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 朝から雨が降っていた。雨が降る日の水汲みはヤギと鶏達の分だけなので一度で済む。雨の降りしきる小道を雨粒の少女達が手を繋いで駆けて行く。大地から麦や野菜たちを包み込んでいるのはゲブの手だ。森の方角からは木魂の歌声が微かに聞こえていた。雨はすべてのものへの恵みなのだ。朝食を済ませると母は

「砂箱を持っていらっしゃい」

と言った。砂箱は平たい木の箱に薄く砂を敷いたもので、勉強をするのに使う。砂に棒切れで字を書き、均してはまた書く。紙は高価なのだ。村長や司祭は近隣の村々や王都と手紙のやり取りをしているが、ヌンレでは紙など滅多に見ない。それでもさほど不便はない。読み書きなどできずとも村の暮らしに困る事などないのだ。文字は一年に一度だけ使う。税を納める時に名を記す。だから、村の子供たちは半を過ぎると司祭の館で一応は読み書きを習う事になっていた。その気があれば算術や地理、歴詩も習う事が出来る。子供らの中には王都へ行って兵になる者も、行商に出るようになる者もいるからだ。しかし、大半の者はヌンレのうちで生涯を終える。アシュラは司祭の館へは行かない。

 半どころか環が近いというのにアシュラが司祭の館へ行かぬのは、司祭がアシュラに教える事を拒んだためだった。この時ばかりはアシュラを厭う司祭の方針は有難かった。村の子供らに混ざって物を教わるなど考えられない。村の子供らはアシュラの姿を見つけると嬉しげに叫ぶのだ。

「アシュラだ!アシュラが居るぞ」

小突き回されたり、堆肥の山に放り込まれたり、川に落とされたりとろくなことがない。少しでもやり返せばその親が出てきて一緒にアシュラを痛めつけた。彼らには近づかぬより他ないのである。名さえ書ければ十分であるのにその彼らと共に司祭の館へ通うなど拷問に近い。しかし、母の意見は違うようだった。

「弱い立場の者ほど賢くなければならない」

と母は言うのだ。「司祭様が教えてくださらぬのならば、私が教える」と砂箱を用意し、アシュラに教え始めた。それも名を記せるだけでは駄目だという。軽んじられて不当な約束をさせられたり、騙されて奴隷になる書付に名を記してしまうかもしれないと言う。ヌンレの現状を思えばそれも否定できなかった。すでにアシュラは租税や契約に関する物はほぼ読めるようになっている。だが、

(読み書きが出来ても暮らしの役には立たぬのに)

そう思えば、身が入るものではない。今日もしぶしぶと母の言に従う。砂箱の上には精霊が腰掛けており、不機嫌なアシュラを笑った気がした。精霊に触れることは出来ぬのだが、埃を払う仕草で砂箱を取り上げるととゲブの子はくすくすと揺れながら消えた。

「…常闇の時、初発に成りませる神々、火熾きて、風を呼び、水と降りて、土をなす。四つ柱の神となりませり。始まりの四つの神…ほら、綴って」

母が暗唱するのは歴詩である。世界の始まりを詠った神代から、各代の王の人となり、功績を記した国の来し方を詠った物だ。母がそれを暗記しているのは、かつて母が王都の巫女になるために勉学に励んだからだった。母は神素に恵まれている。四つの神素は水が二つに、土が二つ。対が二つもある上に、土と水はお互いを高め合う相乗だ。二対の相乗と呼ばれるそれだった。

 神素は始まりの神と同じ火と水と風と土の四種だ。人が持ちうる神素はこれもまた四つ。しかし、どの神素に恵まれるかは選べる物ではなく、両親と育った環境による。人の道を説いた訓詩では四つの神素の全てが揃う調和をよしとするが、現実には大抵偏りができる。火を二つと風と土などだ。そして皆この偏りを有難がる。偏りがあるという事はその力を強く持つということだ。偏りと神素の組合せによって精霊の恩恵の優劣が測れる。一対の偏りならば珍しくはない。背反する神素がなければ尚よい。火と水のように背反する神素はその力を相殺する。逆に火と風のように補い合う神素であるならばいっそうの恩恵をうける。火と風、水と土はお互いを高め合う相乗の組み合わせせあり、火と土、風と水とは増減をもたらさずにお互い和する親和、打ち消しあう火と水、風と土の関係は相克となる。「火は風に猛り、土と和する」と言う訳だ。

「…次に四つの神、相謀りたまひて、その身を」

まずいないが神素が三つ揃うこともある。これは三位と呼ばれていて、その辺の司祭などにもいない。王都で国の政を行う巫女にもなれる恩恵だ。そして四つの全てが同じ神素に揃う「全」は古の神話にしか聞かない。「全」は四つの神そのもの、精霊を自在に操る神の域の力を得るのだという。アシュラの母は二対の相乗。かつて母は王都の巫女になるべく目されており、それはヌンレの誇りでもあった。あのモルダの災厄が起こるまでは。母は巫女にならずにアシュラを産んだ。

「謀りはこうでしょう」

うんざりと始まりの神の物語を砂に記す。ヌンレのような辺境で歴詩までを学ぶ者は滅多にいない。

(どうせ私はこの村から出られないのに)

アシュラが母のように神素に恵まれた者として村の外へ出る事など考えられなかった。神素を判じてさえもらえぬのに優劣どころの話ではない。そして、そもそも神素が分からないという事は村を出ることが出来ないという事でもあるのだ。生地を離れ別の土地に住まうには身の証である人別札が必要になる。人別札は生地の長が生地、名前、神素を記した札で、夫々の町に入る際に検められる。人別札を持たぬ者は身元の定かでない浮浪であり、職を得ることが出来ない。捕まって奴隷とされる恐れもあった。

「…相謀りたまひて、その身を分けたまひて、諸々の生けるものをば生みたもう。始まりの四つの神の身の内に受くるをば、神の素となり…。アシュラ。アシュラ!」

「え?」

「聞いていなかったわね」

その通りだった。母は深い溜息をついて言った。

「お前はここの所詩を寿ぐのも疎かにしているでしょう」

それも事実だ。

「アシュラ。あなたは王都へ行くような事もあるかもしれない。学んでおかなければならないのよ」

それはあくまでもアシュラが神素に恵まれていたならばの仮定の話だった。母はアシュラが神素に恵まれていると信じて疑わないのである。幼い頃、アシュラが「ほら!ラの子が踊っているよ!」火の粉と一緒にくるくると回って見せれば、母はよほど嬉しそうな顔をしたものだった。「お前は神素に恵まれているのよ」今も母は自分に言い聞かせるように繰り返す。

(違う)

と思った。母は娘が神素に恵まれていて欲しいと願っているのではない。これまでの母の人生は決して幸せではなかった。家族を皆殺しにしたモルダの子を産み、王都へ出る夢を諦め、憎悪の中でその娘を育て、今もヌンレの貧しい生活に甘んじている。もう十分に酷い目にあってきた。だけれども、その娘が母の夢を継いで都の巫女になったならば、その苦労も報われる。皆が羨む娘を持てば幸せな残りの人生を送ることが出来るだろう。だから、

(そうでなければならないと決めているのだ)

母は娘のアシュラが人並みはずれて神素に恵まれていなければならないと決めている。母は幸と不幸の天秤が釣合うほどの対価が欲しいのだと思った。思わず反り返った気分がもれた。

「…詩を寿ぐのなんか馬鹿らしい」

「アシュラ!」

母が眉を吊り上げる。後に引けなくなった。

「精霊も神素も何の役にもたたない。麦を育てるのにも、ヤギを飼うのにも」

「何を言うの!」

語気を強めた母にアシュラも激した。

「対だ、相乗だといって精霊が母さんを守った事があった?そんな事一度だってなかったじゃないか!」

だからこそアシュラがここに居るのである。黒いアシュラが。長じて少しは知恵が付いた。だから見えてしまうものも在る。

「王都へ行きたかったのは母さんだよ」

自分は母が望むような娘にはなれないと思った。

「神素があるのかさえ分からない私が王都へ行く事はない」

村を出ることすら叶わず、人に厭われながらこのヌンレで暮らすよりないのだ。

「恩恵を受けていないだなんて誰にも分からないじゃないの!」

(そう。誰にも)

それを判じる事が出来るのはこのヌンレでは司祭だけ。アシュラ本人にさえも分からないのだ。母を遮って言った。

「ううん。神素なんかどうでもいいんだ」

十二の年が明けてからずっと考えていた。母の目を見ていった。

「私は環には出ないのだから」

母は言葉を失った。今年の秋に来る環は神素を判じてもらう最後の機会だった。アシュラが環だけは受けられるように母は土下座して司祭に請い願うのだろう。土に額をこすりつけることも、司祭の靴に口づけする事すら厭うまい。アシュラのために。母にそのような真似をさせたくなかった。母にそこまでさせる価値があるとは思えなかった。神素にも、自分にも。だから

「神素は判じてもらわない」

嫌われて、憎まれて成人の儀すら拒否されるのではない。神素を判じてもらう必要がないから、環には参列しないのだ。そういう事にしておけば、傷つくことはない。もう惨めな涙を流す事はない。アシュラは静かに立ち上がると、顔を見られぬように母に背を向けた。

「ちょっと待ちなさい、アシュラ!アシュラ!雨の中どこへ行くの!」

戸口で立ち止まって言った。

「雨はもう上がるよ」

雨粒の少女達が天へ駆け上がるのを窓から見ていた。ヤギを小屋から出すうちに雨は上がった。ヤギを柵へ入れるとアシュラは森へ向かう。言葉はいつも口にした途端にその色を変える。言葉は人が生むもので、神が宿っていないからだろう。


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