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 残念ながら、夏と同じく永遠は無い。麦を刈り終えた畑を風の子が駆けてゆく。森へ行く事も出来ぬほど多忙な日々が続いて、冬支度をする時期が来た。野菜や果実を漬け込み、屋根を直し、干草を集めた。アシュラも母に従ってそのそれぞれに詩を詠む。実はアシュラ自身が詩を詠むのは煩わしかったが、母が精霊を寿ぐのを眺めるのは好きだった。母が詩を詠んでも精霊は応えることはない、しかし詩の旋律に合わせて、母の身体から気配が煌き立つ気がする。母のそれは命を讃えるヌンと慈悲に満ちたゲブの息吹だと思う。そんな世界を身にまとっているような光景ばかりは素直に綺麗だと思っていた。アシュラの環を受けぬという宣言は棚上げされたまま、それでも毎日の暮らしは続いてゆく。手抜きをしながら詩を詠んで、家の仕事をして、雨の日には勉強をする。

「髪をあげたら森で遊んでばかりはいられないわ」

その色が嫌で、ほったらかしにしてあった髪も大人になれば結い上げなければならない。分かっている。環を受けようが受けまいが、この身体は大人になってしまうのだ。長いスカートに纏め髪の大人の女の姿で薪を打つことなど出来ない。時間も季節もこの身体も全ては流れ移ろう。

 シュウレの事は母に話してはいなかった。夢が人に話すと失われてしまうように、それを話せば終わりの時がくるような気がしてアシュラはそれを秘し続けていた。誰にも言わなかったけれども、夢はやはり醒める時が来た。大巡検が環と重なる事を知らされたのはそれからすぐだった。

(環と大巡検が重なる…)

喜んだのは母だった。母はずっと大巡検と環が重なる事を願っていたのだった。二つの神事が重なるということは、大巡検の場で成人の儀を執り行うと言う事だ。今年の環は王都の巫女や神官の参列する盛大な物になる。如何にアシュラが疎まれていようとも、そのような場で騒動を起こす気は司祭にも無いだろう。半の時のようにアシュラに辛く当たるのは考えにくかった。つまりは

(私も環を受けられる?)

ということだった。仮に司祭があくまでもアシュラの神素を判ずることに抵抗したとしても、霊験あらたかな高位の神官達ならば一目で神素を判ずる事が出来る。

「これは村長のお計らいだわ」

アシュラ虐めを否定しない村長だったが、これまで加担する事も無かった。アシュラも環だけは公平に行うべきだと考え、大巡検の時期を調整してくれたのではないかと母は言った。当のアシュラはそれを聞いても良く分からなかった。

(私も環を受けられる?)

流れは勝手に向きを変えた。普通の子供のようには受けられぬと決め付けていた環だった。しかもシュウレにアシュラの立場を知られる事もなく受ける事が出来る。だが、それはあまりにも唐突で、幸運というよりも、踏みしめていた土台を取っ払われたような戸惑いしかおこらない。ただ定まっている事が一つだけあった。シュウレは間もなく村を去るということだ。


 落ちてきた葉に乗った木霊とゲブの子が手を差し出しあって消えた。惜しむように神域の森を二人で歩く。

「環と大巡検が同時に行われるそうだな」

「うむ。司祭がそのように言っておった」

アシュラはシュウレの答えをかみ締めた。シュウレが去れば、アシュラは再び口を利く相手もいない暮らしに戻る。夏は終った。環も大巡検も来る。アシュラは何処へ続くのか分からぬ流れに乗っている。

(私は…)

この事をアシュラはどう受け止めてよいのか分からなかった。環を受け、神素が揃うということは人別札をもらえるという事であり、アシュラにとってはこのヌンレを出て行けるという事でもあった。ヌンレの村を出ることはアシュラの希望の種だった。「いつか」を夢想する事でその日その日を乗り切ってきたのだ。だが、いざそれが手の届く所に見えると、

(伝手もないのに村を出てどのように自分を食べさせてゆけばいい?)

不安しかわかない。ヤギを飼い麦を育てる事以外に何が出来ると自問する。

(一人になった母はどうするのだ)

アシュラが村を出た後のことが気掛かりにもなった。自分のために苦労した母を捨てて村を逃げ出すのは間違っていやしないかと迷う。

(ヌンレの暮らしよりも酷い事がないとどうして言える?)

浮かぶのは自分を引き止める理由ばかり。村の外には何が待っているか分からないけれども、このヌンレで疎まれ、痛めつけられるのには慣れていた。ヌンレの暮らしの苦痛はアシュラが知っている苦痛なのだ。それは打たれ続けた犬が綱を放しても逃げぬのと似ていた。だが、シュウレは行ってしまう。それだけは確実だった。

 二人の足は神籠石を向いた。シュウレとアシュラを掠めてシュウの子が走り、木霊の歌声が包む。神籠石の前では精霊達が一層に騒々しかった。環も大巡検もこの巨石の前で行われる。二つの神事が重なればどれほど盛大な物になるだろう。二人で神籠石から生えた柄を眺める。古にヌンレの祖先が鍛えたという雨の剣だ。鶏頭の赤と葱の黄色で染めた飾り布が下がっている。去年の環に巻いた布は風雨に曝されて色褪せて来ていた。これを取り替えるのも間もなくだった。

「ここに風の精霊が閉じ込められているのだと言うよ。封じたと言っても今もこれほど風が強いのにな」

祖先がこの村を開いた頃はピレから吹き下ろす風は強く人が住めぬほどであったという。それほどの風など想像も出来ない。ふと浮かんだ言葉をアシュラはそのまま口にした。

「本当に剣先が岩の中に埋まっているのだろうか?」

皆これを神素だ精霊だと有難がるが、ただの飾りであっても不思議はない。風を治め、この地を開くための象徴があればいいのだ。シュウレはアシュラをからかうように笑って言った。

「触れてみよ」

シュウレを振り返った。神籠石や精霊を封じた雨の剣に触れる事は禁じられていた。が、禁じられているからこそ、度胸試しとして子供らの間では時折これに触れる姿が見られる。司祭にでも見つかれば酷く叱られるのだけれども。

「…駄目だ。神籠石に触れてはならぬ事になっている」

アシュラは少しばかり怖じた。シュウレが笑う。

「汝は精霊の力など無いかも知れぬと思っておろうに」

ならば何を躊躇う事があろうかと。シュウレの唆しにアシュラは口をへの字に曲げた。

「触れてみろ」

シュウレがなおも勧める。アシュラは思った。

(私にも環が来る…)

自分も他の子供と同じだ。ずっと温めてきた憧れが遅ればせながら目を覚ます。環を受け、神素を判じてもらい、人別札を受ける。

(新しい土地で新しい自分になって暮らす…)

いよいよ「いつか」に手が届く。そのことがアシュラに勇気を与えた。そっと柄に触れた。熱い物に触れた気がして慌てて手を引いた。

「大丈夫だ」

臆病な様を笑われた気がして今度は握った。ただやはり剣の柄は熱を持っているようで、飾り布を通して温かみを感じる。柄が手に吸い付くように感じた。

(?)

そればかりかひくひくと脈動しているかのようだ。

ある。

アシュラは柄だけではない剣の存在を確かに感じた。

「シュウレ!」

うろたえてシュウレを振り返る。他の子供のように度胸試しをするだけだったのに、これは違う。シュウレは酷く真剣な顔をしていた。

「引いてみよ」

シュウレに気おされて言われるままにアシュラは力を込めた。シュウレが耳元で囁く。

「世界を感じるのだ。汝は世界の一部である」

その言葉で薪に向かって木剣を振るっていた時を思い出した。薪が不思議な割れ方をしたあの時だ。剣に誘われるように自分が薄まってゆく感覚に飲み込まれる。柄から伝わる抵抗が一瞬解けたような気がした。

(抜ける!)

不意に怖ろしくなって手を離した。たちまち我に返る。手が汗でびっしょりになっていた。

(何だ、今のは?)

すでにあの感覚は失われている。アシュラが目を瞬くとシュウレが笑い出した。ようやくからかわれていたのだと気付いた。シュウレは司祭にまで悪戯を仕掛けるようなところがある。アシュラは膨れた。

「抜ける筈がない。第一、神籠石を損じてしまえば怒られる。お前もだろう」

「それは困った事になろうな」

シュウレはげらげらと笑った。

「何がおかしい」

「いや、悪かった。水の娘、本気ではない。ふざけただけだ」

「水の娘?」

聞き返したアシュラにシュウレはきょとんとして笑うのを止めた。二人の間には何か行き違いがあるようだ。

その時だった。

二人してハッと振り返る。村の大路から神籠石へとつづく参道から声が聞こえる。村の子供らだ。薪拾いだろうか、大巡検の為の清掃か一人や二人ではない。アシュラは慌てて辺りを見渡した。咄嗟に身を隠す場所はなかった。遅い。先方で声が上がる。

「アシュラだ!」

しまったと思った。

「アシュラが神籠石に触れている!」

血の気が引く。神籠石に触れた事を咎められると恐れたのではない。子供たちのてんでんなざわめき。一際高いのはニレの声だと思った。

(ばれた)

子供らは駆け寄ってくる。そして口々にシュウレに告げるだろう。災厄と多くの不幸の上に生まれた黒い子供は生きているだけで悪なのだと。シュウレはアシュラが村のうちでどれほど蔑まれているか知ってしまう。それを秘したまま環を受けられる筈だった。神事を終えて、シュウレが村を離れるのが夢の時間の終わりだと思っていた。違った。シュウレとこのままで居られる時間は今終ったのだ。

(私も環を受けられる…)

流れはいつも唐突にその向きを変える。アシュラは逃げた。


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