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それからアシュラは毎日のように森へ行った。薪を打ちに行っているのか、シュウレに会いに行っているのか分からぬほどであったが、もうどちらでもよかった。シュウレはアシュラのことを村の者に話す気はないらしい。そして、シュウレが黒いアシュラを厭う事は無かった。シュウレがアシュラの黒い姿を気にも留めぬのは様々な地へいった経験がある所為なのだろう。大巡検は国中を廻る。アシュラはこの村の事しか知らなかったが、シュウレはいろいろなことを知っていた。遠い地の川や村々、海の話もしてくれた。シュウレは分かりにくい古めかしい言葉で、アシュラは言葉数が少ないから上手く会話になる事は少ない。それでもアシュラはシュウレに会うことに夢中になった。環も村での出来事も神域の外へ置いてくる事が出来た。勿論それが永遠に続くものではない事をアシュラは知っていた。シュウレという瀬にぶつかって、流れは僅かに向きを変えたけれども、流れに浮かぶ木の葉のようなアシュラには流れそのものを変える事など出来ないのだった。
(大巡検も環もなければいいのに)
シュウレはヌンレでの大巡検を終えれば、また違う土地へ行く。
小さなせせらぎを飛び越えると転がった小石が水面に落ちて飛沫をあげた。ヌンの子が笑い声を上げる。流石にシュウレの前で水浴びをする事は無いが、今日は二人で水に足を浸しに来た。
「その石など腰紐の飾りによかろう」
シュウレの指す水底に透きとおった緑色の輝きを見つけた。まるでシュウレから贈られたような気で拾い上げて、アシュラは気付いた。
(環は受けぬと決めたのだった)
確かにその石は晴れ着の飾りに相応しい程美しく、だからアシュラは悲しくなった。アシュラはひそかに大巡検の後に環があれば良いと願ってきた。シュウレが村を去った後の環ならば関わりはない。しかし、シュウレがヌンレに居るならば、十二歳のアシュラが環の場に現れぬのをいぶかしむだろう。
「お前は環に招かれるのだろう?」
司祭の見習いであるシュウレがその場に呼ばれぬはずが無い。
「うむ。行くであろうな」
そしてまた、環を拒否する決意を撤回しても、アシュラが他の子供らと等しく扱われる可能性もなかった。皆の前で貶められるようなことがあれば、アシュラの村での立場がばれてしまう。シュウレがそれを知ればきっとアシュラを憐れむだろう。それは嫌われ憎まれるよりも惨めだった。遠からずシュウレは村を去る。だが、夢がいつか醒めるものならば、せめて終わりのその時まで今のままで居たかった。
「…私は環には行かない。神素などどうでもいいからだ」
アシュラは母にしたのと同じ言い訳を繰り返した。
「環は人が創った儀式だからな」
意外にもシュウレは環を拒否するアシュラに異を唱えなかった。降り積もった落ち葉を踏みしだく足元をゲブの子が歩いてゆく。落ち葉が土に還るのだ。古の水場はピレの恵みを湛えていた。二人が近づくとヌンの娘達はお喋りを止めて宙へ消えていく。
「だが、神素と関わりなく暮らすのは無理だ。全ては始まりの神の生みしものゆえ」
勿論、アシュラもそれは承知しているのだ。
(そうじゃないんだ)
全てを話せないから上手く伝える事ができない。言葉は水面に映る影のように朧だった。
「…うん。神素は皆持っているだろうからな、多分」
半祭も受けさせてもらえなかった事など言えるはずが無い。
「そうではなくて、人は神素如きに重きを置きすぎると言いたかったのだ。神素に恵まれようが、精霊は応えもせぬではないか」
アシュラが言い訳を重ねると、シュウレは肩眉を持ち上げた。
「それは違うぞ。精霊も昔は人と言葉を交わしていた。変わったのは人だ。人は精霊の言葉を聴かぬようになった。精霊は話しかけても答えぬ者の相手をしなくなったのだ」
苔むした石に掘り込まれたヌンを表すレリーフをアシュラは指でなぞった。神と精霊に仕えるシュウレには神素を軽んじる発言を捨て置けなかったのかもしれない。
「今でも人に関わらんとする精霊など、そうはおらぬ」
黙ったアシュラを納得させたと思ったのか、何やら胸を張って見せる。
(違うんだ)
言葉を生むのは人間で、始まりの神ではない。だから言葉はこんなにも不十分で、いつもちぐはぐな思いをする。いや伝わらないからこそ、もっと分かり合いたくて同じ時間を過ごしたくなるのだ。そして分かれた後には話せなかったあれやこれやが思い浮かんでまた会いたくなる。何度顔をあわせてもそのもどかしさは同じなのだけれども。
(伝わらないんじゃない。知られてはいけないんだ)
この夢が醒めぬように。シュウレは既に長靴を何処かへやって水に足を浸していた。
「水は、いいな」
アシュラも顔を上げた。長靴を脱ぐ。つま先を水に差し入れると、ヌンがアシュラを潤すのわかった。心地よい冷たさが心を浚ってゆく。
(どうかこのままで)
もどかしさと切なさと優しい気持ちのままで。