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目が覚めたら見知らぬ夫が隣にいた。どうやら私は記憶喪失らしい

作者: キスケ

「俺は、貴女の夫です」


 一切の感情を押し殺したような、平坦な声だった。「どなたですか」と尋ねた時、目の前の青年はそう答えたのだ。でも、それはつまらない冗談だと私は思った。なぜなら彼はたった今初めて顔を合わせた相手なのだから。

 私はベッドに横たわっていて、力の入らない片手を彼の両手に包まれていた。彼の手は大きくて武骨で、そして冷たかった。触れ合ったところから体温と一緒に彼の緊張が伝わってくるようだった。


「本当なんですか」と私は訊いてみた。部屋の中は暖炉の火が燃えているおかげで暖かいけれど、まるで雪が降る前のようにしんとしている。

 少し間があって、青年が言った。


「誓って嘘ではありません。貴女は記憶を喪失してしまったんです。自分の名前を思い出せますか?」


 思わず呆気に取られたものの、彼の言葉通り自分の名前を思い出そうと試みて、私は愕然とした。一文字も頭に浮かんでこない。それどころか、自分の年齢も身分も、髪と目が何色だったかすら全く覚えていなかった。


「あれ? どうして……」


 なんとか記憶を探ろうとするけれど、必死になればなるほど頭の中が真っ白になっていく。慌てて身体を起こそうとすると、青年が腕を背中に回して支えてくれた。


「目を覚ましたばかりだから混乱してしまうのは当然です。これを飲んで。気分が落ち着くはずですから」

「……」


 私はまだ呆然としていて、彼の声があまり耳に入らなかった。彼がもう一度辛抱強く「飲んで下さい」と繰り返したので、その時ようやく、何か薬湯のようなものが差し出されているのに気がついた。促されるままにそれを受け取って一口飲んだ途端、爽やかな香りが鼻腔を抜ける。同時に、体内の枯渇していた魔力が僅かに満たされる感覚があった。


(この味には覚えがある……。ああ、上級回復薬だわ)


 そう思った途端、私は上級回復薬が非常に高価な薬であることも思い出した。そういう知識はちゃんと記憶に残っているのだと分かると少し安堵して、青年に向き直って礼を言う。

 こうして間近に見てみると、彼は本当に美しい人だと感じた。顔は彫刻のように整っていてまさに非の打ち所がない。水晶のような紫の瞳と、光に透ける淡い金髪が綺麗だった。

 

「俺のことはオルハイドと呼んで下さい」


 彼が淡々とした声音で言った。オルハイド、と何度か口の中で転がすように呟いたが、私はその名前をたった今初めて聞いたとしか思えなかった。でも、確かにオルハイドという名前は彼によく似合っている気がする。そういえばオルハイドというのは花の名前だと私は思い出した。花弁の形が羽を広げた蝶のように見える美しい花。


「あの、私の名前も教えて頂けますか?」


 ローズマリー、と青年が答えた。やはり耳馴染みのない響きだ。私は少し首を傾げ、それから「オルハイド様」と呼びかけた。すると彼が訂正するように言う。


「オルハイド、と。呼び捨てで構いません」

「……以前はそう呼んでいたということですか?」

「ええ、そうです」


 オルハイドは優しく瞬いて言葉を続けた。


「その記憶障害は魔法で治せる類のものではありません。ですが、これからも俺がそばで貴女をお世話するつもりです。……どうかあまり不安に思わないで下さい」


 それを聞いて、私は不思議な気分になった。彼の言葉にはちゃんと夫としての愛情がこもっている。私からすれば彼は見ず知らずの他人だが、彼からすれば私は人生を分かち合う伴侶なのだろう。

 オルハイドの手がのばされて私の頭にそっと触れる。思わず首をすくめてしまったけれど、その手は優しく気遣うように髪を撫でてくれた。彼は不器用な微笑みを浮かべていて、それが氷のような美貌にどこか温かみを与えているように見えた。

 ──きっと二人はとても良い夫婦だったんだわ。

 まるで窓辺の景色を眺めるように、そう思った。



◇◇◇



 記憶を失ったといっても、日々の暮らしに大きな支障はなかった。私は歩くことも話すこともできるし、料理の仕方や薬草の知識なんかも覚えていた(オルハイドが言うには、私はかつて薬師だったらしい)。日常習慣が体に染みついているので、記憶がなくても充分生活していける。相変わらず自分自身の過去は思い出せないままだが、それでも別に構わなかった。

 まず、私が住んでいる家はこじんまりとした二階建てで、温室付きだ。窓から覗く景色はどこまでも続く草原の海。雪が降る日には一面銀世界になる。今、私はここで細々と薬草を育てながら暮らしている。調合した魔法薬を市場に卸すのはオルハイドの役目だ。それから、私がこの家の外に出ることはない。

 小さな家と美しい草原。たった半径数十歩の世界、それが私の全てだった。


 火にかけたシチューの具合を見ていた私は、扉の開く音を聞いて振り返った。この家は玄関を入るとすぐそこが居間になっていて、奥の台所に繋がっている。帰宅したオルハイドは片手に食材の入った袋を携えており、玄関の扉を閉めてこちらにやってきた。


「ただいま、ローズ」

「おかえりなさい」


 オルハイドは持ち帰った食材を台所横の貯蔵室に片付けると、「俺も手伝います」と申し出てくれた。でも、私は苦笑して首を横に振る。しばらく同じ屋根の下で暮らしてみて分かったことだが、彼の料理の腕はからっきし下手なのだ。どうやら隠しているつもりらしいが、彼がほとんど料理をしたことがないのは察しがついている。


「もうすぐ出来ますから、手だけ洗ってお待ちになって下さい」


 そう伝えると、オルハイドは素直に頷いた。


「では食器を準備しておきます」

「はい、お願いします」


 彼との会話は終始こんな調子だ。あまりにもしかつめらしい返事ばかり寄越すので、時折私は彼の上司にでもなったような気分になる。もっとも、夫婦らしい会話を求められても困ってしまうので、これでいいのかもしれないけれど。

 居間には暖炉があり、その前に大きなソファが置かれている。それと木製のテーブルに椅子が二脚。どれもまだ真新しくてとてもいいものに見える。窓から差し込む夕日が、清潔な白い絨毯を茜色に染めていた。

 今日の夕食はパンとシチュー、サラダ、魚料理だ。付け合わせのチーズとワインも忘れずにテーブルの上に並べる。オルハイドと私は向かい合って椅子に座ると、いつものように手を合わせて食前の祈りを捧げた。


「主よ、貴方の慈しみに感謝してこの食事をいただきます。体の糧が心の糧となりますように」


 これは記憶にない習慣だった。でも、初めて一緒に食事した時からオルハイドが必ずそうするので、私も彼に倣うことにしている。

 オルハイドはさっそく夕食に手をつけた。私は温かいパンを口に運びながら、密かに彼の仕草に見惚れていた。彼は上品にカトラリーを使って魚を切り分け、何か神聖なものを口にするかのような表情をしてそれを咀嚼している。本当に美丈夫なので何をしていても絵になるけれど、私は彼がものを食べる様子が一番好きだった。

 その時、ふとオルハイドが顔を上げて言った。


「すごく美味しいです」

「それは良かった」


 私はにっこりと微笑んだ。どんな料理を出しても彼は「美味しい」としか言わないのだが、いつも綺麗に完食してくれるため私はその言葉を彼の本心としてありがたく受け取っている。

 

「今日も薬は全て売れましたか?」

「ええ、もちろん。貴女の作る薬はよく効きますから」

「本当? やっぱり記憶がなくても腕が覚えてるものなのね」


 ちょっと誇らしげにする私を見てオルハイドが微笑んだ。「そうですね」と優しく肯定して、「貴女以上の薬師はいないでしょう」などと大真面目な口調で言う。


「もう……褒めすぎですよ」


 私は苦笑しつつ、内心、彼が言うと冗談も冗談に聞こえないなと思った。オルハイドは折に触れて私を大げさに褒める癖があり、なかなか慣れなくてほんの少し反応に困ってしまう。まあでも、正直なところ悪い気はしていない。

 食後の祈りを終えたあと、私は先に湯を浴びさせてもらった。寝間着に着替えて居間のソファに腰掛け、暖炉の火にあたりながら、オルハイドが浴室から出てくるのを待つ。手持ち無沙汰なので、壁に備え付けられた書棚から適当な本を一冊取り出して読んだ。もしかすると過去に読んだことがあるのかもしれないが、少なくともその本の内容は記憶に残っていなかった。

 オルハイドの話によれば、私は魔法事故で記憶障害を負ってしまったらしい。自分自身に何らかの魔法を掛けようとして失敗し、昏睡状態が一年以上続いたという。それでもオルハイドは私が目覚めることを信じて、毎日欠かさず回復薬を飲ませて生命活動を維持させていた。治癒師からは、たとえ目を覚ましても重い記憶障害が残るだろうと聞かされていたそうだ。

 しくじれば命にも関わるほど複雑で難しい魔法──もしかすると呪いの類だろうか。そうだとして、私はいったい誰を恨んでそんな魔法を掛けようとしたんだろう。


「ローズ? 本を読んでいるんですか?」


 いつの間にかソファの後ろにオルハイドが立っていて、膝の上に開いた本を上から覗き込んでいた。ぼんやりしていた私は、声をかけられてようやく彼に気づいて振り向いた。


「いえ、ちょっと考え事をしていたんです。もう寝ましょうか」

「その前に髪を乾かさないと。風邪を引いてはいけませんから」


 オルハイドはそう言って、空中に古代文字を指でさっと刻んだ。古代文字の起源は神の世界の言葉とされていて、その文字自体に力が宿る最も一般的な魔術文字だ。魔法で生み出された風が私の頭を撫でるように吹き、あっという間に髪が乾いていく。


「ありがとうございます、オルハイド」


 礼を言うと、オルハイドは小さく微笑んだ。それから彼は寝間着の上に羽織っていたガウンを私の肩に着せ掛けてくれた。こういう時、いつも妙な居心地の悪さが胸の内に込み上げてくる。「そんなに優しくしてくれなくてもいいのに」とすら思うけれど、それを言葉にしてしまうとオルハイドが悲しむような気がして言えなかった。以前の私はどんなふうにして彼の愛情表現を受け止めていたんだろう。今はただ目を伏せるだけで精一杯だ。

 少し雑談したあと、私たちは一緒に二階へ上がっておやすみの挨拶を交わした。寝室は別にしているので、夜はそれぞれの部屋に入って就寝する。ベッドにもぐり込んだ私は、居間から持ってきた本の続きを数頁だけ読んだあと、ナイトテーブルの灯りを消した。

 耳を澄ますと、隣の部屋から微かにオルハイドの気配を感じる。それは夜の闇の中で私を子供のように安心させてくれたので、すっと眠りにつくことができたのだった。



◇◇◇



 私とオルハイドは、冬の間中ずっと二人きりで暮らした。一緒にいるうちに、私は少しずつオルハイドについて詳しくなった。例えば、彼は領主に仕える騎士で、今年二十八歳になること。今は休職しているけれど、春からまた仕事に復帰する予定らしい。それから、彼は私を眺めるのが好きだ。彼の視線を感じるのは日常のふとした瞬間で、それは薬草の世話をしている時だったり、台所に立って料理をしている時だったりする。オルハイドは決して手を触れてこようとはせず、ただ鳥や花を愛でるような柔らかい眼差しで私を見つめているだけだった。けれどもし目を合わせたら何かが変わってしまう予感がして、私はその紫の瞳に気が付かないふりをしている。

 このままでいい。このまま、今の関係のままで、私たちはすごく上手くいっている。だから私は過去のことを振り返ろうとは思わなかった。ひいてはオルハイドのことも──。

 

 それで、あれは冬の終わりのことだった。その日は朝から雪が降っていて、オルハイドはいつものように魔法薬を売りに行こうとしていた。白く曇った窓ガラスを見て、外はさぞ寒かろうと思った私は、何か懐を温めるものを用意してやることにした。炭化したヤシ殻を更に賦活したものと、鉄粉、塩水をよく混ぜると長時間発熱してくれるので、それを麻の小袋に詰めて懐に入れておくと温かいのだ。気休め以上の価値はない代物だけれど、ないよりはいいだろう。

 玄関でオルハイドを見送る時、その小袋を手渡すと、彼はまるで宝物を貰った子供のようにそれを受け取って、上着の内ポケットに仕舞った。そうして嬉しそうに「ありがとうございます」と微笑んだ。


「気をつけて」

「ええ、行ってきます」


 オルハイドが出て行ってしまったあと、私はいつも通り温室にこもって薬草の採取と魔法薬の調合をして過ごした。夕方には食事の支度を始めてオルハイドの帰りを待ったが、いつまで経っても彼は帰って来なかった。

 日が沈んで辺りが暗くなると、吹雪が窓を叩きつけた。あの小袋はとっくに効果が切れて冷たくなっているだろう。もしかしたら彼の身に何かあったのかもしれない。私は不安でいっぱいになり、彼を探しに行くべきかどうか逡巡した。でも、この吹雪の中、道も分からないまま無闇に出て行ったところでどうにもならないのは分かりきったことだった。


 結局、それからすぐにオルハイドは帰って来た。窓の向こうにうっすらと霞む人影を見つけた瞬間、安堵のあまり全身の力が抜けていくのを感じた。思わず玄関を飛び出してしまいそうになったけれど、無理やりそれを抑え込み、すぐに風呂を沸かし始める。

 玄関の扉が開いて、凍えるような空気と共にオルハイドが家の中に入ってきた。私は目も合わさずいきなり彼の腕を引っ張り、浴室に向かった。


「ローズ──」


 オルハイドが何か言おうとしたけれど、聞きたくなかった。湯気で温まった浴室に彼を押し込んで、閉めた扉の外から突っ撥ねるように言った。


「ちゃんと体が温まるまで出て来ないで」


 この時なぜか私は怒りが湧いてきてどうしようもなかった。彼を心配してやきもきしたせいか、平静でいられなくて、訳もわからず腹を立てていた。でも、こんなのは幼稚な癇癪だと自覚していたので、辛うじて彼を責め立てる言葉は呑み込んだ。

 冷めてしまった料理を温め直してテーブルに並べる間に、私はかなり落ち着きを取り戻すことができた。そして、あとから反省の念が込み上げた。よく考えてみれば、オルハイドだっていい大人なのだから帰りが遅くなることくらいあるに決まっている。いくら仮にも夫婦といえども、そんなことを怒るのは筋違いだ。ああ、私はどうしてあんな態度を取ってしまったのだろう。

 しばらくしてオルハイドが浴室から出てきたけれど、一体どうやって声を掛けていいものか分からなかった。すると、黙って椅子に座っている私のそばまでやって来たオルハイドが、その場に跪いた。


「ローズ、まだ俺に怒っていますか……?」


 彼はまるで哀れな捨て犬のように私を見上げて尋ねた。こんなにも打ちしおれた様子の彼を見るのは初めてで、少々狼狽していると、オルハイドは再び謝罪を口にする。


「本当にすみません、こんなに遅くなるつもりではなかったんです。どうか許してください」

「も、もういいですから」


 私はちょっと顔を赤らめて言った。別に彼を謝らせたかったわけではないのだ。


「この話はおしまいにして、食事にしましょう」

「その前に少しだけ時間をくれませんか。貴女に渡したいものがあるんです」


 そう言ってオルハイドが持ってきたのは、大きな革の鞄だった。見覚えのない新品のもので、どうやらこれを持ち帰るために帰りが遅くなったらしい。「開けてみてください」とオルハイドに促され、私は椅子を降りて絨毯の上で鞄を開けた。

 中に入っていたのは衣服だった。それもものすごく上等な、貴族が着るような服が何着も。どの服にもレースがふんだんにあしらわれ、宝石のボタンが飾られ、緻密な刺繍が施されていた。


「これ、どうしたんですか?」


 困惑してオルハイドを見ると、彼は少し緊張を滲ませて答えた。


「仕立て屋に頼んでおいたものです。貴女に似合う服を見繕いたくて」

「私に……?」

「はい。受け取りに時間がかかってしまいましたが、どうしても今日渡したかったんです。今日は貴女の誕生日だから」


 私は大きく目を見開いた。


「二十歳おめでとうございます、ローズ」


 そう言ってオルハイドは不器用に微笑んだ。けれど、この瞬間まで自分が誕生日を迎えたことなど全く知らなかった私は、思わずぽかんとしてしまった。


「今日って誕生日だったんですか? 私の?」

「ええ、花束も用意できればよかったのですが……」

 

 残念そうに言うオルハイドに、何度も首を横に振る。


「そんな、もう充分です。花束なんてなくても」


 おそらく、仕立て屋で予想外に時間を取られたために花束を買いに行けなかった、ということだろう。彼は私の誕生日を祝おうと一生懸命に準備して、吹雪の中を急いで帰って来てくれたはずだ。それなのに当の私に冷たい態度を取られてしまって、さぞ困っただろうし悲しかったに違いない。私は彼に対してますます申し訳なくなり、それと同時に胸の内側がじわりと少し温かくなった。

 

「嬉しいです、とても。こんなに綺麗なドレス、ありがとうございます」


 ああ、どうしてもっと気の利いた言葉が出てこないのだろう。口下手な自分に嫌気が差す。だがオルハイドには私の気持ちがちゃんと伝わったのか、彼は嬉しそうに笑った。私はふと、彼のその顔が好きだと思った。


 それから二人で遅い夕食を食べた後、贈ってもらったドレスを着てみることにした。貴族の衣装というのは無駄な装飾が多くて、一人では着用が難しい。オルハイドはまるで従者のように恭しく私の着替えを手伝い、最後は足元に跪いて真新しいビロードの靴を履かせてくれた。


「なんだか、本当に貴族になったみたいですね」


 私がくすぐったそうに笑うのを見て、オルハイドもまた微笑んだ。その時、ほんの一瞬、彼の目がここではない何処か遠くを見つめるような眼差しをしたことに気が付く。けれど私がそのことを深く考えようとする前に、彼は跪いたまま洗練された仕草で片手を差し伸べた。


「お手をどうぞ、ローズマリー様。エスコート致します」


 立派な剣もマントもなく、洗いざらしのシャツを身に纏っているオルハイドは、今、確かに私だけの騎士だった。彼の手にそっと自分の手を重ねる。彼が呟くように呪文を唱えると、どこからともなく華やかな管弦楽の旋律が部屋に流れ始めた。

 彼のエスコートは少々ぎこちなかったが、私の足は不思議と軽やかにステップを踏んだ。どうやら私は意外にもダンスが得意だったらしい。大きな手が私の腰を優しく引き寄せる。視線を上げると、オルハイドの綺麗な瞳が間近にあった。淡い金色の睫毛に縁取られた紫の瞳。どうしてか胸がいっぱいになってしまい、それ以上彼と見つめ合い続けることはできなかった。


 ああ、私はずっと、こんなふうに、もう思い出せない誰かと踊ることを夢見ていた。その人の瞳の色が緑か青か、それとも紫だったのかも忘れてしまったけれど、ただ、とても美しい瞳だったことだけは覚えている。

 ──その人がオルハイドならいいなあ。そんなことを密かに思って、私は彼の肩に頬を寄せた。





***************


 彼女のことが、好きだった。

 憧れだとか、恋慕だとか、愛だとか。どんな言葉でも言い尽くせない。ただ、心の全てで彼女を想っていた。



 初めてローズと出逢ったのは、まだ王立学院を卒業したばかりの十八歳の頃だ。

 しがない子爵家の次男だった俺は、学院を卒業後、実家の当主が代々にわたって補佐官として仕えている公爵家お抱えの騎士団に入団した。そこで与えられた任務は、領地警備でも魔物討伐でもなく、公爵令嬢の護衛という実に大儀なものだった。

 騎士にとって貴族令嬢の護衛はいわゆる花形の任務で、同僚たちにはたいそう羨まれたが、内心暗澹とした気分になった。こういうことは昔からよくあったのだ。俺は幼少の頃から朴念仁だと言われ続けてきたし、自分でも面白味に欠けた男だと承知しているにも拘らず、なまじ派手な容姿を持って生まれたせいで女性の扱いに慣れているふうに見られてしまう。今回の任務が回ってきたのもそれが原因に違いない。どう考えても俺には務まりそうにない任務だったが、かといって周囲の反感を買わずに上手く辞退する術も持ち合わせていなかった。


 そうして俺とローズが出逢う巡り合わせになった。当時十歳だった彼女のことを、その時俺はまだ何一つ知らなかった。公爵家の長女であり、王太子と婚約している次期王太子妃であるという、あまりに大きな肩書きが、小さな彼女を覆い隠していたからだ。そんなことも気づかず俺は、やはり巷で噂されている通り「非凡な容姿と才能に恵まれた王国一幸運な少女」なのだろうと当然のように思い込んでいた。きっと誰もが羨むような華々しい人生を歩んでいるのだろうと、疑いもしていなかった。

 ──だが、違った。

 ローズは恵まれた容姿も才能もない、ごく平凡な少女だった。それどころか、彼女は自らの生まれ育ちを幸運だと捉えてすらいない。護衛騎士として常日頃そばに控え、彼女の起き臥しを見守るようになった俺は、彼女が耐えている重圧と苦悩がどれほどのものかようやく理解した。


 ローズにとって最大の不幸は、父である公爵に愛されなかったことだろう。使用人たちから又聞いた話では、ローズの母と公爵は完全な政略結婚で、当時公爵には身分違いの恋人がいたという。愛のない夫婦の間に生まれた彼女を祝福する者は誰もいなかった。

 その上、公爵夫人が産褥で早逝すると、公爵はたった一年後にはかつての恋人と再婚してしまった。そして後妻との間に新たにもうけた娘の方ばかりを可愛がり、ローズを顧みることはなかった。代わりにローズは複数名の教育係に監視され、次期王太子妃として妃教育を厳しく叩き込まれてきたらしい。俺が護衛騎士になってからも、彼女はほとんどの時間を妃教育に費やす日々を送っていた。


 家庭の中で居場所がないローズにとって、唯一心を許せる相手は、屋敷の親しい使用人たちだった。少しでも暇を見つけては、温室に行って庭師が花卉や薬草の世話をするのを手伝ったり、厨房に行って料理人に調理の仕方を教わったり。ローズは使用人たちによく懐いていて、そんな彼女を使用人たちも何くれとなく可愛がっていた。そういう小さな平穏をこそ愛する彼女は、次期王太子妃としての重い肩書きを背負うには余りにも純朴で、それでも日々の重圧に耐え忍んでいる幼い姿に胸が痛んだ。

 もし彼女が平民に生まれていたなら──。そんな埒もないことを考えずにはいられなかった。なんの柵もない、平凡な幸せの中で、彼女はただ笑っていられたのだろうか、と。

 今振り返ってみれば、彼女が使用人たちにだけ見せるそのあどけない笑顔に、俺は、我知らず惹かれていたのだと思う。


 護衛騎士として共に過ごした五年という歳月は、決して短くはない。ローズはいつしか俺に心を開いてくれるようになり、俺は、そう。彼女を心から想うようになっていた。

 ただ、笑いかけられただけ。

 ただ、一緒に歩いただけ。

 ほんの少しの水で、恋心は急速に育っていった。俺の意思を無視して。

 こんなことは初めてだった。どうしていいか分からず、持て余し、とにかく何度も枯らそうと試みた。けれど無駄だった。枯らそうとすればするほど、俺が彼女をどれだけ想っているか思い知らされてしまう。

 決して実を結ぶことのない想い。

 それでも水をやらずにはいられない。

 不毛だと分かっている、だがそれもまた一つの愛し方だと割り切って。結末を望むべくもない恋をした俺に許された愛し方は、ただ、彼女の幸せを願うことだけだった。

 

『ねえ聞いて、オルハイド! 卒業パーティーでね、王太子殿下が私のダンスパートナーになって下さるんですって』


 十五歳になったローズが、嬉しそうにそう話していたのを覚えている。彼女が王立学院に入学する年のことだ。

 王太子は毎年一度だけローズを王宮に招いて茶会を開く。護衛騎士として随行するたび、二人が交わすどこか事務的な会話を聞いていた俺は、ある時からローズの瞳にちらつく淡い恋情に気が付いた。けれど彼女を見つめ返す王太子の目は、自らの婚約者に対する一欠片の温もりさえ映すことはなかった。

 それでも彼女は王太子の瞳を美しいと言う。──俺と同じ、紫の色の瞳を。

 胸を締め付けるこの感情を、どう言い表せばいいだろう。悲しみでもなく、怒りでもない。どうか、と神に祈らずにはいられなかった。どうか彼女を幸せにしてあげて下さい。たとえそれが俺じゃないとしても、いくらでも祈りを捧げるから、どうか誰よりも幸せにしてあげて下さい。


 だが、祈りは聞き届けられなかった。

 三年後の冬、王立学院を卒業したローズが屋敷に戻ってきた時、彼女は物言わぬ人形となり果てていた。

 事の顛末は王国中で人々の口の端に上った。ある公爵令嬢と婚約していた王太子が、あろうことか婚約者の異母妹と不貞を働いたという、聞くに堪えない醜聞。なぜこれほど露骨に噂が広まったかといえば、王立学院の卒業パーティーの日、衆人環視の中で、王太子自らが婚約破棄を宣言したからに他ならない。

 その悍ましい行為が、おそらくは既に疲弊し、憔悴しきり、悲鳴を上げていたローズの心を、無惨にも打ち砕いたのだろう。彼女はその場で呪いを掛けた。人の精神に干渉する魔法は「呪い」と呼ばれ、膨大な魔力を消費するため行使した術者が死に至ることもある禁術だ。それを、彼女は彼女自身に向けて行使した。

 一体どんな呪いだったのか、それは術者本人にしか分からない。ただ、今になって思うのは、きっとローズは苦痛に満ちた世界から解放されたかったのではないかということだ。彼女の歩んできた人生は、辛く苦しい記憶ばかりだった。卒業パーティーで好きな人とダンスを踊りたいという、取るに足らないささやかな願いすら、叶いはしなかった。あまつさえ、本来なら彼女が享受すべきだったもの全てを手にしている異母妹に、たった一人の婚約者までも奪われて──。

 

 屋敷のベッドに寝かされたローズは、窶れて、痩せ細っていた。

 三年前よりも少し大人びて見えるその横顔は、作り物のように静謐だった。

 こんこんと眠り続ける彼女の手を、そっと握る。


「……ローズマリー様」


 返事が返ってこないのを分かっていて問いかける。

 いつかの冬、生まれて初めて雪に嫉妬した日のことを思い出す。彼女の肌の上に降る雪。自分の知らない彼女の温もりに触れる、その雪が羨ましかった。

 冷たい手を両手で包み、額に押し当てた瞬間──俺は、落涙していた。

 ああ、俺はなんて愚かだったのだろう。愛する人が、手をのばせば届く距離にいたのに、触れることもできなかったなんて。こんなことになるくらいなら、あの雪の日に連れ去ってしまえばよかったのだ。この小さな手を引いて、どこか遠くへ。

 

「……俺が、貴女を守ります」


 そうだ。もっと早く、こうするべきだった。

 もう誰にも傷つけさせはしない。彼女がありのまま幸せになれる世界で、どんな風にもあてず、真綿で包むように、この手の中で彼女を守ろう。



◇◇◇


 

 あれから一年以上の年月が過ぎた。

 王国では、王太子に婚約破棄された噂の公爵令嬢が拐われたという、新たな醜聞が露呈し、未だに騒ぎの収拾がつかないようだ。ここは王国から離れた隣国の小領地なので、風の便りに聞く程度だが、どうやら王太子は責任問題を問われて王位継承権を返上したらしい。それも今となってはどうでもいいことだった。

 一年と少し前、昏睡したままのローズを連れてこの地に辿り着いた俺は、町の外れに家を買った。美しい草原と小さな家。俺の手が届く精一杯の、彼女のためだけに存在する箱庭の世界。

 

「おはようございます、オルハイド」


 朝、二階の部屋から降りてきたローズは、台所に立つ俺を見て、寝ぼけ眼を丸くした。


「なんだかいい匂いがするなあと思ったら。朝食を作ってたんですか?」

「おはようございます、ローズ。ええ、もうすぐ出来ますよ」


 微笑んで答えると、彼女はぱっと顔を輝かせ、いそいそとテーブルの準備を始めた。ありふれた、何気ない、平穏な日常。まるで夢の中にいるような錯覚を与える、あたたかな日々。


 冬の最中に目覚めた彼女は、重い記憶障害が残り、自分の名前さえ覚えていなかった。俺のことも、王太子のことも、屋敷での暮らしも、王立学院での出来事も、何もかも忘れてしまっていた。だが、それで良かったのだと思う。彼女が今までの人生で得られなかったものを、代わりにこの手で与えてやれる。今度は一つも取りこぼさないように。

 夫だと偽ることに罪悪を感じないわけではない。ローズのうちにあるのが、俺の思うような愛情でないことも分かっている。それでも、彼女がなんの屈託もなく無垢な笑顔を見せてくれるから、このままでいいのだと思えた。

 このままでいい。このまま、気付かれないまま、そっと、小さな幸せを積み重ねるような日々を贈り続けよう。


 冬の終わりだった。窓の向こうで、雪解けと春の訪れを告げる、暖かい風が吹いていた。



お読み下さりありがとうございましたm(_ _)m


追記:2024/8/6 日間総合ランキング7位になりました。皆様のおかげです。本当にありがとうございます!

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― 新着の感想 ―
[一言] 二人の幸せな日々が雪のように溶けていかないことを祈ります
[一言] 記憶が戻らず、誰にも邪魔されることなく、幸せに暮らして行けたら良いなと思います。しみじみ染み入る、少しだけ切ない良いストーリーでした。
[良い点] オルハルドさんの切ない想いが泣けました。 [気になる点] 2人のこの先が知りたかったです。 [一言] 続きが読めたらウレしいです
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