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神域の森は木魂の囁きに満ちていた。ピレと人の世界は神域によって隔てられている。神域にはピレの風の神がおわすのだ。村の者は神域に鎮座する大岩、神籠石の中にピレの風の神が封ぜられていると信じていた。ヌンレでは政り事は村長の館で、祀り事は神籠石の前で行われる。アシュラは神籠石からは離れた、神域と狩の森との境目で膝を抱えていた。日々の生計のために薪や木の実、茸を集めに訪れる者は狩の獲物と間違われぬように近づかず、狩に出た者は獲物が神域に逃げ込まぬようにお互い避ける場所だった。村の者からも母からも離れたくなるとアシュラはいつもここに来た。アシュラは森の主のような大木の根元の股になったところに身体を押し込んで丸くなっている。森の木々にもそれぞれの精霊が居る。人の腰丈程もある木の精霊たちは己自身の幹に溶け込むようにして、或いは枝に腰かけ、或いは自身の周りを廻りながらざわめいていた。アシュラが蹲る木の精霊は年寄りの姿をしていつものように目を閉じている。その幹からは出ず、飛び込んでくるものを抱きとめるように根を広げていた。
(今頃母さんは泣いているだろう)
何でこんな自分になってしまったのだろうと思う。きっと押し殺した感情が身体の中に溜まるうちに心を腐らせてしまうのだ。恨み言を言うならば、このヌンレがそのようなアシュラをつくった。雨と降る拳骨に頭を抱え、逃げ出すことも出来ずに蹲る。そんな日々がアシュラをそうさせるのだ。全てから逃げ出したかった。酷な村人達からも黒い肌のこの姿からも捻れた自分からも。しかし何者からも逃れる事などできない。
(ただ目をつぶっているだけ)
実は辛い事ばかりのこの村を出ることを考えぬ訳ではなかった。アシュラは一度だけヌンレ以外の場所に行った事がある。あれは半が過ぎた頃だったろうか。母はアシュラを連れてシェアの街まで出かけた。それは粉屋を通さずに品物を売るためだった。あの年は苦しい年だったのかもしれない。鶏やヤギも幾らか手放したような記憶がある。母が織り溜めた布やヤギを少しでも高く売らんと交渉する間、アシュラはシェアの町並みにため息を漏らしたものだった。溢れるほどの品々に、目が回りそうな人の数。こんなに大きな町があるのかと驚いたが、シェアは田舎町なのだと母は笑った。何より驚いたのは人々がアシュラを痛めつけぬ事だった。アシュラの黒い肌を振り返って眺める者はいても石で追われる事はなかった。盛んに呼び声を上げる商人の中にはおいしそうな揚げ菓子や小さな玩具を見せて「お母さんにねだってごらん」と微笑みかける者さえあったのだ。
(この世界にはモルダの姿を憎まぬ場所があるのか!)
それは天と地がひっくり返るほどの衝撃だった。シェアの街には様々な姿の者が行き交っていた。大人でも子供のような背丈の山人が行ったかと思えば、不思議な衣装を身に付けた一団に人々が「あれは鳥人だ」と囁きあう。アシュラも鱗の肌の鰐人にぶつかりそうになって慌てて飛びのいた。街道の町、シェアでは人の形に拘らぬのが流儀だった。アシュラは思った。
(どこかに私の為の場所もあるかもしれない)
ヌンレを離れ、新しい土地で真っ更な自分になる。それは太陽ほどに眩しい想像だった。だが、アシュラはもう人別札の要らぬ子供ではない。モルダの姿ゆえに村に居られぬほど疎まれ、神素の祝福を受けられない。神素を知らぬが故に人別札を得られず、村に居続けなければならない。アシュラは繋がった輪のような常闇の中に居る。
不意に尻に硬い物が触れた。後ろ手で引き出す。手に取ったのはアシュラの両の腕を広げたほどの長さの棒切れだ。アシュラが樫の枝から葉と小枝を落とし、時間をかけて形を整えた。節の残る無骨なそれは剣のつもりである。蹲った木の根の奥に隠してあったものだった。持ち重りのする木剣は長く使っているので握りが黒く光っている。老人の木を見上げた。
「考え込むなって?」
これ以上、思い悩むなと老人がアシュラに木剣を差し出したような気がしたのだ。勿論返事などない。老人はいつもの形のまま目を閉じていた。アシュラは身体を起こして棒切れを撫でた。これで吊るした薪を打つ。シェアの街を訪れて以来の習慣だった。
シェアの街でアシュラの心を捉えたのは美味そうな食物でも美しい細工物でも珍奇な動物でもなかった。それは王都から戦場に向かう兵の一団だった。シェアでは続いている戦に動きがあったと噂が流れていた。兵が集められ海辺のカルダへと急ぎ送られるそうだ。それと思しき男らに一目くれただけでアシュラは棒立ちになった。道を塞ぐアシュラに、小さな叫びと悪態があがる。それすら聞こえず長く我を失った。アシュラは兵の中に黒い男を見つけたのだった。自分のような者が他にもいるのだろうとは思っていたが、本当にいた。しかも男は奴隷ではないらしい。他の兵も黒い男を忌避する素振りはなく、時に笑い肩を叩きあっている。母の脇を離れ、アシュラはふらふらとその後を追った。兵たちは名残惜しげに街の門へと向かっていた。彼方から聞こえる角笛の音は兵らに出立の時を知らせる物らしい。アシュラもそれに呼ばれるように続く。開かれた門の向こうに馬や荷駄が並んでいるのが見えた。いよいよ男らが門を潜らんとしてアシュラは慌てた。何と声をかけるのか考える間もなく男の袖を引いた。
「王都には黒い子供が沢山居るのか?」
あまりにも唐突な問いだった。しかもひどくぶっきらぼうで、腹を立てているような口調になった。これほど自分の可愛げのなさが悔やまれた事はない。突然袖を引かれた男は驚いて振り返った。「こんな辺境にも黒い子供が居るのか」と呟く。男は仲間から離れて足を止めた。アシュラは叫ぶように聞いた。
「黒い子供も兵になれるのか?王都に行けばよいのか?」
暫しアシュラを眺めていた男は優しくアシュラの髪に触れて言った。
「兵に肌の色は関わりない。私はカルダの生まれだ。カルダでは黒い子供は珍しくもない」
見ず知らずの男に話しかけねばならぬほど切迫した眼差しの黒い子供。男はこの辺境で黒い子供が受ける扱いを察したのかもしれない。或いはこの黒い男もかつてアシュラのような身上であったのかもしれない。男は不躾なアシュラにきちんと応えてくれた。
「兵に必要なのは剣の技だ」
「神素よりも?」
「神素は命を守らぬからな」
その答えが酷く気に入った。アシュラは縋るようにして問いを重ねる。
「どうすれば剣が上手くなる?」
黒い男は良き師につけと言いかけて止めた。決して恵まれていると言えないアシュラの身なりからも剣術を教わるような環境にないと察したのだ。ましてやこの辺境に師とならん者がいるかも疑わしい。少し考えて応えた。
「聞いたことがある。吊るした薪を打つのだ。跳ね返ってきた所をまた打つ」
たったそれだけのやり取りだった。しかしそのことはアシュラの中に深く根を下ろした。
(黒い子供であることも神素すらも関わりない場所がある)
ヌンレに戻ったアシュラはそれを始めた。
老人の木には高い梢から薪が一本吊るされている。アシュラの眉間の高さに調節されたそれを手製の木剣で打つ。跳ね返ってきたところをまた打つ。最初はどの方向から返って来るのかも分からずこぶと切り傷だらけになったものだ。今ではそのような事はない。何処をどのように打てば、どちらから戻ってくるのか体が知っている。払う、打つ。憤りだとか、やるせなさだとかをこめて打ち続ける。老人の木に吊るした薪は打たれたように跳ね、戻る。戻った所をまた打つ。続けるうちに薪の向こうに人の姿が浮かぶ。アシュラに酷な仕打ちを続ける村の者の姿をとって浮かぶのはアシュラの中に巣食う恐れと不安だ。粉屋の親父を打つ。
(この姿も)
打てばそれは消えて戻ってはまた別の影が浮かぶ。司祭を打つ。
(神素も)
打って消す。アシュラを囃したてる子供らを一人ずつ打つ。
(環なんか)
母の姿が浮かんだ時も打ち返した。
(いつか)
そうして何も浮かばぬまで薪を打ち据える。腕が上がらぬほど疲れて、神素や近づく環やこの先の暮らしの事など考えぬように。虚無に飲み込まれてしまわぬように打ち据えるのだ。シェアでのあの時、黒い男はアシュラを男の子だと思ったのであろう。今ではアシュラも女は兵になれぬものだと分かっている。それでもアシュラは薪を打つのを止めなかった。剣の技が身についたのか分からぬし、そもそも人別札がなければ村を出ることすら叶わぬのを知ってもそれを止めなかった。だからそれは遊びだ。しかし、限りなく可能性が低い「いつか」を捨てずに居るための酷く真剣な遊びだった。
弱い自分を打ち据えるのに疲れるとアシュラは森の奥へ分け入る。老人の木の少し先からは辺り一帯がぬかるんでいる。水が湧き出している場所が幾つかあり、神域を抜けて水が溢れてゆくのだ。やがてそれはいく筋もの流れになって村の方へと続く。ヌンレを潤す水源だった。いつだったかヌンの娘達が騒いでいるのを覗きに行って見つけた。石や倒木を踏んでアシュラは水源の水溜りを奥まで進んだ。朽ちかけた石の囲いが透明な水に浚われている。古い時代の忘れられた水場なのだろう。人の手で作られた囲いの底からは懇々と水が湧いている。地熱の影響か、冬の最中も凍らぬ水だった。身に付けたものを手早く脱いで張り出した木の枝にかけてゆく。素裸になって水に浸かった。誰にも見咎められずに汗を流し、髪を梳く。そして黒い滑らかな肌を擦った。風の日も雪の日もそうした。時に血が滲むほどに擦った。どれほど擦っても黒い肌が白くなる事はないけれど、いつかこの澱みから抜け出して海へと続く流れに乗ってゆけるように。