世界をチューニングする
1.ノイズとシグナル
世界はいつだって、音量が大きすぎる。
蛍光灯がジジジと鳴らす微かな悲鳴。隣の席の同僚がボールペンをノックする、カチ、カチ、というリズム。換気扇の低い唸り声。
それらが何一つ「背景」に退いてくれず、すべてが「主役」として僕の鼓膜に雪崩れ込んでくる。
僕はノイズキャンセリングイヤホンを耳に押し込み、深呼吸をした。これでようやく、世界は水槽の中のような静けさを取り戻す。
「――さん。おい、ハルキ君」
肩を叩かれ、水槽が割れた。
イヤホンを外すと、上司の佐々木課長の不機嫌な顔が目の前にあった。
「呼んだらすぐ返事をしなさい。またその耳栓か」
「すみません。集中するための遮音です」
「だから、それが態度悪いって言ってるんだよ。……で、頼んでおいた資料整理、終わった?」
「はい。終わりました」
僕は完璧に分類されたファイルの山を指差した。
年代順、カテゴリ順、さらに五十音順。一ミリのズレもなく並んでいる。これを見る瞬間だけ、僕の脳内の混沌は秩序を取り戻す。
佐々木課長はファイルをパラパラとめくり、ため息をついた。
「ハルキ君さあ……これ、『重要そうなやつをピックアップして』って言ったよね?」
「はい。ですから、過去のデータに基づき、閲覧回数が上位15%に入るものと、法的保存期間が満了していないものをすべて抽出しました」
「違うよ、そうじゃなくてさ。もっとこう……『今のプロジェクトに使えそうなやつ』を感覚で選んでほしいわけ。わかる? この空気感」
「空気感」
またその言葉だ。僕にとっての最大の敵。
空気とは窒素と酸素の混合物であり、読むものでも感じるものでもない。
「定義が曖昧です。『使えそうな』の基準を、数値かキーワードで指定してください」
課長の眉間の皺が深くなる。
周囲の空気が冷えるのが肌でわかる。
「……もういい。藤井さん、これやっといて」
「あ、はい。やります」
隣の席の藤井さんが、申し訳なさそうな顔で僕を見る。彼女はいつも僕を助けてくれるが、その「申し訳なさそうな顔」の意味がいまいち理解できない。僕は正しい手順で仕事をしたはずなのに、なぜ彼女が謝るような顔をするのか。
「ハルキ君はさ、悪気がないのはわかるんだけどね」
課長は去り際に、吐き捨てるように言った。
「もうちょっと、人間の言葉を覚えてくれないかな」
僕は膝の上で拳を握りしめた。
人間の言葉。
僕は毎日、辞書を引くように会話を分析している。誰よりも言葉の意味を考えている。
それなのに、どうして僕はいつまでも「人間」扱いされないのだろう。
2.サンプリングされた感情
定時。秒針が17時00分00秒を指した瞬間に、僕は席を立つ。
「お先に失礼します」
挨拶は短く、定型文で。余計な会話はノイズを生むだけだ。
会社を出て、駅とは逆方向へ歩き出す。
僕には、家に帰る前に必ず立ち寄る場所があった。
高架下の、誰もいないコンクリートの空き地。
そこで僕は、バッグからハンディレコーダーを取り出す。
録音ボタンを押す。
頭上を電車が通過する轟音。
ガタンゴトン、ガタンゴトン。
一定のリズム。鉄と鉄が擦れ合う、嘘のない音。
僕は目を閉じて、その音に身を委ねる。
「……ハルキさん?」
不意に、規則的なリズムの中に「異物」が混じった。
驚いて目を開けると、同僚の藤井さんが立っていた。手にはコンビニの袋を持っている。
「こんなところで何してるんですか?」
パニックになりかけた。ここは僕の聖域だ。他人が入ってくることは想定されていない。
「音を……集めています」
「音?」
「はい。電車の音は、感情を含まないから安心します。人間の言葉は、裏の意味が多すぎて、処理落ちするので」
言ってしまってから、口を噤んだ。余計なことを言った。
藤井さんは少し驚いた顔をして、それからふふっと笑った。
「処理落ち、か。ハルキさんらしい表現ですね」
彼女は僕の隣、適度な距離を開けてコンクリートの縁石に座った。
「さっきはごめんなさいね。課長の指示、適当すぎるよね」
「いえ。僕のスペック不足です」
「そんなことないよ。ハルキさんの資料、すごく使いやすかった。私、あとでこっそり参考にさせてもらったもん」
胸の奥で、小さな歯車がカチリと噛み合う音がした。
「……本当ですか」
「うん。ハルキさんの仕事は、嘘がないから信頼できる」
嘘がない。
その言葉は、電車の轟音よりも心地よく僕の胸に響いた。
だが、次の瞬間、僕は今日一番の「エラー」を犯した。
「藤井さんは、非効率ですね」
「え?」
「僕の作業を参考にするなら、最初から僕がやったデータをそのまま使えば時間短縮になります。わざわざ課長の顔色を窺って、僕の仕事を否定して引き取る必要はなかった。それはリソースの無駄遣いです」
沈黙。
藤井さんの笑顔が、少し強張った。
「……ハルキさん。それは、私がハルキさんを庇おうとしたってこと、わかってて言ってる?」
「庇う? ミスをしたのは僕ですが」
「そうじゃなくて……優しさ、なんだけどな」
藤井さんは立ち上がった。
「ごめん、ちょっとお節介だったかも。お疲れ様」
彼女は足早に去っていった。
残された僕は、遠ざかる彼女のヒールの音を聞いていた。
カツ、カツ、カツ。
そのリズムは、明らかに怒っていた。あるいは、悲しんでいた。
「……なぜだ」
僕はレコーダーを握りしめる。
論理的には僕の言ったことが正しいはずだ。なのに、なぜ彼女を傷つけたという結果が出る?
優しさ。
その定義が、僕の辞書には載っていない。
3.翻訳機を作る
翌日、僕は有給休暇を取った。
会社に行きたくなかったわけではない。いや、少しはあるかもしれない。
だが、それ以上に「解析」が必要だった。
昨日の会話。彼女の表情。ヒールの音。
僕は自室のPCに向かい、昨日の録音データを波形編集ソフトに読み込んだ。
電車の音の背景に、微かに彼女の声が入っている。
『優しさ、なんだけどな』
その波形を拡大する。
声の震え。
語尾の下がり方。
僕はそれを何度も聞き返し、自分の記憶と照合する。
彼女は僕を助けてくれた。課長の攻撃から僕を守るために、わざと仕事を引き取ってくれた。
それは「非効率」な行動だが、「感情的」にはプラスの行動だった。
僕はそれを「無駄」と切り捨てた。だから彼女は傷ついた。
「……なるほど」
論理はようやく繋がった。
だが、どうすればいい?
「ごめんなさい」と言葉で伝えるのは簡単だ。だが、僕の言葉はいつも間違って伝わる。また余計なことを言って、傷口を広げるかもしれない。
僕は、僕なりの言語で伝えるしかない。
僕はマイクに向かい、PCのキーボードを叩き始めた。
ピアノも弾けないし、歌も歌えない。
僕にできるのは、世界にある「音」を収集し、配置し、秩序を与えることだけだ。
雨の音。時計の針の音。キーボードを叩く音。
そして、昨日の電車の音。
それらのノイズを削ぎ落とし、不快な周波数をカットし、心地よいリズムだけを抽出する。
混沌とした世界を、彼女が聞きやすいようにチューニングする。
「優しさ」の定義はわからない。
けれど、「あなたがいてくれて安心した」という状態を、音で再現することはできるかもしれない。
僕は食事も忘れて、音のパズルを組み立て続けた。
4.ノイズのない世界
翌朝。
僕はいつもより早く出社し、藤井さんのデスクに小さなUSBメモリと、一枚の付箋を置いた。
付箋にはこう書いた。
『昨日の回答です。聞いてください』
始業チャイムが鳴り、藤井さんが出社してきた。
彼女はUSBメモリに気づき、不思議そうな顔で僕を見た。僕は視線を合わせられず、ひたすらモニターを見つめるふりをした。
彼女はイヤホンを取り出し、PCに接続した。
(再生された……)
心拍数が上がる。
彼女に聞こえている音が、僕の脳内でも再生される。
最初は、静寂。
そこに、ポツン、ポツンと雨音が重なる。
次第にリズムが生まれ、電車の音がベースラインのように低く響く。
それは本来ならうるさい音だが、高音域をカットしてあるため、胎動のように温かく聞こえるはずだ。
そして、そのリズムの上に、オフィスの音――電話のベルや、コピー機の音――が、メロディのように配置されていく。
僕にとっての「地獄のような騒音」を、丹念に磨き上げ、再構築した「秩序ある世界」。
そして最後のフレーズに、僕は昨日の彼女の足音を入れた。
遠ざかる音ではない。
カツ、カツ、カツと、こちらへ近づいてくるリズムに編集し直して。
3分間のトラックが終わる。
僕は恐る恐る、隣を見た。
藤井さんは、イヤホンをしたまま、呆然としていた。
そしてゆっくりと、僕の方を向いた。
その目は少し潤んでいるように見えた。
彼女は付箋を取り出し、ペンで何かを書き、僕の机に貼り付けた。
無言のまま、柔らかく微笑んで、仕事に戻った。
僕はその付箋を見た。
『すごく静かで、綺麗な世界だね。ハルキ君はいつも、こんなふうに世界を一生懸命、整頓してくれてるんだね。ありがとう。ちゃんと、聞こえたよ』
胸の奥の歯車が、今度は熱を持って回り出した。
通じた。
僕の言葉足らずな言語が、翻訳されて届いた。
「ハルキ君! なにぼーっとしてるの。朝礼始まるよ」
佐々木課長の声が、いつものように鼓膜を突き刺す。
相変わらず世界はうるさい。
蛍光灯はジーと鳴っているし、電話の音は耳障りだ。
僕はイヤホンを着けようとして、手を止めた。
隣から、藤井さんがキーボードを叩く音が聞こえる。
タタタ、タン。
そのリズムは、僕の作った音楽と少し似ていた。
「……はい、今行きます」
僕はイヤホンを机に置き、騒がしい世界の中へ歩き出した。
ノイズは消えない。
けれど、その中から聞きたいシグナルを見つけ出す方法は、もう知っている気がした。
(了)




