第106話 縮まる距離と深い溝
牛島佐紀と杉田天使は、長い間話さなかった。お互いのことを意識しながら、隣の様子をさりげなく確認する。
長い沈黙のあと、気まずそうにも口を開いたのは意外にも天使。
「ねぇ、牛島さん、そんなに身構えなくても良いって。私は気にしてないから、過去のこと...」
「うん...」
佐紀は静かに頷いた。
本当は、「ありがとう。」、あるいは「その節は本当にごめんなさい。」と言いたかった。けれど、プライドが高い側面がある彼女にとってそれを言葉にすることが難しい。
この前1回だけ謝った時にも、内心では相当勇気を振り絞っていたのだ。
「私さ、この名前のせいでたくさん嫌な目に遭ってきたんだよね...」、天使が静かに呟いた。
佐紀は無言で彼女の言葉の続きを待った。
「"天使"って書いてエンジェルなんて変だもんね。私も自分が普通の名前だったら、そういう名前の子に悪いイメージを持ってたかもしれない。だから、私に対して当たりが強い人の気持ちも分かるんだよね...」
「そんなとない!」、佐紀は思わず少し大きめの声で言った。
「そんなに変な名前じゃないよ。それに仮に変だったとしても、名前だけを理由に嫌な態度取る人の方が問題だと思う。」
佐紀は、自分で自分の心に突っ込みを入れた。
「どの口が言ってんだか。"ごめんなさい"だろ?ほんと、嫌な奴だな、私...」
「えへへ。そうかな?」、天使は弱弱しく笑った。
「そうだよ!」、佐紀は静かに言った。
過去にも色々あった佐紀と、天使。その時に受けた天使の心の傷は一生消えないかもしれない。
けれど、普通の会話をできるくらいには関係が改善していた。
他方、人間関係に深い亀裂が入り、その溝が未だに埋まらない者がいた。浅野真美と金子沙織である。
「ねぇ沙織、久しぶりだね。私たちが2人でいるの。」
真美が沙織に満面の笑みで話しかけた。けれど、その表情とは裏腹に、彼女の言い方には棘があった。そんなことを気にかけていない沙織はごく普通に彼女に言葉を返した。
「そうだね。真美、ごめん...あたし、あの時...」
沙織の言葉を真美が遮った。
「良いよ。私、全然気にしてないから。」
愛想良く笑顔を振りまき、みんなに聞こえるような声で言ったあと、真美は口調を変え、声を低くして、沙織の耳元で呟いた。
「そもそも許す気もないし。うざったいんだよ、この阿婆擦れが」
真美の言葉は、沙織の心の奥に、深く突き刺さった。
「阿婆擦れ...やっぱり、私って周りからはそう見えるのかな...」
もう真美との関係は修復できないかもしれない、そう思うと悲しみが込み上げてくる。
沙織は静かに視線を下に落とした。