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 家へ帰ってもアシュラは動悸が治まらずに困った。たったあれだけの会話を胸の内で幾度も繰り返している。

(シュウレは黒い姿について一言も触れなかった)

そのことが浮き立つような困惑に拍車をかけていた。母もアシュラの様子がおかしいのに気付いたらしく、「熱かしら?」などと心配する。家の内の精霊までもが何とはなしに騒々しくて余計に煩わしかった。床についてもアシュラはあれやこれやと考えた。それは環に付いてではなかった。環については一つも浮かばなかった。シュウレはアシュラと森で会ったことを誰かに話してしまうだろうか。村の者に知られれば、アシュラが神域に近い場所で勝手な事をしているのを咎められるかもしれない。いや、それは些細な問題だった。アシュラの頭を占領していたのは

(シュウレは私が村のうちでどれほど疎まれているのか知ってしまっただろうか?)

という事だった。ヌンレでモルダがなした非道な行いの数々を、未だ消えぬ恨みを聞かされたろうか。アシュラが黒い子供であるが故に、村の一員と認められていない事を知ってしまっただろうか。仮にシュウレがそれを知ればどうなるだろうかとばかりアシュラは考えている。次に会った時にはシュウレも村の者に倣って黒いアシュラを貶めようとするかもしれなかった。一方で喋るならば喋れという気持ちもあった。人から疎まれるのは慣れている。今までと同じではないかと斜に構えた。

 身を縮こませて翌日と翌々日を過ごした。ところがどうしたことか、母からも村人からも何も言われない。

(シュウレは私の事を誰にも喋らなかったのか?)

そうなると逆に不安になってくる。が、母に森に居る少年が村の者と何を話しているのか、自分について何か言ってはいないかと聞くのも躊躇われた。

(それでは私がシュウレを気にかけているようではないか)

結局、何の変化も無い事に痺れを切らした三日目、アシュラは卵を売りに粉屋へ向かった。ヤギは柵に入れたが、小屋の掃除はまだだ。卵の籠を抱いて村の大路へ出る。立ち話をしていたおかみさんが二人、アシュラに気付いた。目を伏せて通り過ぎる。

「見てごらんよ、あの目つき。可愛気がないったらありゃしない。村長んとこのニレを見習えばいいのにさ」

「黒い子供と比べたら奴隷でもニレが可哀想だよ」

「それもそうだ」

声高に言い合う。

(おかしい)

境界のあたりとは言え、神域でのアシュラの勝手な振る舞いが村の者にばれたのならこの程度で済む筈が無い。いぶかしみながら粉屋で卵を売り、銀貨を一枚貰った。粉屋の親父はやはり意地が悪かったが、それもいつもと同じ事だ。

(本当にシュウレは私の事を喋らなかったのか?)

或いは、シュウレにとってアシュラのことなど取るに足らないことで、話すほどもなかったのかもしれない。あれやこれやと考えながら家に戻ったアシュラは家畜小屋の掃除をそぞろに終えた。家畜小屋の精霊がアシュラをじろじろと眺める。それからようやくアシュラは森へ出向いた。

(薪を打ちに森へ行くだけだ)

言い訳のように考える。森はいつもの森と変わらなかった。木漏れ日と、葉擦れの音と風の歌声。木霊が踊るように滑っていった。老人の木は眠り続けている。一応という風にアシュラは老人の木の下で辺りを見渡した。やはり誰も居なかった。シュウレとのやり取りなど夢の中の出来事のようだった。木霊が笑う。

(誰も居ないのならば、いつもと同じだろうに)

これまでと同じ一人ならば、誰かに痛めつけられる心配はない。だが、この夢から醒めた後のような気持ちは何だろう。数日分の思い煩いに溜息を一つついた。

 木剣は先日アシュラが放り出したままになっていた。薪はこの前に妙な割れ方をしてしまったから、新しい物を用意しなければならない。適当な太さの枝を選び、鉈で大きさを整えた。準備を終えると、何事も無かったかのようにアシュラは木剣で薪を打つことをはじめた。風が吹いた。

「来たか」

声がした。顔を向けた先に、シュウレが立っていた。微笑を絶やさぬ表情は三日前と同じだった。近づいてくる気配を少しも感じなかったことよりも、シュウレが変わらずアシュラに話しかけたことに胸が詰まった。戻ってきた薪に仕返しされそうになって慌てて受け止める。何を話すかなど考えてこなかったから言葉は出なかった。シュウレは少しはなれた場所に腰を下ろした。今日もアシュラが薪を打つのを眺める気らしい。シュウレが見ている前で木剣を振るって見せるのは恥ずかしかったが、シュウレが見ているからといってそれをやめるのも腹立たしかった。アシュラは薪に向かった。が、なぜか普段のようには行かない。見ぬようにしている筈のシュウレの方向からばかり薪が戻ってきて打ち損じてしまうのだ。自分でも上出来だと思えるような気分はどれだけ打ち続けても訪れず、嫌になってついに止めた。それでも汗まみれにはなった。

「…笑わないのか?」

こうも酷いのは久しぶりである。

「気が散っているようだの」

誰の所為だと思っているのか涼しい言い様だ。むくれてそっぽを向いたまま言った。

「私の事を司祭や村の者に喋らなかったのか?」

「何故そのようなことを聞く?」

アシュラは口籠った。村でつま弾きにされている事をシュウレには知られたくなかった。「話さないで欲しいのか?」

小さく頷いた。

「話し相手などおらぬよ」

(私のほかには)

喉のはれぼったさを感じて少し離れて草に座った。村の者は他所から来たシュウレを敬遠しているのだろうか。シュウレが言った。

「あの司祭は耳が遠くてな」

確かに高齢の司祭は耳が遠い。その上、神素に恵まれていることや、博識な事を鼻にかけるところがある。話して楽しい相手ではなかろう。

「…面白味には欠けるだろうな」

「うむ。頭巾を取り上げてやったのに、慌てるばかりで話にならぬのよ」

耳を疑った。ヌンレで村長と並んで偉い司祭から頭巾を取り上げたというのか。司祭はいつも頭巾を手離さない。実は年をとって禿げた頭を隠しているのだ。その頭巾を、である。司祭の権高で見栄っ張りな所は村人の間でも冗談にされるが、本人の前では知らぬ振りをするのが礼儀だ。それを取り上げるなど悪戯にも程がある。シュウレは見習いほどの年若とは言え、都の館から遣わされたのなら高い位を持っているのだろう。或いは村の司祭よりも上かも知れぬ。司祭は腹を立てることも出来ず、慌てたのだと思う。目を丸くしたアシュラはまじまじとシュウレを見た。シュウレが悪戯めいた顔でにやりと笑い返した。司祭のうろたえぶりが目に浮かんだ。

「そ、それは慌てただろう」

「うむ。周りの者も見ぬ振りをするのだ」

堪えきれずに噴出した。シュウレも一緒に笑う。一度笑い始めるとそれは止まらなくなって、アシュラとシュウレは笑い続けた。死ぬほど笑ってお互いを眺めた。いつの間にか酷く側に座っていた。肌がシュウレを感じてちりちりする。母以外の誰かとこんな風に過ごした事など無かった。不意に笑いすぎたのではない涙が盛り上がる。木漏れ日の中を陽射しの精霊が一人、また一人と降臨てくる。木霊はざわめいていた。アシュラなどとは関係ないというように精霊達は世界を楽しんでいる。いつもと同じ風景で何も変わらない。シュウレだけが違った。たったそれだけ。だが、これほど世界を優しく感じたのは初めてだった。

「どうした?」

「なんでもない」

微笑みあう。村の者から受ける仕打ちは、慣れてしまえば当たり前の事だった。それはアシュラの黒い姿がどうにもならぬのと同じで、仕方が無い事なのだ。当たり前だと思っていたけれども、何も感じぬ訳ではなかった。

(私は寂しかったのだ)

澱みを抜けて初めて水の清きに気付いた。アシュラは一人ではないということを知った。


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