第六話 新たな世界へ
ダンジョンの最奥に差し込んだ光は、門だった。巨大な石扉が、響とバルトの前に音もなく開かれている。清浄な空気が、これまで吸い込んできたダンジョンの湿った空気を洗い流すかのように鼻腔を抜けた。まばゆいばかりの陽光が、響の瞳に飛び込んでくる。
『眩しい……!』
バルトの心の声は、純粋な安堵と解放感に満ちていた。彼は、その光に吸い寄せられるように駆け出す。響は、彼が光の中に飛び込んでいくのを、一歩遅れて見つめていた。彼女の心には、バルトのような歓喜はなかった。ただ、目の前の世界が、彼女に何を提示するのか、静かな探究心だけがあった。
響が門をくぐると、目の前には想像もしていなかった光景が広がっていた。鬱蒼とした深い森。見上げるほどの大木が天を突き、足元には見たことのない植物が生い茂っている。遠くからは鳥のさえずりが聞こえ、風が葉を揺らす音が、心地よい響きとなって耳に届いた。ダンジョン内の閉塞感とは真逆の、広大で生命力に満ちた世界だった。
「ひ、響……!俺たち、本当に生きて帰れたんだな……!」
バルトが、震える声で叫んだ。彼の目には涙が浮かび、心の声は『もう二度とダンジョンなんてごめんだ』と正直な本音を吐き出している。その感情が、響の体内で微かなエネルギーとして循環する。それは、ダンジョン内で吸収してきた負の感情とは異なる、柔らかなエネルギーだった。
響は、深く息を吸い込んだ。土と植物の匂い。遠くで動物が走り去る気配。そして、何よりも、バルトの心の声以外の「ノイズ」がない。ここは、彼女が求めていた「静寂」に近い世界なのかもしれない。
「ここは……どこだ?」
響は、バルトに問いかけた。
「たぶん、ダンジョンから一番近い、森の入り口だ。ここから東へ行けば、人間が住む村があるはず……」
バルトは、地図を思い出すように、記憶を辿っていた。彼の心の声から、『早く村に行って、飯を食いたい』『安全な場所で眠りたい』という素朴な欲求が読み取れる。
響は、村という言葉に微かに反応した。人間がいる場所。そこには、再び「ノイズ」があるだろう。しかし、ダンジョン内の黒竜との戦いを経て、響は「ノイズ」に対する新たな向き合い方を見つけていた。
(濾過……か)
響は、自身の能力を思い返す。ただ吸収するのではなく、感情の濁流の中から純粋なエネルギーだけを抽出し、その性質を変化させる「濾過」。黒竜との戦いで、偶然生まれたその能力は、これからの彼女の生き方を変えるかもしれない。
「村へ行く」
響は、迷うことなく告げた。彼女にとって、外界の情報は不可欠だ。この世界の全体像、自身の能力の限界、そして「元の世界に戻る方法」について。それら全てを知るためには、人間社会との接触が必要だった。
バルトは、響の言葉に少し驚いたようだった。彼の心の声は、『こんなにすぐに動くのか?普通は休むだろ……』と戸惑いを隠せない。だが、響の圧倒的な力と、冷徹な決断力に、彼には逆らう選択肢などなかった。
「わ、わかった。俺が案内する。けど、森の中は魔物が出るし、夜は特に危険だ」
バルトは、そう言って警戒するように周囲を見回した。彼の心の声から、『疲れた』『早く安全な場所へ』という感情がひしひしと伝わってくる。
「……問題ない」
響は、淡々と答えた。彼女には、疲労という概念がほとんどなかった。魔物を倒すことで、その感情をエネルギーとして吸収し、自身の力を補給しているためだ。むしろ、活動することで、彼女の体は活性化する。
森の中を歩き始めると、すぐに新たな魔物と遭遇した。全身が木でできた、人型の魔物「ウッドゴーレム」だ。体からは木の葉が揺れ、鈍重な動きで襲いかかってくる。
『この人間どもを、森から排除する……!』
単純な使命感と、原始的な『敵意』の心の声が響く。バルトは悲鳴を上げかけたが、響は既に動いていた。
「……解体」
響が呟くと、ウッドゴーレムの体が、まるでパーツに分解されるかのように、音もなく木片の山へと変わった。その木片は、やがて土に還っていく。
『ま、また……!?』
バルトの心の声は、もはや驚きと畏怖を通り越して、諦めに近いものになっていた。響は、彼の感情を吸収し、再び自身の能力の可能性を確信した。
森を進む道中、響は様々な魔物と遭遇した。凶暴な森狼、毒を持つ大蛇、空を飛ぶ巨大な鳥型魔物。だが、響の「言霊」の前では、どんな魔物も無力だった。
彼女は、自身の能力をさらに試すように、様々な言葉を試した。「沈黙」「停止」「分解」「燃焼」「凍結」……。放つ言葉一つ一つが、確実に現象を引き起こし、魔物を殲滅していく。それは、まるで世界の理を書き換えるかのような、圧倒的な支配力だった。
バルトは、響のあまりにも規格外な力に、次第に恐怖以上の感情を抱き始めていた。彼の心の声は、『こいつは本当に人間なのか?』から、『もしかして、神の使徒か、それとも……』という、新たな猜疑と期待に変わっていく。
響は、その心の声の変遷を、冷静に観察していた。バルトが抱く畏怖や期待。それらもまた、彼女にとっての「ノイズ」だ。しかし、ダンジョンでの経験を経て、彼女はこれらのノイズを以前のように完全に遮断するのではなく、意識的に「濾過」して、自身の力として取り込むことを学んでいた。
日が傾き始め、夕焼けが森を赤く染め上げた。空に浮かぶ太陽は、元の世界と変わらないように見えたが、どこか遠く、幻想的な輝きを放っていた。バルトは、疲労困憊で座り込もうとする。
「あと、どれくらいだ?」
響は、バルトの心の声から、『もう歩けない』という悲鳴が聞こえるのを無視して尋ねた。
「もう……もうすぐだ!この丘を越えれば、村の灯りが見えるはず……」
バルトが指差した方向の先に、確かに微かな光が見えた。村だ。
響は、その光を見つめた。そこには、きっと様々な人間がいて、様々な「心の声」が渦巻いているだろう。それは、彼女が元の世界で避けてきた、ノイズの洪水だ。
しかし、今は違う。彼女には、そのノイズを「濾過」し、力に変える術がある。そして、そのノイズの中に、きっと彼女が求める情報が隠されているはずだ。
響は、静かに、しかし確かな一歩を踏み出した。彼女の視線は、村の灯りを捉え、その瞳には、新しい世界への、静かな、しかし確かな探究心と、この力をどこまで使いこなせるのかという、純粋な「面白さ」が宿っていた。
(この世界で……私の「ノイズ」は、どこまで通用するのか……)