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家の扉が激しく叩かれたのは夕刻だった。母が扉を開けると司祭が立っていた。険しい顔で司祭は言った。
「黒い子供が神域に立ち入っていたと聞いた」
アシュラは戸口から姿が見えぬように身を隠したまま息を潜めた。神域での出来事は母には言っていない。だが母はその背にアシュラを庇うように戸口を塞いだ。
「村の者は神域に入る事に許しはいりますまいに」
神素に恵まれた母は昔この司祭から多くを学んだ。いずれ王都で名を成すはずの母を司祭は可愛がったそうだ。母は自慢の教え子だったろう。だが、母はモルダの子を産む人生を選んだ。司祭は母を惜しんだという。かつての師弟はアシュラのために睨みあった。
「黒い子供は神籠石に触れていたそうだ」
定め事は守られねばならない。それが一つ場所で生きるという事だった。
「…村の者ならば一度は触れた事があるはずです。私だってあります」
だがアシュラが禁を破ったのは事実だった。他の子供がしていることでも、アシュラはそれをしてはならない。何故ならば、アシュラは黒い子供だから。
「禁を破ったからには罰を受けなければならない」
アシュラは目を閉じた。家に戻ってからずっと握り締めていた緑色の石を胸に押し当てる。アシュラにはその先が予想できてしまった。
(私も環を受けられる…)
一度それを信じてしまったが故に余計に苦しかった。
「間もなく大巡検がある。その際、黒い子供は閉じ込めておけ」
「そんな!」
母はうろたえた。
「神籠石はヌンレの守り。風の館の治めるものである。風の館に不敬を働く者は大巡検に見えることならぬ」
大巡検は環と重なる。大巡検を見てはならないという事は環を執り行ってもらえないという事だった。母を喜ばせていた物が全て裏返った。
「…環は?アシュラの環はどうなるのです?」
「見えてならぬのは大巡検である」
勝ち誇った顔で司祭が告げた。それは今年の環を見送るというだけではなかった。この司祭が相手では次にいつ環を受けさせてもらえるのかなど分からない。
「同じことではありませんか!村長はなんと?」
「大巡検は国の神事である。村長にそれを云々する事は出来ない」
もはや環と大巡検が別に執り行われる事は無い。世界はアシュラのためにあるのではないのだ。
扉が閉じられても母は立ち尽くしていた。俯いたまま絞り出すような声で言った。
「何故神籠石に触れたりしたの?」
アシュラが息を潜めてやり取りを聞いていたことを母は知っていた。シュウレとの事は言えなかった。いや、あれはシュウレに誘われたからではない。あの時アシュラは他の子供がそうするように禁を破ってみせてもいいと思った。これから他の者と変わらぬ新しい自分になるのだから、そうしてもいいと思ったのだ。けれども本当にそうなったわけではなかった。アシュラは普通の子供の振りをしただけだ。それはヌンレの黒い子供にとって大それた事だった。
「どうして今この時にそんな事をしてしまうのよ」
叱るのではなく、諭すのでもなかった。母はアシュラを詰った。母は泣いていた。泣かせたのはアシュラだ。
(環は来ない)
目の前に差し出された幸運は水面に出来た泡のように消えた。アシュラはそれをこの自分が本気にしたりした所為だと思った。多くの不幸の上に生まれた命の癖に、流れの先に穏やかな人生が待っていると思ったのが間違いだった。もはや神素も分からず、村を出ることも叶わず、疎まれて暮らしてゆくしかない。澱みの中で見た夢は醒めたのだ。環を受けられぬほど疎まれているアシュラはまた母を悲しませたのだ。
(さよならも言えなかったな)
もうシュウレにも会わぬほうがいい。夢はそういうものだから。