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哲学短編集

世界をチューニングする

作者: 紅茶
掲載日:2026/01/18

1.ノイズとシグナル

世界はいつだって、音量が大きすぎる。

蛍光灯がジジジと鳴らす微かな悲鳴。隣の席の同僚がボールペンをノックする、カチ、カチ、というリズム。換気扇の低い唸り声。


それらが何一つ「背景」に退いてくれず、すべてが「主役」として僕の鼓膜に雪崩れ込んでくる。


僕はノイズキャンセリングイヤホンを耳に押し込み、深呼吸をした。これでようやく、世界は水槽の中のような静けさを取り戻す。


「――さん。おい、ハルキ君」


肩を叩かれ、水槽が割れた。

イヤホンを外すと、上司の佐々木課長の不機嫌な顔が目の前にあった。


「呼んだらすぐ返事をしなさい。またその耳栓か」


「すみません。集中するための遮音イヤーマフです」


「だから、それが態度悪いって言ってるんだよ。……で、頼んでおいた資料整理、終わった?」


「はい。終わりました」


僕は完璧に分類されたファイルの山を指差した。


年代順、カテゴリ順、さらに五十音順。一ミリのズレもなく並んでいる。これを見る瞬間だけ、僕の脳内の混沌カオスは秩序を取り戻す。


佐々木課長はファイルをパラパラとめくり、ため息をついた。


「ハルキ君さあ……これ、『重要そうなやつをピックアップして』って言ったよね?」


「はい。ですから、過去のデータに基づき、閲覧回数が上位15%に入るものと、法的保存期間が満了していないものをすべて抽出しました」


「違うよ、そうじゃなくてさ。もっとこう……『今のプロジェクトに使えそうなやつ』を感覚で選んでほしいわけ。わかる? この空気感」


「空気感」


またその言葉だ。僕にとっての最大の敵。


空気とは窒素と酸素の混合物であり、読むものでも感じるものでもない。


「定義が曖昧です。『使えそうな』の基準を、数値かキーワードで指定してください」


課長の眉間の皺が深くなる。

周囲の空気が冷えるのが肌でわかる。


「……もういい。藤井さん、これやっといて」


「あ、はい。やります」


隣の席の藤井さんが、申し訳なさそうな顔で僕を見る。彼女はいつも僕を助けてくれるが、その「申し訳なさそうな顔」の意味がいまいち理解できない。僕は正しい手順で仕事をしたはずなのに、なぜ彼女が謝るような顔をするのか。


「ハルキ君はさ、悪気がないのはわかるんだけどね」


課長は去り際に、吐き捨てるように言った。


「もうちょっと、人間の言葉を覚えてくれないかな」


僕は膝の上で拳を握りしめた。

人間の言葉。

僕は毎日、辞書を引くように会話を分析している。誰よりも言葉の意味を考えている。


それなのに、どうして僕はいつまでも「人間」扱いされないのだろう。



2.サンプリングされた感情


定時。秒針が17時00分00秒を指した瞬間に、僕は席を立つ。


「お先に失礼します」


挨拶は短く、定型文で。余計な会話はノイズを生むだけだ。

会社を出て、駅とは逆方向へ歩き出す。

僕には、家に帰る前に必ず立ち寄る場所があった。

高架下の、誰もいないコンクリートの空き地。

そこで僕は、バッグからハンディレコーダーを取り出す。


録音ボタンを押す。


頭上を電車が通過する轟音。

ガタンゴトン、ガタンゴトン。

一定のリズム。鉄と鉄が擦れ合う、嘘のない音。

僕は目を閉じて、その音に身を委ねる。


「……ハルキさん?」


不意に、規則的なリズムの中に「異物」が混じった。

驚いて目を開けると、同僚の藤井さんが立っていた。手にはコンビニの袋を持っている。


「こんなところで何してるんですか?」


パニックになりかけた。ここは僕の聖域サンクチュアリだ。他人が入ってくることは想定されていない。


「音を……集めています」


「音?」


「はい。電車の音は、感情を含まないから安心します。人間の言葉は、裏の意味が多すぎて、処理落ちするので」


言ってしまってから、口を噤んだ。余計なことを言った。


藤井さんは少し驚いた顔をして、それからふふっと笑った。


「処理落ち、か。ハルキさんらしい表現ですね」


彼女は僕の隣、適度な距離を開けてコンクリートの縁石に座った。


「さっきはごめんなさいね。課長の指示、適当すぎるよね」


「いえ。僕のスペック不足です」


「そんなことないよ。ハルキさんの資料、すごく使いやすかった。私、あとでこっそり参考にさせてもらったもん」


胸の奥で、小さな歯車がカチリと噛み合う音がした。


「……本当ですか」


「うん。ハルキさんの仕事は、嘘がないから信頼できる」


嘘がない。

その言葉は、電車の轟音よりも心地よく僕の胸に響いた。

だが、次の瞬間、僕は今日一番の「エラー」を犯した。


「藤井さんは、非効率ですね」


「え?」


「僕の作業を参考にするなら、最初から僕がやったデータをそのまま使えば時間短縮になります。わざわざ課長の顔色を窺って、僕の仕事を否定して引き取る必要はなかった。それはリソースの無駄遣いです」


沈黙。


藤井さんの笑顔が、少し強張った。


「……ハルキさん。それは、私がハルキさんを庇おうとしたってこと、わかってて言ってる?」


「庇う? ミスをしたのは僕ですが」


「そうじゃなくて……優しさ、なんだけどな」


藤井さんは立ち上がった。


「ごめん、ちょっとお節介だったかも。お疲れ様」


彼女は足早に去っていった。

残された僕は、遠ざかる彼女のヒールの音を聞いていた。


カツ、カツ、カツ。


そのリズムは、明らかに怒っていた。あるいは、悲しんでいた。


「……なぜだ」


僕はレコーダーを握りしめる。

論理的には僕の言ったことが正しいはずだ。なのに、なぜ彼女を傷つけたという結果アウトプットが出る?


優しさ。


その定義が、僕の辞書には載っていない。



3.翻訳機を作る


翌日、僕は有給休暇を取った。

会社に行きたくなかったわけではない。いや、少しはあるかもしれない。


だが、それ以上に「解析」が必要だった。

昨日の会話。彼女の表情。ヒールの音。

僕は自室のPCに向かい、昨日の録音データを波形編集ソフトに読み込んだ。


電車の音の背景に、微かに彼女の声が入っている。


『優しさ、なんだけどな』


その波形を拡大する。


声の震え。

語尾の下がり方。


僕はそれを何度も聞き返し、自分の記憶と照合する。

彼女は僕を助けてくれた。課長の攻撃から僕を守るために、わざと仕事を引き取ってくれた。


それは「非効率」な行動だが、「感情的」にはプラスの行動だった。


僕はそれを「無駄」と切り捨てた。だから彼女は傷ついた。


「……なるほど」


論理はようやく繋がった。

だが、どうすればいい?


「ごめんなさい」と言葉で伝えるのは簡単だ。だが、僕の言葉はいつも間違って伝わる。また余計なことを言って、傷口を広げるかもしれない。


僕は、僕なりの言語で伝えるしかない。

僕はマイクに向かい、PCのキーボードを叩き始めた。

ピアノも弾けないし、歌も歌えない。

僕にできるのは、世界にある「音」を収集し、配置し、秩序を与えることだけだ。 

雨の音。時計の針の音。キーボードを叩く音。

そして、昨日の電車の音。

それらのノイズを削ぎ落とし、不快な周波数をカットし、心地よいリズムだけを抽出する。

混沌とした世界を、彼女が聞きやすいようにチューニングする。


「優しさ」の定義はわからない。


けれど、「あなたがいてくれて安心した」という状態を、音で再現することはできるかもしれない。


僕は食事も忘れて、音のパズルを組み立て続けた。



4.ノイズのない世界



翌朝。

僕はいつもより早く出社し、藤井さんのデスクに小さなUSBメモリと、一枚の付箋を置いた。


付箋にはこう書いた。


『昨日の回答です。聞いてください』


始業チャイムが鳴り、藤井さんが出社してきた。

彼女はUSBメモリに気づき、不思議そうな顔で僕を見た。僕は視線を合わせられず、ひたすらモニターを見つめるふりをした。


彼女はイヤホンを取り出し、PCに接続した。


(再生された……)


心拍数が上がる。

彼女に聞こえている音が、僕の脳内でも再生される。


最初は、静寂。


そこに、ポツン、ポツンと雨音が重なる。

次第にリズムが生まれ、電車の音がベースラインのように低く響く。


それは本来ならうるさい音だが、高音域をカットしてあるため、胎動のように温かく聞こえるはずだ。


そして、そのリズムの上に、オフィスの音――電話のベルや、コピー機の音――が、メロディのように配置されていく。


僕にとっての「地獄のような騒音」を、丹念に磨き上げ、再構築した「秩序ある世界」。


そして最後のフレーズに、僕は昨日の彼女の足音を入れた。


遠ざかる音ではない。


カツ、カツ、カツと、こちらへ近づいてくるリズムに編集し直して。


3分間のトラックが終わる。

僕は恐る恐る、隣を見た。


藤井さんは、イヤホンをしたまま、呆然としていた。

そしてゆっくりと、僕の方を向いた。


その目は少し潤んでいるように見えた。

彼女は付箋を取り出し、ペンで何かを書き、僕の机に貼り付けた。


無言のまま、柔らかく微笑んで、仕事に戻った。

僕はその付箋を見た。


『すごく静かで、綺麗な世界だね。ハルキ君はいつも、こんなふうに世界を一生懸命、整頓してくれてるんだね。ありがとう。ちゃんと、聞こえたよ』


胸の奥の歯車が、今度は熱を持って回り出した。

通じた。

僕の言葉足らずな言語が、翻訳されて届いた。


「ハルキ君! なにぼーっとしてるの。朝礼始まるよ」


佐々木課長の声が、いつものように鼓膜を突き刺す。

相変わらず世界はうるさい。


蛍光灯はジーと鳴っているし、電話の音は耳障りだ。

僕はイヤホンを着けようとして、手を止めた。

隣から、藤井さんがキーボードを叩く音が聞こえる。


タタタ、タン。


そのリズムは、僕の作った音楽と少し似ていた。


「……はい、今行きます」


僕はイヤホンを机に置き、騒がしい世界の中へ歩き出した。


ノイズは消えない。


けれど、その中から聞きたいシグナルを見つけ出す方法は、もう知っている気がした。


(了)


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