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大巡検がやってきた。先触れの旗持ちの姿が見えると人々が村のとばくちに集まり始めた。風の館の旗が遠目にも分かる。巡検の列はゆっくりと大きくなって、村へ向かってくる。色とりどりの吹流しが風に流れていた。村の中央よりもやや高い場所にあるアシュラの家からは村の広場の喧騒が覗えた。豆粒のような人が村長の館を出たり入ったりしている。大巡検を受け入れる準備をしているのだ。先触れさえもまだ村に到達していないというのに、男たちは厩や根小屋を検めて回り、女達は食べ物の準備をしている。近隣の村々からも半と環の年頃の子供らが村長に連れられて集まって来ていた。一生に一度の環を大巡検の場で執り行える事は誉れでもあった。遠い所では三日も離れた村から早めに村へ来て留まっている。大人が普段の仕事を休みにしてしまったので子供らも今日はとばかりに駆け回っていた。アシュラの母も女衆に混ざって立ち働いている事だろう。あれから母娘は一度も環について話さなかった。晴れ着の肩布は目に触れぬよう仕舞い込まれている。アシュラは誰に言われる事なく家に入った。シュウレもこれから忙しくなるのだろう。アシュラがその場に居ない事をいぶかしむかも知れないし、そうでないかも知れない。アシュラだけは家の中の仕事をして過ごした。日暮れ前に母が一度戻ってきて、これから神域で神事がある事を告げた。
「もう一度お伺いを立てておくから」
神事の後にアシュラだけの環を執り行ってもらえるようにである。アシュラは母と目を合わせることが出来なかった。
「早く行ってよ」
それだけ言うとアシュラは寝床にもぐりこんだ。賑わいが神域の森の奥へ消えてゆく。アシュラは陽が落ち暗くなってもそうしていた。月が昇り、開けたままの窓からは月の光が差し込んでいた。寝付けなどしない。身を起こし、膝を抱えて月を見上げた。
「かそけきひかり…白白の…」
アシュラの口から漏れたのは月の詩だった。暗い夜道を行く時に月が闇を払うよう詠う詩だ。アシュラの来た道には光がさしたことはなかった。この先も分からない。ならばせめて月に祈りたかった。窓辺には月の精霊が居て天を見上げていた。
太陽も月も始まりの神が生んだ。共にラの子であるけれど、生きとし生けるものは太陽を崇め讃え、月の痘痕を嘲った。月は太陽を妬んだ。太陽がなければ皆は自分を見るだろうと、太陽を喰ってしまおうとした。始まりの神は月を咎めた。月に下された罰は自らを喰らうというものだった。食い尽くしても月は増える。そしてまた己を喰らう。永遠の罰だった。愛されねども耐えていれば、月は完全な姿で居られた物を。いつか終わりの日が来るまで、今日も月は自らを喰らう。その話を聞いたときアシュラは理不尽だと思った。月は月であっただけだ。月が愛されなかったのは月の所為ではなかった。アシュラは月のために涙を一粒こぼした。月の精霊が振り返った。
「月は始まりの神を恨んだろうか?」
月を生んだ神を。その問いに答えるように月の精霊は首を横に振った。月が始まりの神を恨まぬのは、もはや失う物すら持っていないからだろうとアシュラは思った。いや寧ろ、月は全てがなくなってしまうことを願っているのではないか。月の精霊はさやけき光に溶けてその影が床を照らすばかりになった。
(私は…)
アシュラにも失う物は残っていなかった。環は来ず、村を出て新しい自分になる事もない。そしてシュウレとの時間も憐れみによって幕を閉じた。
(…決めた)
まだ宵の口だった。アシュラは寝床を抜け出した。明かりは灯さない。
(神事を見てやろう)
今の自分にとって司祭の禁や村の掟など如何ほどのものかと思った。村の者達は大路に続く参道を通って神籠石へと往来しているだろう。森の側から近づけば見咎められる事はない。アシュラはそっと家を抜け出した。畑の中を通って森の中に入る。肌と髪の色がアシュラを隠した。薪を打つために通った道である。暗くても迷わぬ自信があった。月が道を照らした。