せないから」


 湊は何も言えなかった。

 ただ、その言葉を軽く扱わない人なのだと思った。観光地の宿主らしい愛想よりも先に、そういう重さを知っている人の言葉だった。


 宿は港の少し手前、古い石垣の上に建っていた。二階建ての木造家屋で、白壁の一部に蔦が絡み、玄関脇にはオリーブの鉢がいくつか並んでいる。古民家を改装した宿、という説明ならよくあるのだろうが、ここには「改装しました」という清潔さより、「まだこの家の時間が続いている」という落ち着きがあった。


 通された二階の部屋は六畳ほどで、障子を開けると港が見えた。小さな船がいくつか浮かび、その向こうに島影がいくつも重なっている。空は晴れていたが、光は強すぎず、海面だけが静かに明るい。湊は荷物を置き、窓際に立った。


 海は広がっているのに、閉じてもいた。

 外海のように世界へ向かって開かれているのではなく、島と島のあいだに抱かれた内側の水だった。だが、その内向きの静けさのなかに、かえって深い奥行きがある。見渡せるのに見切れない。そんな海だった。


「お昼、まだなら下で何か作れます」

 後ろから汐里が言った。

「助かります」

「名物っぽいものは期待しないでください」

「観光地っぽくないほうがありがたいです」

「それなら得意です」


 階下の食卓に並んだのは、鯛のあら汁、小魚の南蛮漬け、ひじきの煮物、きゅうりの浅漬け、湯気の立つ白いご飯だった。どれも飾り気はなかったが、一口食べるごとに体の奥のどこかがほどけていくようだった。東京での食事はたいてい、「済ませる」ものになっていた。ここで食べるものは、何かを元に戻していく。何を、とはうまく言えない。ただ、ずれていたものが少しずつ正しい位置へ戻っていく感覚があった。


「この町には、何があるんですか」


 食後の番茶をすすりながら、湊は訊いた。

 観光案内じみた問いだと分かっていたが、ほかに尋ね方が思いつかなかった。


 汐里は急須を持つ手を止め、少し考えるように窓の外を見た。港では、漁から戻ったらしい小さな船がゆっくりと岸へ寄っていた。


「たぶん、急がない理由、です」

「理由」

「都会の人って、急がないことに罪悪感があるでしょう」

「ありますね」

「ここでは船を待つし、潮も待つし、電車も待つんです。待ってもどうにもならないこともあるけど、待たないと始まらないことも多い。だから、急がないことそのものが暮らしになる」


 その言い方が、父の手紙とどこかで響き合って聞こえた。

 急がなくてもいい生き方。父は何を知っていて、そんなことを書いたのだろう。


 午後、湊は町を歩いた。


 坂道はどこかしらで海へ抜けていた。石段の脇に鉢植えの花が並び、古い家の軒先には洗濯物が揺れている。寺の山門、古びた理髪店、ぽつんと立つ自動販売機、子どもの笑い声、路地の奥の猫。どれも観光パンフレットの中心にはならない風景ばかりだが、目を留めるものが尽きなかった。町全体が、声高に「見どころ」を主張しない代わりに、「ここにある」とだけ静かに告げてくるようだった。


 港まで下りると、ベンチに座って海を眺める老人たちがいた。漁具を洗う音がし、倉庫の陰では子どもが一人、自転車を押して通り過ぎる。視線を上げると、少し離れた高架の上を一両編成の列車がゆっくりと走っていった。海を背景にしたその姿は、どこか模型じみた端正さがありながら、同時に風景の一部としてごく自然に馴染んでいた。


 JR西日本のローカル線。

 湊は車両の細部までは知らなかったが、都市の通勤電車のような緊張感とは別のものをそこに感じた。誰かを速く遠くへ押し流すためではなく、港と町、町と町、人と人のあいだにゆるやかな糸を渡すための乗り物。海の近くを走る列車には、どこか船に似たところがあるのかもしれないと思う。決められた時刻に来て、決められた場所で人を乗せ、それでも水や風や光とまったく無関係ではいられない。線路は海へ伸びてはいないのに、その気配を絶えず帯びている。


 父もまた、こんな列車を見たのだろうか。

 ホームに立ち、海の匂いを嗅ぎ、誰かを待っていたのだろうか。


 夕方に宿へ戻ると、汐里は玄関先でオリーブの鉢に水をやっていた。


「どうでした、この町」

「見どころが多い、とは違うんですけど」

「はい」

「視線が止まる場所が多いですね」

「それ、いい言い方ですね」

「コピーライターだったので」

「でした?」

「今も一応そうです」

「じゃあ職業病かもしれません」

「かもしれません」


 汐里はジョウロを置き、少し真面目な顔でこちらを見た。


「でも、止まる場所が多いって、この町では大事かもしれません」

「どうしてですか」

「通り過ぎるだけだと、何も見えないから」


 その声に、不思議な実感が宿っていた。

 湊はそのまま「あなたも何か見落としてきたんですか」と訊きたくなったが、さすがに踏み込めなかった。


 夜、宿の居間で少しだけ酒を飲んだ。地元の柑橘を使った小さなリキュールで、甘さの奥に皮の苦みがあった。汐里は宿帳をつけながら、それでも会話が途切れない程度に話してくれた。春口には若い人が多くは残っていないこと、けれど祭りや盆には戻ってくる人が多いこと、海のそばで育つと風向きで翌日の天気が何となく分かること、町の人は表向き不干渉でも案外よく見ていること。


 父の話になると、湊はつい慎重になった。

 だが汐里のほうから、ふいにこう言った。


「相沢さんのお父さん、たぶんこの家に来たことがあります」

「え」


 湊はグラスを持つ手を止めた。


「断言はできないんですけど、蔵を片づけてたときに古いノートが出てきて。宿帳でも家計簿でもない、旅の記録みたいなものだったんです」

「それが父の?」

「字を見れば分かるかもしれません」


 汐里は席を立ち、奥の部屋から一冊のノートを持ってきた。

 表紙は紺色で、角が擦り切れている。湿気を吸って少し波打った紙の感触に、長い時間がしみ込んでいた。


 湊は受け取り、最初のページを開いた。


 潮位。

 風向。

 通過列車の時刻。

 港の光。

 島影の位置。

 祭りの日の人の流れ。

 断片的な文章と、簡単なスケッチ。紀行文というには実務的で、調査メモというには感傷が混じっていた。ページをめくる指先が、ある署名のところで止まる。


 相沢亮介。


 父の名だった。


 胸の奥で何かが沈むように重くなった。

 驚きというより、現実が一段深くなる感覚だった。父はここにいた。しかも一度や二度ではない。このノートには何年にもわたる記録が残っている。


「……父です」

「やっぱり」

「どうしてこれが」

「昔、この家は宿だけじゃなくて、港と駅のあいだを行き来する人の休憩所みたいにも使われてたらしいんです。忘れ物や預かりものも多かったみたいで」

「父が預けた?」

「あるいは置いていったのかもしれません」


 湊は黙ったままページをめくった。

 文字は簡潔だったが、行間のどこかに、父がふだん家では見せなかった注意深さと執着が感じられた。景色を愛でるというより、何かを記録し損ねまいとする目。そうして数ページ進んだところで、ふと目に飛び込んできた一文に呼吸が止まる。


 ——潮待ち浜は、時刻表から消えても、人の記憶からは消えない。

 ——あのホームに立つ者は、何かを置いていく。あるいは、取り戻す。


「潮待ち浜……」


 湊はその語を口に出した。

 待合室で見た駅名。ここにもある。


「何なんですか、これ」

「この辺りに昔からある話です」

「実在する駅なんですか」

「そう言う人もいるし、ないと言う人もいます」

「曖昧ですね」

「海の近くの話って、だいたい少し曖昧なんです」


 汐里の声音は静かだった。ふざけているのではない。自分でも、どこまでが事実でどこからが語りなのか、きっちり分けられないものとしてそれを受け取っているのだと分かった。


「霧の深い夕方とか、海が荒れた日のあととか、今はないはずの駅へ着く列車があるって言う人がいます」

「怪談みたいですね」

「そうですね。でも、この町の人は、完全には笑わないんです」

「どうして」

「その列車に乗るのは、探し物のある人だけだって言われてるから」


 湊はノートを閉じた。

 表紙の布が、指に吸いつくように温かく感じられた。


「父は、何を探してたんでしょう」

「それを知るために、相沢さんは来たのかもしれませんね」


 窓の外で、遠く列車の警笛が鳴った。

 夜の海を越えて届くその音は、寂しさというより呼び声に近かった。


 その夜、湊は夢を見た。


 無人駅のホームに立っていた。

 白地に青い文字で、駅名標には「潮待ち浜」とある。ホームの向こうには海が広がっているはずなのに、波の音は聞こえない。代わりに、発車ベル、改札を抜ける足音、レールの継ぎ目を打つ規則的な振動が、どこからともなく響いている。


 ベンチに誰かが座っていた。

 背中だけで分かった。父だった。


 呼ぼうとするのに、声が出ない。

 父は振り返らないまま、片手を軽く上げ、ホームの先を指した。


 そこに一人の少女がいた。白い帽子をかぶり、古いかたちのワンピースを着ている。年の頃は十代半ばか、それより少し下かもしれない。見覚えはない。けれど、彼女だけがはっきりとこちらを見ていた。目は驚くほど静かで、その静けさがかえって深かった。まるで、海の色がそのまま瞳の奥へ沈んでいるようだった。


 目が覚めたとき、障子の向こうはまだ薄暗かった。


 しばらく、自分がどこにいるのか分からなかった。

 港町の宿の二階。父のノート。潮待ち浜。夢。現実と夢の境目が曖昧なまま、湊は枕元のスマートフォンが震えているのに気づいた。画面には知らない番号が表示されている。


「はい……相沢です」


 寝起きの声で出ると、低い年配の男の声が返ってきた。


「相沢湊さんですか」

「そうですが」

「わしは藤堂といいます。昔、春口駅で駅長をしとった者です」

「駅長……」

「あんたのお父さんのことを、少し知っとる」


 湊は上体を起こした。

 まだ明けきらない空の色が、障子越しに薄く滲んでいる。港のほうでは小さくエンジン音がして、始発前の町がゆっくりと息をし始めていた。海と鉄道と人の一日が、今まさにほどけようとしている。


「今朝、時間はありますか」

 電話の向こうで藤堂が言う。

「あります」

「じゃあ、七時に駅へ。赤い屋根の待合室で待っとる」


 通話が切れたあとも、しばらく湊は動けなかった。

 父の手紙に始まり、待合室の時刻表、宿に残されたノート、夢の中の少女、そして元駅長からの電話。旅先で起きるには出来すぎた出来事ばかりなのに、不思議と作り物めいた感じはなかった。むしろ逆に、ずっと前からそこにあったものへ自分がようやく追いつき始めた感覚があった。


 窓を開けると、朝の海が見えた。

 夜明け前の水面は、まだ誰のものでもない色をしている。白でも青でもなく、銀と灰のあわいで呼吸するような海。その向こうに島影がうっすらと重なり、港の先には高架が伸びていた。


 やがて遠くで、列車の来る気配がした。

 まだ姿は見えない。けれどレールが先に震え、音だけが海を渡ってくる。湊はその見えない列車を思った。どこから来て、どこへ行くのか。人を運ぶだけではなく、時間の層をいくつも連れて走るもの。父もきっと、その音を聞いたのだ。


 旅の始まりだと思っていた。

 だが本当は、何かの続きへ自分が呼ばれているのかもしれなかった。


 湊は父のノートを手に取り、そっと表紙を撫でた。

 瀬戸内の美しさは、穏やかなだけではない。その静けさの底には、長く言葉にされなかった記憶や、人が置き去りにした時間が沈んでいる。海がやわらかく光るほど、底にあるものは見えにくくなる。


 それでも、見に行かなければならない。

 父が遺した沈黙の先に何があるのか。

 時刻表から消えた「潮待ち浜」とは何なのか。

 夢の中でこちらを見ていた少女は、誰なのか。


 海は急がなくていいと教える。

 けれど、立ち止まったままでいいとは、決して言わない。


 湊は着替えを済ませ、まだ眠りの残る廊下へ出た。

 階下からは、朝食の支度をする微かな音がしている。包丁がまな板を打つ、乾いた小さな響き。暮らしの音はどこまでも静かで、その静けさがかえって、この町が長い時間を生きてきたことを感じさせた。


 赤い屋根の待合室で、元駅長が待っている。

 そこで語られることが、父の過去をどこまで開くのかは分からない。

 ただ、ここから先はもう後戻りのできない道なのだということだけは、はっきりしていた。

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