金貨の国のアルケミア
俺の名前はレオン・アグレッティ。 かつて帝国アルケミアで、それなりに名の知れた若き錬金術師だった。……いや、今となっては、その肩書も、あの頃の俺自身も、遠い昔の幻影のようだ。
俺が呼吸し、疑うことすらしなかった世界――帝国アルケミアは、冷徹な数字によって精密に制御されていた。 あらゆる存在が、帝国が発行する唯一絶対の通貨、錬金通貨魔貨へと換算される。労働、土地、資源は言うに及ばず、芸術、知識、感情、記憶、果ては死者の亡骸までもが。その「換金効率」という名の冷たい天秤にかけられ、存在の価値が決定づけられた。 俺たちが生きるために不可欠な空気や水でさえ、その純度に応じて価格が付けられ、富裕層は清浄なそれを買い、貧困層は汚染されたそれに喘ぐ。それが当然の世界だった。
「価値があるかないか」。それが、俺が世界を理解し、生き抜くための唯一のコンパスだった。 効率。利益。そして、揺るがぬ原則としての等価交換。 これらに反するものは非効率であり、社会の進歩を妨げる悪だと教え込まれ、俺自身もそれを内面化していた。 没落した貴族の家に生まれ、失われた栄光を取り戻すという強迫観念にも似た渇望を抱えていた俺にとって、錬金術によって他者を出し抜き、より多くの魔貨を蓄積することだけが、存在意義を証明する唯一の道だったからだ。 共感や情けは、弱者が現実から目を背けるための麻薬だと、本気で信じていた。
だが、世界は、俺が信じていたような単純な方程式では解き明かせなかった。 金貨の眩い光が届かない影の部分に、数値では決して測れない、触れることすら難しい、温かくも厄介で、そして時に残酷な“何か”が、確かに息づいていたんだ。
これは、そんな俺が、「価値」という名の絶対的な信仰――あるいは、硬質な鎧の中から解き放たれ、帝国がゴミ溜め同然に扱った場所で、忘れ去られたはずの「意味」という名の、ささやかだが壊れやすい光を見つけ出すまでの物語。 あの頃の、他者の痛みに鈍感だった俺には想像もつかなかったであろう、苦くて、少しだけ希望の味がする、そんな結末に至るまでの記録だ。
「レオン様、午前の取引結果です。鉄屑換金レート、10kgあたり118アル。若干の持ち直しを見せましたが、依然低調です。第3錬成炉の触媒交換、コスト増を最小限に抑える代替案を三件提出します。ご査収ください」
「目を通しておく。だが、甘いな。コスト増を抑えるのではない、コストを削減しつつ効率を上げろ。それができなければ、お前の“価値”はない。分かっているな?」
俺、レオン・アグレッティの工房は、常に張り詰めた空気に満ちていた。 錬金術学院を首席で卒業したとはいえ、後ろ盾のない俺が帝都中枢の一等地に工房を維持するには、常に結果を出し続けなければならなかった。周囲には、俺以上に貪欲で、冷徹な錬金術師や商人が牙を剥き、虎視眈々と他者の失敗を狙っている。市場は、価値の変動に狂喜し、絶望する人々の感情が渦巻く、巨大な賭博場にも似ていた。ここでは、一瞬の油断が破滅に繋がる。
「価値こそが、存在を証明する唯一の尺度だ。友情や信頼などという曖昧なものは、ビジネスにおいてはリスク要因でしかない。利用価値がなくなれば、即座に切り捨てる。それが合理的な判断だ」
俺はそう公言し、実践してきた。 かつて共に学んだ友人が、事業の失敗で資金援助を懇願してきた時も、俺は彼の担保価値と将来性を冷徹に分析し、「投資不適格」と判断して追い返した。その時の彼の絶望した顔を、俺はすぐに忘れることに努めた。感傷は効率を低下させる。それが、この帝国で成功するための鉄則だった。 貧困層――“価値喪失者”たちは、その境遇を自らの怠惰や無能さの結果として受け入れるべきだと考えていた。彼らの存在は、俺が登るべき階段の下にある、汚泥のようなものだった。
そんなある日、俺の研究は壁にぶつかっていた。 既存の技術体系の中では、これ以上の飛躍的な魔貨変換効率の向上は望めそうにない。新たなブレイクスルーのためには、未知の触媒、あるいは帝国の管理外にある古代の禁断知識が必要だった。 その糸口を求めて、俺は「禁書館」――帝国のあらゆる知識が、その価値に応じて厳重に管理され、高額な閲覧料と引き換えにアクセスが許可される知の要塞――へと足を運んだ。そこは、古書の黴臭い匂いと、厳格な静寂が支配する場所だった。 そこで、俺は奇妙な、そして忘れがたい“商品”と対峙することになる。
「レオン・アグレッティ様、お待ちしておりました。特級閲覧許可、確認いたしました。ご案内します」
感情の抑揚を欠いた管理官に導かれた先、厳重な魔術障壁で隔離された一室に、彼女はいた。
「『魔法図書奴隷』No.7、識別コード、フィーネ・クロノ。記録されている知識領域は広範、特に古代言語及び失伝魔術に関する知識保有量は特A級と評価されています」
鎖。首輪。そして、虚ろな瞳。 色素の薄い髪は艶を失い、着ている衣服は囚人服同然の粗末なものだった。だが、その痩せた肢体には、虐げられてもなお失われない芯の強さのようなものが感じられた。 そして、その瞳。あらゆる感情を放棄したかのような静けさの中に、時折、鋭い知性の閃光が走る。それはまるで、灰の下に熾火が隠されているかのようだった。
「ただし、ご承知の通り、彼女は知識を言語化する際に、その情報価値に応じた魔貨を徴収する呪いをかけられています。特A級知識ともなれば、その代償は、小国の国家予算にも匹敵する可能性があります」
「……つまり、宝の持ち腐れ、というわけか。どんなに価値ある知識を持っていても、それを引き出すコストが見合わなければ意味がない。非効率的だな」 俺は鑑定するように言った。純粋な好奇心と、錬金術師としての探求心が刺激されたが、それをビジネスとして評価すれば、答えは明らかだった。
「左様でございます。故に、彼女の現在の主な“利用価値”は、その存在自体が持つ希少性と、知識を秘匿された存在という物語性にあります。一部の好事家にとっては、垂涎の的のようですが……」
管理官の言葉には、商品に対する侮蔑と、それを所有する者への卑屈な追従が滲んでいた。俺は言いようのない不快感を覚えたが、それを表情には出さなかった。非合理的な感情は、取引の邪魔になるだけだ。 フィーネは、俺たちの会話をどこか遠い世界のことのように聞いていた。いや、聞いていないのかもしれない。彼女は、ただそこに“在る”だけ。まるで、自分自身が価値ある情報と同じように、誰かに閲覧され、評価されるのを待つ、モノであるかのように。だが、その諦めきったような静けさの奥底に、ほんの一瞬、燃えるような抵抗の色が見えた気がした。
(……危険だ。この存在は、計算できない要素が多すぎる。知識という無形の価値、それを引き出すための莫大なコスト、そして、この底知れない瞳……。関わるべきではない。これは、利益ではなく、破滅をもたらす可能性の方が高い)
俺は合理的な判断を下した。リスクとリターンを天秤にかければ、明らかにリスクが上回る。俺は冷徹なビジネスマンであるべきだ。 そう結論付け、俺は禁書館を後にした。だが、工房に戻っても、あの少女の、静かすぎる瞳が脳裏から離れなかった。 それは、俺が築き上げてきた数字と効率の世界に投げ込まれた、最初の、そして最も厄介な問いかけのように思えた。
帝都での研究は、依然として停滞していた。焦りが募る。 俺は、よりリスクの高い選択肢に目を向けざるを得なくなっていた。それは、帝国の支配が及ばない辺境、「価値喪失者」たちが追放される不毛の地への探索だった。そこには、未知の資源や古代遺跡が眠っている可能性があるという、半ば伝説のような噂があった。 もちろん、帝国が見捨てた土地だ、危険は計り知れない。だが、追い詰められた俺には、その僅かな可能性に賭けるしかなかった。 あるいは、反抗する気力すら失った彼らを、極めて低いコストで労働力として利用できるかもしれない、という打算も、否定はしない。
最低限の護衛と、監視役兼“お荷物”として同行を命じられたフィーネを連れ、俺は帝国の光が届かない辺境へと旅立った。 そこは、文明社会から切り離された、荒涼とした土地だった。痩せた大地、枯れた木々、そして、まるで亡霊のように佇む、朽ちかけた家々。 村に足を踏み入れると、住人たちの猜疑心と諦観に満ちた視線が突き刺さる。彼らは、帝国から「社会の寄生虫」と烙印を押され、この地に“廃棄”された者たちだ。生きる気力すら、奪われているように見えた。
(やはり、噂は噂に過ぎなかったか。こんな場所に、利用価値のあるものなど……)
俺が落胆し、早々に引き上げようとした時だった。 村の広場とも呼べないような空き地で、俺は異様な光景を目にした。 地面に座り込み、古びた布の人形を抱きしめる少女。歳は十にも満たないだろうか。ノエル、と後に呼ばれることになるその少女は、言葉を発さず、誰と関わるでもなく、ただそこに“いた”。 その存在は、この効率至上の帝国においては、完全なる“ゼロ”。いや、維持コストを考えれば“マイナス”の存在だった。
「おい、そこの老人」 俺は近くで力なく座り込んでいた老人に尋ねた。
「あの娘は何だ? なぜ働かずにいる? 病気か? それとも……」
老人は、ゆっくりと顔を上げた。その顔には深い皺が刻まれ、瞳には生気が乏しい。 「……ああ、ノエルのことかね? あんたも、物好きだな、こんな場所まで……。ノエルはな、生まれつき、ちいとばかり違うんじゃ。言葉も上手く話せんし、力仕事もできん。ただ、ああして静かにしとるだけじゃ」
「ただしているだけ? それでどうやって食っている? この村の者たちも、自分のことで精一杯だろう。なぜ、何の生産性もない子供を養っているんだ? 非効率的だとは思わんのか?」 俺の口調は、自然と詰問調になった。帝国の常識からすれば、ありえないことだったからだ。
老人は、乾いた咳を一つすると、力なく笑った。 「非効率……かもしれんな、あんたのような帝都の人の物差しで測れば。じゃがな、ワシらにとって、ノエルは……なんというか、最後の砦みたいなもんじゃ」
「砦だと? あんな無力な子供が?」
「ああ。ワシらは皆、帝国に見捨てられ、希望も誇りも奪われた。明日死んでも、誰も気にも留めん。そんなクズみたいなワシらでもな、ノエルを見ると……あの子がただそこにいて、息をしているのを見ると、ほんの少しだけ、思うんじゃ。『ああ、まだ、ここにいてもいいのかもしれないな』って。あの子の存在が、ワシらが生きてるってことの、か細い証みたいなもんじゃよ。金じゃ買えん、大事な……」
老人の言葉は、俺の理解を超えていた。 “意味”? “証”? そんな曖昧なものが、生きる理由になるというのか? 俺が必死に積み上げてきた価値観が、まるで砂上の楼閣のように揺らぎ始めた。
俺は、その日、村に留まることにした。錬金術師としての探求心か、あるいは単なる好奇心か。俺は、この村の人々とノエルの関係を、もう少し観察してみたくなったのだ。
数日間、俺は村人たちの生活を観察した。 彼らは、乏しい食料を分け合い、互いの仕事を助け合い、そして、常にノエルの存在を気にかけていた。ある者は、摘んできた野の花をノエルの髪に飾り、ある者は、自作の粗末な笛で、彼女のために静かなメロディーを奏でる。ノエルは、それらに、言葉ではなく、はにかむような笑顔や、人形をそっと差し出す仕草で応えていた。 それは、帝国では決して見ることのできない、不器用で、しかし温かいコミュニケーションの形だった。
フィーネもまた、鎖に繋がれたまま、その光景を静かに見守っていた。 彼女の瞳には、以前のような完全な虚無ではなく、微かな戸惑いと、そして、羨望のような色が浮かんでいるように見えた。言葉を奪われた彼女にとって、言葉を介さないこの村の繋がりは、特別な意味を持っていたのかもしれない。
ある夜、俺は工房での研究に行き詰まり、外の空気を吸いに出た。 月明かりの下、広場にノエルが一人で座っているのが見えた。彼女は、抱いている人形に、何かを囁くように顔を寄せていた。その姿は、ひどく孤独で、そして同時に、何か神聖な儀式を行っているようにも見えた。 俺は、声をかけるのをためらった。彼女の世界を壊してはいけないような気がしたのだ。
この村で過ごすうちに、俺の中の「価値」という物差しが、少しずつ歪み始めていた。 効率や利益では測れない、何かがここにはある。それは、俺が今まで否定してきた「弱さ」や「無駄」の中にこそ、存在するのかもしれない。 その予感は、俺を不安にさせると同時に、奇妙な安らぎも与えるのだった。
帝都への帰還は、俺にとって複雑な心境をもたらした。 辺境の村で見た光景、ノエルの存在、そしてフィーネの微かな変化。それらは、俺の中にあった「価値」という絶対的な基準に、小さな、しかし無視できない亀裂を生じさせていた。 だが、帝都に渦巻く剥き出しの競争原理と、魔貨への渇望は、そんな感傷を容易く押し流そうとする。俺は再び、効率と利益を追求する日常へと引き戻されようとしていた。
そんな矢先に、帝国全体を震撼させる宣告が下された。 帝国錬金評議会総督、ファウスト・ガルド。その男は、自らが築き上げた巨大な富と権力を背景に、帝国全土に向けて、恐るべき計画を、まるで神の託宣のように宣言したのだ。
「諸君、時は満ちた! 我々は進化する! 『等価還元式 世界整理儀式』の発動をここに宣言する! これは、我々の社会に巣食うあらゆる非効率――富を生み出さず、進歩を阻害する“価値なき者”を淘汰し、その存在を純粋な魔力資源へと還元する、究極の合理化である! これぞ、市場原理に基づいた自然淘汰! 適者生存! 真に価値ある者だけが生き残る、完璧なる世界の創造なのだ! 反論は無意味だ。なぜなら、歴史は常に、最も価値ある者の手によって動かされてきたのだからな!」
ファウストの演説は、計算され尽くした扇動だった。恐怖と期待を巧みに煽り、民衆を「価値ある側」と「価値なき側」に分断する。 帝都では、多くの市民が、自分たちが選ばれた側だと信じ、あるいは信じようとし、その残酷な論理を熱狂的に支持した。「これで社会は健全になる!」「我々の負担が減る!」「帝国はさらに発展する!」そんな声が、狂気じみた熱を帯びて広まっていく。 それは、俺がかつて信奉していた合理主義の、最も醜悪な発露に見えた。
(……だが、彼の言うことにも一理あるのかもしれない。社会全体の効率を考えれば、非生産的な要素を排除するのは、冷徹だが論理的な判断だ。俺が見たあの村の光景は、例外的な、あるいは感傷的な幻想だったのではないか……?)
俺の心は、再び揺れ動いた。ファウストの論理は、俺が学んできた錬金術の法則とも整合性が取れる。否定することは、俺自身の過去を否定することにも繋がりかねない。 だが、どうしても、あの少女の姿が瞼から消えない。ノエル。彼女は、ファウストの基準では、真っ先に「資源」へと変えられるべき存在だ。あの村人たちも、同様だろう。彼らのささやかな営み、不器用な優しさ、それらは全て「非効率」として断罪されるのか?
俺は、工房の片隅で、絶望に打ちひしがれるフィーネの姿を見た。彼女の瞳には、帝国のシステムの恐ろしさを知る者だけが持つ、深い恐怖が宿っていた。 そして、俺は決意した。もう一度、あの村へ行こう。俺自身の目で、耳で、心で、確かめなければならない。どちらの世界を選ぶべきなのかを。
儀式の発動が間近に迫る中、村は死のような静寂に包まれていた。空には、帝都から伸びる不気味な錬成陣の光が、終末の予兆のように瞬いている。 広場には、ノエルがいた。いつものように、人形を抱いて。だが、その顔は蒼白で、小さな体は恐怖に震えていた。彼女の周りには、為す術もなく立ち尽くす村人たちがいた。 以前話した老人が、俺の姿を認めると、力なく首を振った。
「……レオン様、あんたには感謝しとる。少しの間じゃったが、あんたがここにいてくれたおかげで、ワシらは少しだけ、忘れとったもんを思い出せた気がする。……だが、もう終わりじゃ。ワシらのような“価値のない”もんは、ファウスト様の作る新しい世界には必要ないんじゃろうな……」
その時、ノエルが、か細い声で、何かを呟いた。それは言葉になっていなかったが、明らかに、恐怖と、そして「生きたい」という切実な願いが込められているように聞こえた。 彼女は、抱きしめていた人形を、俺に向かって、おずおずと差し出した。まるで、最後の希望を託すかのように。
その瞬間、俺の中で何かが弾けた。 合理性も、効率も、帝国の論理も、全てが吹き飛んだ。この小さな手を、このか細い願いを、踏みにじらせてたまるか。
「ファウストは……間違っている……!」
俺の後ろから、か細いが、しかし強い意志のこもった声が響いた。フィーネだった。 彼女は、震える足で立ち上がり、俺と、ノエルと、そして村人たちを見据えていた。
「帝国が言う“価値”は……人を……幸せにはしない……! それは……支配と……搾取のための……都合の良い……言い訳に過ぎない……!」
彼女は、自らの命を削る覚悟で、再び言葉を紡ぎ始めた。首輪が禍々しい光を放ち、彼女の体から生命力を奪っていく。だが、その瞳は、恐怖を乗り越えた決意に燃えていた。
「ファウスト総督は……かつて……彼自身も……“価値なき者”として……虐げられた過去を持つ……。だからこそ……彼は……価値の絶対性を……力で証明しようとしている……! 彼の言う……“最適化”は……世界のためではない……! それは……彼の歪んだ……復讐心と……支配欲を満たすための……巨大な……生贄の儀式なのです……! 真の価値は……魔貨の量では……測れない……! それは……ノエルのような……存在が……教えてくれる……!」
フィーネの言葉は、ファウストという人間の、単なる悪役ではない、歪んだ動機をも示唆していた。 そして、彼女は最後の力を振り絞り、帝国のシステムの根幹に関わる、ある重大な秘密――儀式が単なる消去ではなく、魂をもエネルギーに変換する非道なものであること――を暴露すると、糸が切れたように崩れ落ちた。
俺は、意識を失ったフィーネを抱きとめ、ノエルから差し出された人形を、強く握りしめた。 温かい。それは、ただの布切れではなかった。そこには、ノエルの、そしてこの村の人々の、ささやかな、しかし確かな「意味」が込められているような気がした。
俺は空を睨みつけた。ファウスト、お前の歪んだ価値観で、この温もりを消させはしない。 俺は、禁断とされた古代の術――想いを力に変える魔術を使うことを、この時、完全に決意した。 たとえそれが、帝国への反逆であり、俺自身の破滅を意味するとしても。
「等価還元式 世界整理儀式」は、最終段階に入っていた。 帝都上空の巨大錬成陣は、世界そのものを書き換えるかのような、圧倒的なエネルギーを放ち、大地を震わせる。塔の頂上では、ファウストが勝利を確信し、陶酔していた。彼にとって、これは自らの価値観の絶対性を証明する、最後の仕上げだった。かつて自分を虐げた世界への、歪んだ形での復讐でもあったのだろう。
「見よ! 古き非効率な世界は消え去り、純粋な価値によって序列化された、完璧なる秩序が生まれる! 私という頂点の下に! これぞ進化! これぞ真理!」
その狂信的な叫びが響く中、俺は辺境の村の広場で、最後の準備を整えていた。 地面には、古代の祈りの文様にも似た、複雑だが有機的な術式が描かれている。俺の周りには、固唾を飲んで見守る村人たち。そして、フィーネとノエル。 フィーネは衰弱しながらも、俺の背中に小さな手を当て、無言の励ましを送ってくれている。ノエルは、俺が握りしめている彼女の人形を、じっと見つめていた。その瞳には、恐怖ではなく、不思議なほどの静けさが宿っていた。
俺は、深く息を吸い込んだ。 これから行うのは、帝国が最も忌み嫌った「無価値」な行為。金貨を一切生み出さず、ただ術者の強い“想い”――怒り、悲しみ、守りたいという願い――を、純粋な力、“意味”そのものとして顕現させる禁術。 成功の保証はない。失敗すれば、俺自身が魔力の暴走で消滅するだろう。だが、もう迷いはなかった。
「レオン……ありがとう……」 フィーネが囁いた。
俺は頷き、ノエルに向かって微笑みかけた。 「君が教えてくれたんだ、ノエル。価値なんてなくても、生きているだけで意味があるってことを。だから、今度は俺が守る番だ」
俺は、全ての精神を集中し、術式に自らの魔力と、魂そのものを注ぎ込む。 脳裏に浮かぶのは、ノエルの涙、フィーネの告発、村人たちの不器用な優しさ、そして、ファウストの歪んだ価値観によって踏みにじられようとしている、全ての声なき存在たちの姿。 守りたい。この温もりを、この繋がりを、このささやかな「意味」を!
「愚か者がァッ! レオン・アグレッティ! その術式は……! まさか、古代の“意味”の魔術だと!? 非合理の極み! 無価値の極みだ! そんなもので、私の完璧な価値の世界を止められると思うなァッ!」
ファウストが、俺の意図に気づき、激昂する。彼の計算された世界に、予測不能な変数が投入されたことへの焦りと怒りが、その声に滲んでいた。
「そうだとも、ファウスト! これは金にはならない! お前の物差しでは測れない! だがな、この“意味”には、お前の冷たい価値観なんかが到底及ばない、魂を揺さぶる力があるんだ!」
俺は叫びと共に、術を発動させた。 俺の体から放たれたのは、眩い黄金色の光。それは、魔貨の冷たく硬質な輝きとは全く違う、どこまでも温かく、生命の息吹に満ちた光だった。 光は、天を衝く柱となり、巨大な儀式陣の中心を撃ち抜いた。
瞬間、完璧に制御されていたはずの儀式陣が、激しく歪み、エネルギーが逆流を始める。ファウストが築き上げた価値のシステムに、その対極にある「意味」の力が干渉し、その論理回路を破壊していく。
「馬鹿な……なぜだ……価値こそが絶対のはず……! 無価値なものが……意味などという幻想が……私の世界を……私の存在意義を……否定するなど……! あってはならない! あってはならないのだァァァァッ!!」
ファウストは、自らの信念体系が崩壊していく現実に耐えられなかった。彼は、最後の悪あがきのように、自身の莫大な魔力を暴走させ、儀式陣へと叩きつける。だが、それは自滅行為に等しかった。 価値の絶対性を信じ、それ以外の全てを否定してきた男は、皮肉にも、自らが最も恐れていた「無意味」な力の奔流の中で、その精神も肉体も、絶対的な価値観もろとも、完全に消滅した。 彼が最期に見たのは、自分が価値がないと断じたものたちが放つ、温かく、そして抗いがたい光だったのかもしれない。
ファウストの消滅と共に、儀式は完全に停止し、帝国の中枢システムも連鎖的に崩壊した。 絶対的な価値の象徴だった魔貨は、その魔術的な裏付けを失い、急速にただの金属片へと変わっていく。 帝国アルケミアの支配は、ここに終わりを告げた。
帝都は未曾有の混乱に陥ったが、辺境の村には、俺が放った光の残滓が、穏やかな雨のように降り注いでいた。 それは、破壊の後の静けさと、新しい時代の始まりを告げる、優しい光だった。 ノエルは、空を見上げ、ほんの少しだけ、微笑んだように見えた。
帝国アルケミアの崩壊から、数年が経った。 世界は、劇的に変化した。絶対的な価値基準だった魔貨が消え去り、人々は否応なく、新しい生き方、新しい繋がり方を模索しなければならなくなった。それは、混乱と困難の時代であると同時に、可能性の時代でもあった。
かつての帝都は、その輝きを失い、多くの人々が離散した。代わりに、地方の小さな村やコミュニティが、新たな生活の中心となりつつある。物々交換、地域ごとの代用貨幣、そして何より、「信頼」や「互助」といった、かつて帝国が非効率として切り捨てたものが、社会を支える基盤として、少しずつ、しかし確実に根付き始めていた。 もちろん、全てが順調なわけではない。食糧不足、失われた技術の再生、旧体制の残党による抵抗など、課題は山積みだ。それでも、人々は、以前のような冷たい競争ではなく、顔の見える関係の中で、試行錯誤しながら未来を築こうとしていた。
俺、レオン・アグレッティは、あの辺境の村――今では多くの人が移り住み、活気を取り戻しつつある――に腰を落ち着け、「元・錬金術師」という奇妙な肩書で、人々の手助けをしている。 壊れた道具の修理から、簡単な医療行為、時には子供たちの勉強を見ることもある。報酬は、その時々で、食べ物だったり、手伝いだったり、笑顔だったりする。 あの禁術、「心の魔術」を使うこともあるが、それは本当に必要な時だけだ。力に頼るのではなく、人々と共に汗を流すことに、今は喜びを感じている。昔の俺なら、考えられないことだろう。だが、誰かの「ありがとう」という言葉が、かつて渇望した魔貨よりもずっと、俺の心を豊かにしてくれることを、今の俺は知っている。
フィーネは、完全に回復し、その知識と経験を活かして、新しい時代の「語り部」として、各地を旅している。 彼女は、帝国の過ちを繰り返さないために歴史の真実を語るだけでなく、様々なコミュニティが試みている新しい社会の形や、困難の中で生まれた人々の絆の物語を収集し、伝えている。彼女の言葉は、多くの人々にとって、道標であり、希望となっている。 時には、旧体制の価値観を持つ者たちから反発を受けることもあるようだが、彼女の周りには、彼女を支え、守ろうとする人々が常にいる。彼女はもう、孤独な「魔法図書奴隷」ではない。
そして、ノエル。 彼女は、今もあの村で、静かに、しかし確かに、生きている。以前より少しだけ言葉を話すようになったが、それでも、多くを語ることはない。だが、彼女の存在そのものが、この新しい時代における「意味」の象徴として、人々の間で静かに語り継がれている。 彼女は、ただそこにいて、時折、花に水をやったり、村の子供たちと黙って砂遊びをしたりする。そんな何気ない姿が、周りの人々の心を和ませ、争いごとを鎮める不思議な力を持っているのだ。 彼女は、誰かに何かを与えるわけではない。だが、彼女と触れ合うことで、人々は、効率や損得とは違う、もっと根源的な安らぎや、生きることそのものの価値を、再発見する。彼女は、受動的な象徴であるだけでなく、彼女自身のペースで、この世界との関わり方を、少しずつ見つけ始めているのかもしれない。 彼女が大切にしていた人形は、村の皆の手で大切に保管され、新しい世代の子供たちへと受け継がれる物語の、始まりの証となっている。
価値とは、一体何だったのだろうか。 ファウストが信奉した絶対的な価値は、結局、彼自身をも滅ぼした。だが、価値そのものが悪だったわけではないのかもしれない。問題は、それを絶対視し、他の全てを切り捨てた、その硬直した思考にあったのだろう。
そして、「意味」とは何か。 それは、ノエルのように、ただ存在することで生まれるものもあれば、フィーネのように、言葉で紡がれるものもある。俺のように、行動することで見出すものもあるのだろう。 それは、一つではなく、多様で、移ろいやすく、そして、誰かとの関係性の中に、そっと生まれてくるものなのかもしれない。
金貨の国は滅びた。冷たく、効率だけを追求した時代は終わった。 その代わりに、俺たちは、不便で、不確かで、時にぶつかり合いながらも、互いの存在を認め合い、意味を問い、紡いでいく、面倒だが温かい営みを取り戻した。 価値なきものとされたものが、世界を変えた。
そして、意味を探し求める、この人間らしい、不完全で、だからこそ愛おしい世界は、まだ、その物語の序章を歩んでいる最中なのだ。
『金貨の国のアルケミア』 ~了~