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 輝く生命の匂いが満ちると夏である。麦の精霊は体一杯にラの恵みを得んと天に向かって手を広げ、草木も虫も獣も短い夏を体に詰め込んで煌く。金の夏だ。が、その年に環を迎える子供らばかりはそうも行かない。最後の神素が揃う夏なのだ。これまでに恵まれたものを相乗する神素を得るか、或いは相克する神素を得てしまうかがこの夏で決まる。何しろ最後の神素は自ら手に入れるとされている。如何なる結果が出ようとも、何処にも転嫁できない。子供でいることが許される最後の夏は不安と期待がない交ぜになった、気もそぞろな日々となる。

 先頃、アシュラは村長の家の奴隷であるニレに拳ほどもある石を投げられて額を割った。村の子供らの中でも、目敏くアシュラの姿を見つけ、一番大きな声で囃し立てるニレがアシュラは特に苦手だった。他の子供らと一緒に居るときは一番大きな声で囃したて、アシュラを追い掛け回すくせに一人で居る時に行き逢うと友達でもあるかのように話しかけてくるのである。

ニレもまた今年環を迎える。毎年環が近づくとそういったことが起こるが、憂さ晴らしの的にされるアシュラの方はいい迷惑だった。皆が一喜一憂する神素など唾を吐いてやりたいほどにアシュラは思う。しかし、

「環には行かない」

母にそう宣言したアシュラさえも落ち着かない季節を過ごしていた。

 今日もアシュラは昼前から老人の木を訪れている。ラをはらんで穂を膨らませた麦の刈り入れは間もなくだ。刈り入れが始れば朝も昼も無い多忙な日々が続く。それまでの僅かな休息を味わっていたのではない。アシュラは何をしていても何処にいても尻のすわりが悪い思いをしていた。気が付くと成人の儀である環を受けずにどのようにして生きてゆけばいいのか、いや、村の内で暮らすのならば必要ない等と勝手に考えているのだ。母はといえば環を拒否するというアシュラの発言など、気まぐれな娘が勢いで口にしただけだと決めて居るらしく、あれ以来何も触れなかった。それがまた腹立たしい。悶々とした気分を払うためにもアシュラは森へ向かう。木剣を握り、薪を打つ。老人の木の下でアシュラは自分と戦っていた。

 薪を打つ。打つ。払う。戻ってきた所をかわして、振り返って打つ。距離が足りぬのを走りこんで打つ。ちくちくと軋む胃は不安からか、空腹からか分からなくなってもアシュラは薪を打ち続けた。焦りが汗になって薄れ、何ものかに打ち克たんとする激しさが目を覚ます。もう随分と老人の木の下で過ごしていた。いつもならこの辺りで満足して止めている。今日はまだだ。環の近さをひしと感じる。打つ。しゃがみこんで下から跳ね上げる。降って来る所を飛び退って避ける。息を切らしてなお心は薪を睨み、木剣を構える。打つ。払う。打つ。長くそうするうちに、いつもの天の高みに駆け上がらんとする昂ぶりまでが昇華して空へ溶け行くのを感じた。

(何だろうこれは?)

初めての感覚にアシュラは戸惑った。それでも薪を打ち続ける。打つ。かわす。跳ぶ。打つ。木剣を振るううちに、体の中から真っ白にさらわれてゆくようだ。疲労に意識が薄れているのではない。木剣を握る指先が痛いほどに感覚は鋭い。

(体の中に冷たい水が満ちてゆくみたい)

アシュラがアシュラである意識が薄れてゆく。その存在は透明になって世界へ溶けてゆく。アシュラは世界の一部であり、世界はアシュラの一部だった。そうして世界から一切の雑音が消えた。過ぎ行く夏も、己の黒い姿も、村の者の仕打ちも木霊の囁きほどにしか感じられない。全てはピレの彼方の出来事になった。それをどこか遠い所から見下ろしている。世界には打つべき薪しか存在せず、木剣は打ち下ろすべき時を待っていた。大段に構える。そして、その瞬間が訪れた。渾身の力で打ち下ろした。一際激しく木と木のぶつかり合う音が、

「っっん!」

上がらなかった。中った筈の木剣が空を切った驚きで声になった。バランスを崩して片膝をついた。世界と一つになっていた感覚はたちまち失われて、我に返った。

(打ち損じた?)

そんなはずはない。確かに木剣は薪の芯を捕らえた。目も腕も体の全てがそれを知っていた。ならば何故木剣は薪を打たず空を切ったのか。

(…縄が解けたのか?)

吊るした薪の結び目が解ける事は前にもあった。が、そうではないのを直感していながら、ありきたりの可能性を探る。薪は梢から大きく振れている。縄の結び目が片側に寄っているのが見て取れた。手を伸ばす。戻ってきた所を掴んだ。

「…う」

喉が詰まる。結び目が寄っているのではない。薪の長さが足りぬのだ。薪はその半ばから断ち切られていた。

「そんな馬鹿な…」

呆然と喘ぐ。薪の片方の縁が木目も露に真っ平らになっているではないか。

(なぜこんな事に?)

アシュラが握っているのは鉈ではないのである。木の枝を整えただけの不恰好な木剣だ。仮にアシュラが握るのが鋼の斧でもこうはいかない。薪は叩き割った石の面のように滑らかで、ささくれ一つ出来ていないのだ。

(…何が起こったのだろう?)

唖然としたまま少し離れた草叢に落ちていた薪の残りの半分を眺めた。

 その時だった。アシュラは聞いた。

「お見事」

誰とも知れぬ囁きに心臓が跳ね上がる。

(誰か居るのか?)

アシュラは辺りを見渡したが出てくる者は居ない。が、村の者がアシュラから隠れるというのはおかしな話だ。子供ならば石を投げる。大人ならば罵倒する。あの声は空耳だったのだろうか。いや確かに聞いた。立て続けに妙な事が起こり、アシュラはうろたえるばかりだった。風がごうと吹いた。ふと風の吹いた先を見上げると。

人がいた。

少年だ。環が明けて間もないほどの少年が見上げた梢に腰掛けているではないか。アシュラは驚きで声も出ない。

「おや、見つかった」

少年はアシュラと目を合わせると微笑んだ。慌てたのはアシュラで、身を隠すべきか、この場の始末をするべきか目を泳がせた。アシュラを困らせたのはそれだけではない。アシュラはこの少年の顔を見たことがなかったのである。

「…誰だ?村の者か?」

思わず口にした。この少年が誰で、ここで何をしているのか全く見当が付かなかった。栗色の髪に茶の目、白い肌は特に珍しい物ではない。少年が身に付けている物も、長袖のシャツに毛糸で編んだ上着はこの辺りの一般的な形だ。上着の柄は村長の家系の柄に似ている気がする。少年がアシュラに応えた。

「村には住んでおらぬ」

ならば、この少年は村への来訪者なのだろう。よそ者であるこの少年は黒いアシュラがこのヌンレでどのような扱いを受けているのか知らないのだ。だから平気でアシュラと口をきく。少なくともそれを知らぬ今は少年がアシュラに辛く当たることはあるまい。アシュラはややも肩の力を緩めた。

「村の客人か?」

今度は穏やかに聞けた。少年がひらりと飛び降りてきた。驚くほど軽い身のこなしでアシュラに歩み寄る。

「村ではない。この森に居る。人と話すのは暫くぶりだ」

手を伸ばせば触れる距離まで近づいてくる。アシュラは怯えて歯をむき出したリスのように木剣を自分と少年の間に突き立てて、それから少年の返事を考えた。少年は森に居ると言った。この神域にだろうか。

「…神域の森で何をしているのだ?」

「ここに留め置かれている」

アシュラは村の者には近づかぬから、村の動きを知らなかった。しかし、神域によそ者を留め置くような事は未だかつて聞いたことが無い。母も何も言っていなかったと思う。不審に思えば次々に問いが浮かんだ。

「家族は?食べる物はどうするのだ?暮らしてゆけまい」

少年はにこにことアシュラを眺めている。

「一人だ。毎日届けられるではないか」

神域の神籠石の祭壇には司祭が毎朝供物を捧げる。その時にか。そう思って気づいた。今年は大巡検である。常の年とは違うのだ。

 大巡検は王都の神の館が国の内の神と精霊を鎮め、祀る神事である。神官や巫女が精霊の働きが強い場所、神や精霊が封印された場所を順に廻る。その場所は増えたり減ったりするけれども、大凡八年で一巡する。ヌンレの神籠石は大きな精霊の宿りの一つだった。確かに今年中には大巡検があるだろうとアシュラも聞いていた。

「今年は大巡検か…」

少年は頷く。前の大巡検の時分にはアシュラは幼く、見聞きした事を覚えてはいなかった。だから神事の一環として神籠石に人を置きとどめるような事もするのかもしれないと思った。そこで

「大巡検で役を担っているのだな?」

と聞けば、少年は少し考えるようにして答えた。

「大巫女の婆と問答をすることになっている」

やはりそうなのだ。少年はきっと神官の見習いなのだろう。年若に見えるが、都から遣わされて大巡検で役を担うなどなかなかである。ならば「このような場所で何をしているのか?」という問いは少年のものだ。少年の方から問いが発せられた。

「汝が名は?」

「…アシュラ」

少年は咎める風も無く、自らも名乗った。

「吾はシュウレ」

良い名だった。ピレの風を意味する。その表情に権高さはない。むしろ親しさが滲んでいた。アシュラは思った。名を問うたと言う事はこの先にまた会う気があるという事だ。シュウレはアシュラと再び顔をあわせて言葉を交わすつもりなのか。

(……友達にでもなりたいのか?)

その想像を愉快に感じている自分に気付いて急に恥ずかしくなった。先程の矢継ぎ早の質問など、逆にアシュラの方がシュウレの事を知りたがっているようではないか。慌てて目を薪へと移した。シュウレに気を取られているアシュラは薪が妙な割れ方をした事などすっかり失念している。浮き立つ思いを隠すためにも酷く不機嫌な顔で言った。

「いつから見ていた?」

勝手に見るなといわんばかりの口調だ。そのくせ何故自分はこんな物言いしか出来ぬのかと内心で自分を詰っている。シュウレはぶっきらぼうなアシュラなど意に介さず応えた。

「先より」

「…今まで全く気付かなかった」

自分の迂闊さを呪う呟きがもれる。シュウレは微笑んだ。

「気付いたではないか。汝は環を迎えんとしているのだな」

大人になれば周囲に気を配れるようになるということか。遅まきながらもシュウレの存在に気付いたアシュラだが、誉められたのかけなされたのか分からずに何と応えるべきか迷った。と、シュウレが背を向けた。もう帰るのだろうか。拍子抜けした気分で眺めていると、シュウレはアシュラを振り返った。不思議そうに問う。

「水垢離に行くのだろう?」

何故動かぬのかと。シュウレはアシュラに別れるためではなく先にたつ気で背を向けたのだ。途端に上向きになる心を隠して、少々考えた。

(…どこに行くって?水垢離?)

古めかしい言葉に記憶を辿る。ああ、水浴びの事かと気付いて頭が沸騰した。シュウレはアシュラが薪を打った後に水浴びをする事を知っていた。「先より」とは今日薪を打つところを見ていたという事ではなく、以前からアシュラが森で過ごしているところを見られていたのではないだろうか。そうでなければ、アシュラが薪を打った後に水浴びをする事を知っている筈が無い。

(まさか水浴びする所まで見られていたのでは…)

顔が燃え上がる。シュウレの目の前で水浴びする事などできる筈もなく、

「行かない!」

アシュラは走って逃げた。


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