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  20

 ピレの頂では雨ではなく雪になっていた。徐々に激しさを増して前も見えぬほどに降りしきる。この悪天候も既に中腹に至っていたモルダ兵の足を止める事は出来なかった。風が凪いだピレに黒い雲が降りる。アシュラは詠う。暗黒の雲の海はゆるゆるとその裾を目指す。雲と雪に追われ急いだのか、ついに隊列を成すモルダ姿が目に見えるほどになった。砂粒のような姿でもアシュラの場所からもそれは見えた。願う。祈る。雲が下がる。

ぴしり。

気のせいか、雲に包まれたピレの頂で音が鳴ったように感じた。アシュラは声を振り絞る。砂粒たちがピレを下る。ピレは険しいが、あの凍てついた崖を過ぎれば鹿も住まう。馬に行けぬ筈が無い。後は雨も雲も蹴散らして怒涛の如く駆け下りてくるだけだ。雨よ。雲よ。もっとと詠う。降る雪は見る間に積もり嵩を増してゆく。

きしり。

その音がアシュラの耳にだけ届いているのか、ピレの山々に響き渡っているのか区別は付かない。声が伝う。旋律が揺さぶり、届けと叫ぶ。雨交じりの雪にも、滑る岩にも、切り立った崖にも怯まずモルダの兵はその歩を進めていた。眼下に広がる異国の風景が、ピレを越えた喜びになり、彼らを励ましているのだ。ピレに雪が降る。無力なほど静かに。

(ヌンよ)

間に合えと叫ぶ。既に人と馬の区別が付くほどにモルダの兵はピレを下っていた。

(ヌンよ!)

きしきしきしきしきしっ

砂粒のような隊列が一瞬止まって見えた。

白銀の雪の壁に亀裂が走った。ごっという耳を劈く音に大地が震えた。黒い雲の向こうでピレの頂を覆いつくしていた雪と氷の衣が怒涛のように流れ落ちる。雪崩だ。急激に降り積もった雪が雪崩をおこしたのだ。雪崩が雪崩を呼び次々と雪煙が上がる。ピレの山々の全てが崩れ落ちる勢いで雪崩が斜面を覆いつくした。海だ。雪の海だ。突き出た岩を飲み込み僅かな木々を押し倒す。その中腹にいたモルダの兵はひとたまりもなく、人馬もろとも飲み込まれてゆく。ピレの高さの半ばを雪煙が多い尽くしてもまだ雪崩の勢いは留まらず、アシュラに迫った。雪崩の起こした嵐のような大風が逃げもせず詠い続けるアシュラを襲った。シュウレがその手を伸ばして風を割り、アシュラを庇った。そして、時間も流れも全てが止まったような静寂が降りた。

雪崩は神域まであと僅かという所で止まっていた。

モルダの脅威は去った。襤褸のようになったアシュラは雨の剣だけでは身体を支えきれず、その場に座り込んでいる。だが、使い果たそうとした命は残っていた。

「…まだ生きている」

シュウレが頷いた。ならば、まだやるべき事があるのだろう。


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