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  19

 夜が白む。ピレの頂に銀の点がともる。僅かの間にそれは広がり斜面を輝かせ、一日の始まりを告げた。旭日よ。そこかしこにラの子が舞い降り叫ぶ。神籠石にも降る。輝く旭日を受けながら、アシュラの口から旭日を称えるラの詩が漏れた。神籠石の前に出来た水溜りから一掬いして口に運ぶ。口をつくのは一日の初めの水の詩。心が満ちた。岩に戻す事も出来ずに安置されていた雨の剣に手を伸ばし、それを支えにアシュラは立ち上がった。雨の剣は手に馴染んだ。ピレを仰ぐ。ピレは今日も神々しく白い。アシュラはその光景を目に焼き付ける。ピレの中腹にわずかな動きを感じる。目で見えたのではない。心がそうだと感じたのだ。軍馬の動きだと思った。その数百二十程度。先の侵攻よりも格段に多い。しかも氷に閉ざされたピレを渡ってきた当千の兵だ。彼らが身を隠すべき時は過ぎた。昨夜の村の動きはピレからも見えていただろう。モルダはこちらが気付いているのを知っている。王都へ知らせが行った事も察していよう。こうして夜が明ければ急ぎ駆け下りてくるはずだ。ただ、途方もなく高い山だから、空が白む頃に動き出してもしばし掛かる。アシュラは逃げようとはしなかった。

 アシュラは詩を詠い始めた。ヌンを寿ぎ称え感謝する詩を。精霊を使役する詩など知らない。知っているのは、一日の初めの水に感謝する詩、水鏡の詩、作物に撒く水の詩、洗濯の歌、水浴びの詩、清めの詩、雨乞いの詩…。日々のそれであり、兵と戦う為のものではない。だが、アシュラの知っているヌンはそれだった。声は体の中から生まれて、響き流れた。アシュラの中のヌンが真っ直ぐにピレを見つめる。詠えば自分が世界と繋がっているのが分かった。はちきれんばかりの想いに震える。アシュラは願う。

(ピレに雨を)

モルダがヌンレに降りて来れぬほどの雨を。兵どもを押し流すほどの雨を。高く低く詩は神域に広がってゆく。温かく、懐かしい旋律はその全てを母が教えてくれた。

(ヌンよ!)

祈る。雨の剣が震えた。それは確かに世界に通じた。晴れ渡っていた空に雲が流れてきた。最初は薄い雲だった。徐々に厚みを増して黒く昇ったばかりの陽を遮った。アシュラは詠い続けた。アシュラは世界の一部だった。

 その願いの通じたかと思った矢先、凪いでいた風が急に強まった。見る間に雨雲を散らしてゆく。

(ああ…)

やはり巫女でもないアシュラの声では足りぬのか。己の無力さに歯噛みする。ピレから駆け下りてきたシュウの子がアシュラを掠めた。詩が風に散ってゆく。分かった。アシュラの祈りが足りぬのではない。風がそれを阻んでいるのだ。母が逝った朝から凪いでいた風。ピレの風は既に解き放たれているのだから、確かにいつ風が戻ってもおかしくはなかった。だが、何故今この時に。

(ヌンよ)

叫ぶように祈る。風が吹くばかり。届かない。だが、その風は懐かしいにおいがした。振り返った。

「シュウレ…」

やはりシュウレだった。距離はないのに苦しいほど離れてシュウレが立っていた。

「帰ったか」

頷いた。それをシュウレが喜んでくれているのが分かった。胸が熱くなる。だが、アシュラの祈りを散らせているのはこのシュウレなのだった。

「モルダの軍勢を雨で押し流そうというのだな、水の娘よ」

シュウレはそれを知っていた。母を救うために手を貸してくれた時とは違う。シュウレはアシュラの願いを知ってなお阻むのだ。シュウレは言った。

「かの者は風を良く使う」

アシュラはシュウレがモルダに使役されている事を知った。先方には神兵か司祭、風の技の使い手が居るのだ。そしてアシュラは気付いた。ここの所ピレの風が収まったのはそのためだったのだと。風を治めたからこそモルダはピレを登って来られた。ピレを下るために雨を降らさんとする雲を掃おうとしている。モルダに使役されているのだとしても、今アシュラの前に立ちはだかるのがシュウレであることが切なかった。だが、それでも、

(祈ろう)

自分はそうすると決めたのだから。懐かしい姿を見つめた。搾り出すように口をついたのは水車の詩。運命の二つ輪の如、廻り来れ。別れてもまた結ばれて、回り廻れよ、清きその、流れ廻れよいやさかに。いやさかに…。言っておけばよかった。最初に口をきいたあの日からずっと、精霊であると分かった時も、自分の願いを阻む今も。シュウレを見つめたままヌンを寿ぐ。吹きすさぶ風を越えるように。天に届くように。アシュラの声は増す。この喉から血を吐くまで、微かな声も出なくなるまで詠い続けて見せよう。シュウレの前だからこそ。

「アシュラよ」

詩を紡ぐアシュラを眺め続けていたシュウレが口を開いた。あの切なく優しい微笑のまま触れることの叶わぬ手をさしだして、ゆっくりと歩み寄ってくる。シュウレはアシュラの握る剣に添えて、言った。

「吾をこの岩に繋ぎとめよ」

驚きのあまり詩が途切れた。気の遠くなるほど長い年月の末に自由になったシュウレが再び自ら神籠石に戻るという。アシュラが呆気に取られたまま動けぬで居ると

「痛みはない。精霊である」

シュウレ自らが剣先を持ち上げ自らの胸に導くではないか。

「封ぜられた風を使役する事は叶わぬ」

神籠石に封ずれば、ピレの風は神域の外へは出られない。精霊を使役する術に逆らい、この雨雲を吹き散らす風を止められるというのである。

「…モルダに使われているのではないのか?」

泣きそうな声で聞いた。

「そうではある」

シュウレは不思議な笑みを浮かべた。アシュラはなおも躊躇った。風がおさまれば攻め入るモルダを退ける事が出来る。風がおさまれば、村に以前の暮らしが戻りさえする。確かにアシュラはそれを願ったけれども、シュウレは…。

「どうして…?」

アシュラに話しかけたシュウレ。共に過ごしたシュウレ。かつて人に欺かれ、自由を失ったシュウレ。たった一人の友達。なぜこんな自分にそれほど優しくするのだ。温かな苦しさに押しつぶされそうでアシュラは呻いた。

「精霊はそのままにありてあるもの。人は違う」

シュウレとアシュラは雨の剣の長さの分だけを隔てて向き合っていた。雨の剣が二人を繋ぐ。うろたえ、今にも泣き出しそうなアシュラにシュウレは微笑みかける。

「人は無謀にも己に抗う。精霊はその思いの健気さに動かされるのよ」

ああ、そうだ。出会ったのは森で一人剣を振るっていた時。賊を追い払ってくれたのは母を救うために禁を犯した時。アシュラが自ら流れに飛び込む時にシュウレはその手を差し伸べる。込み上げる記憶に震えるアシュラをシュウレが促す。その剣の切っ先がシュウレの胸に沈まんとするのを、アシュラは咄嗟に引き抜こうとした。シュウレの手がとどめた。

「愛し児よ」

怯むなとアシュラが焦がれた目が告げた。世界が滲みぼやけてゆく。何かを選ぶという事は何かを選ばないという事でもあった。全てを手に入れることは出来ないのだ。生きる事は切ない。だが、アシュラはもう決めてしまった。

「汝が思うところをなせ」

目を閉じたままアシュラはその手に力を込めた。声を殺して泣きながら、アシュラはシュウレに詫び続けた。村長と司祭にそれを命ぜられた時は傷一つ付けられなかった岩に剣が突き刺さる。体の重みをかけて剣を岩に埋めてゆく。シュウレが剣ごとアシュラを包み込んだ。触れ合う事の叶わぬ人と精霊の垣根を越えてアシュラはシュウレに抱きしめられていた。いつの間にこんなに涙もろくなってしまったのだろう。歯を食いしばっていなければ嗚咽が漏れてしまう。優しくも厳しい世界の中で、アシュラとシュウレは原初の時に一つだった事を思い出していた。雨の剣はその柄を神籠石にぶつけ、アシュラは深くピレの風を封じた。

 風が止んだ。そっとお互いから離れて共にピレを仰ぐ。アシュラは深く息を吸い込んだ。ヌンよ。この声を聞き給え。アシュラは詠った。見る間に雲が掻き集められてゆく。どちらともなく手を繋いだ。繋ぎあった手は親しみ、和みあう。音声が伝う。ピレの彼方に届けよと旋律が響く。アシュラの中のヌンは澄み渡り、か細い流れは海のように広がってゆく。かつてこの世に生れ落ちた、小さな小さな一欠片の想いを乗せて。世界よ、ありがとう。

 そして最初の一滴がピレに降った。


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