17
夜明けを待たずに母は逝った。野辺送りに出たものは少なく、棺の担ぎ手の足りぬ分は村長が自ら担いだ。アシュラはうな垂れてそれについていった。付き添ったのは最期まで母の面倒を見てくれたニレの母とニレだけだった。他の者は、司祭さえも来なかった。何故か明け方からは風が弱まり、この間にと村の者は麦を蒔く準備を急いだ。母がそれを祈ったのからか、風が母を悼んでいたのかは分からない。神域の外れに村の墓所がある。村の者で亡くなったものは皆ここに埋葬される。花の咲く季節だったが、昨夜までの風に花弁を残した花は一輪も無く、捧げる花もなかった。アシュラはそれも自分の所為だと思った。母の棺に土を被せる。司祭に代わって村長が母は土に還ったと述べた。土の山に向かったまま動かなくなったアシュラを誰も急かさなかった。村長はニレに一緒に戻ってくるよう命じて戻っていった。ニレもまた、ただ待った。昼を過ぎても動かぬアシュラにニレは言った。「そこの木の下に居るから」木の根の股になったところに座り込んだニレは待つうちに眠り込んでしまったようだ。寝息が聞こえている。アシュラは土の山を前に言えなかった言葉を捜し続けていた。尽きぬ泉のように溢れ、持て余すほどだったアシュラの中身は何もなくなっていた。暗く底知れず深い虚ろは何一つ生み出さなかった。だから返事はなかった。荒れ狂っていた風が嘘のようにさわとふいていた。傍らに気配を感じて顔を上げるとシュウレが立っていた。
「母が逝ったのだな」
アシュラは山に目を戻して頷いた。もう一度話をしながら歩きたいと思っていたのに何の感慨もわかない。アシュラは一人だった。風は穏やかに吹いていた。
「神籠石に戻ったのか?」
誰がそれを訊ねたのか分からぬほど関心の無い声だった。
「まさか」
戻る筈が無い。
「だが、吾を解き放った事で難儀しておるのだろう?」
どこか遠い所でシュウレが逃がしてやろうと言ったのを聞いた。
ふらふらと歩き始めたのはいつだったろうか。自分でも覚えていない。村の方へは戻らず、アシュラは何処へともなく歩いていた。うっすらと気が付いた時には門ではなく、森を抜けて村の境界を外れていた。いつの間にか雨が降っていた。霧のような雨だった。歩いていたから歩き続けていた。それはアシュラの来し方と似ていた。夜が来て、また陽が昇る中歩いていた。降り続く雨の所為か渇きはしなかった。それを有難く思うような考えはアシュラには残っていない。ただ自分が無くなるまで歩き続けなければならないと思った。それ以外の事はどうでも良かった。アシュラを連れ帰らなかったニレが咎められたかどうかは分からない。が、この天気の中、人手を割いてアシュラ一人を探すような事はしなかっただろう。森を抜ける時に狼や熊に食われなかったことも意識に上らなかった。唐突に馬車が通れるほどの道に出たとき、それが脇街道であろう事は分かった。道などやはりどうでも良かったが、ただ歩いた。そのうち何度も転ぶようになった。ぬかるみに足をとられ、草に躓き倒れた。倒れていては歩けぬから、起きてまた歩いた。長靴がいつ脱げたのかアシュラは覚えていない。気が付くと片足だけ脱げていたのだ。邪魔なのでもう片方も脱ぎ捨てた。降り続く雨に服は濡れそぼち、重くアシュラを包んだ。またいつの間にか道を失って草の中を歩いた。昼が来て夜が来た。飲まず食わず、休まずに歩き続けた。そうしてついに草叢に倒れた。もう起き上がることが出来なかった。アシュラは倒れたままでいた。腐った林檎がすぐ側に転がっていた。何処かの果樹園らしいのは分かった。林檎の木が立ち並んでいる。この雨が上がって果樹園を見に来た人が転がった子供をみつけて驚くだろう。雨が倒れたアシュラを打つ。雨だか涙か分からぬ物が一筋頬を流れていった。
(逃げ切れなかった…)
シュウレはアシュラを哀れんで逃がしてやると言ったけれども、そんな事は出来なかった。「いつか」も「どこか」にも辿り着く事は出来ないのだ。魂が鳥になって渡って行くこともない。この身のままに朽ち果てるだけ。どれほど歩いても、
(この私からは)
自分からは逃げ切る事は出来ない。生まれてこの方、ずっと流されてきた。ただ流れのままに漂ってきた。澱みに浮かんでは僅かな清さを求めて喘ぎ、瀬に岩に向きを変えながら流されてきた。流れは向きを変え、時に穏やかに、時に激しくあったけれども、その流れの果てがここだった。流れ着いた先がこれでは何の意味もない。全てが無駄だった。苦しい日々を耐えたことも、母が多くを捨てた事も、神素に恵まれた事も、どこかに憧れた事も、シュウレに会えたことも、この世界にとって自分は
(無駄だった)
全てはアシュラを遺して流れ去ってしまった。アシュラが選べる物は何もなく、何かを選ぶ事さえ億劫だった。死とはもはや選ばぬ事の謂いである。世界が霞んでゆく。この苦しみを抱えたままアシュラは暗く寒く寂しい所へ行く。いつもそこにあったピレをうつらうつらと眺めた。
と、ピレの頂が光った。
ぼんやりとした頭で訝しく思う。雨雲は薄く、煙りながらもピレは黒々と夜空を占めている。雷のようではなかった。ではあれは何だろう。月は方向が違う。雲を透かした明星か、いや、この季節にあの高さにはかからない。見間違えか。一つ、また一つピレの頂に輝きが灯った。そしてそれは唐突に消えた。もう間違いようが無い。ピレの頂には人が居る。
(モルダだ…)
十二年前と同じ、ピレの頂を越えてモルダが攻め入ってくるのだ。この雨の中ピレを眺める者などないだろう。村の者は気付かずに居る。それを知っているのはアシュラだけ…。虚ろな中で何かが蠢いた。このまま腐れ果てるアシュラには関わりのない事の筈なのに。
(ヌンレ…)
虚ろの底で身動ぎするのは記憶の欠片たちだった。ヌンレの暮らしは決して豊かではなく、厳しい物だったが、それは美しいものだった。打ち寄せる波のような金の麦の海。ピレの頂に朝陽が昇り、その雪冠の銀に輝く瞬間。せせらぎの音にかかる虹のきらめきを。雪を割って芽吹く緑が春よと叫ぶ。木漏れ日の中を木霊が…。例えようもなく心震える様が数多精霊のさんざめく姿と共に母の唱える詩にのって甦る。
(母さんが愛したヌンレが…)
甦る日々とかけ離れた暗い静けさの中で、ふと気付いた。ヌンレの暮らしにいつもあった精霊の姿が、アシュラの横たわるここにはない。良く覚えては居ないが、歩いていた時も一人だった気がする。
(…精霊にまで厭われたか)
散りつつある意識を無理にかき集めて目を凝らした。するとようやく精霊の姿が朧に浮かび上がってきた。精霊たちは夫々の場所から静かにアシュラを眺めていた。精霊が居なくなったのではない。アシュラがその心を閉ざした時から、精霊は姿を消したのだった。また遠のく意識にその姿が霞み、また戻る。精霊たちは無言のままアシュラを見つめていた。アシュラが失意のままに全てを諦めてしまうのを見届けようとしていた。ここに至ってなお精霊が自分の側にあるのが不思議だった。
(何故、こんな私を…)
アシュラは本当はその答えを知っていた。
始まりの神は全てのものを生み、己を分け与えてのたまった。「かくのごとくあれ」太陽も月も等しく、全ては始まりの神の創り賜うたように。だから全てのものには神素が宿る。精霊はそれが凝り固まったものである。神素も精霊ももとは一つの物なれば、別れた末も惹かれ合い、馴染み、和みあう。この世の全ては神素を通じて世界と繋がっているのだ。大巡検の場において、アシュラは確かにそれを見た。
「汝は世界の一部である」
シュウレの声がそれ告げる。
そしてアシュラもまたこの世界の一欠片だった。あの厳しくも美しい世界の一端だったのだ。込み上げる嗚咽が疲れきった身体をうち震わせた。
(ああ…)
ヌンレでのどんな記憶にも精霊の姿があった。いつも、どんなときも精霊はアシュラの側にあり続けていた。馴れ合わずとも、お互いを認め、共に暮らし、過ごしてきた者たちが居た。アシュラが求めずとも、世界はそこに在り続けてくれた。勝手に生れ落ちて、勝手に生きているものなど何一つない。
(…愛されていた)
母に。精霊に。世界に。遍くものは愛されている。こんな小さな自分さえも。アシュラはそれに気付き得るだけの恵みを得ていながら、それを見ようとしてこなかったのだ。なんと愚かだった事か。全ては目を凝らさねば見えなくなった精霊と同じ。何ものも見ようとしなければ決して見えない。後悔というには重過ぎる涙が見開かれた目から滂沱と伝う。
(私は愛されていたのに…)
村人からの蔑みに母さえも信じられなかった。苦しまぬよう感じる事を止め、ただ耐えるだけだった。周囲の流れのままに漂って、今や何も選ばぬ場所へその身を曝している。無駄な命だったのではない。アシュラは死んだようにしか生きてこなかったのだ。愛されていたのにアシュラは何一つ応えなかった。生きてこの世にありながら、
(何一つ選ばなかった)
諦め、この流れの中で足掻く事さえしなかった。ただ身体を生かすために食み、耐えて、過ごしてきた。世界に報いて、何かを返した事などなかったのだ。怠惰こそがアシュラの罪だった。しゃくり上げる力もなく震え、振り絞るように顔を歪めて己を悔いた。天の涙がアシュラに降りかかる。今更それに気付いても…。
(…いや)
天はいつかと同じ様に声なき声を上げていた。それはひび割れた記憶の欠片の幾つかにも届いた。涙に濁っていたアシュラの目にじわりと光が灯る。
あった。
アシュラもこの流れに抗った事があった。何の役にも立たぬと知ってなお続けた剣の真似事。自ら選び、課し、続けたあれは、あれだけは確かにアシュラが生きていた時間だった。かつて間違いなくそれはアシュラにもあったのだ。
その目が再び世界を捉えた。
ピレはそこにあった。
(まだ)
降り続ける雨の向こうに黒々と聳えるピレは、危うくもまだアシュラがここに留まっている事を教えた。精霊たちが見ていた。アシュラが何を選ぶのかを。
(終っていなかった)
どれほど願っても、この命を差し出しても、母が還る事はない。過ぎ去った過去をやり直すことも出来ない。だけれども、倒れ臥したまま指一本動かぬ身体で何を、とはもう思わなかった。叶う、叶わないではないのだ。取り戻した記憶が意志を呼び起こす。流れを変える程の事は出来ない。しかし、このまま流されてなるものか。己に命じた。抗え。真に何も選ばぬものに成り果てるまで、選び、決め、それをなし続けるろ。逃れる術などないこの身のままに。
(生きろ)
それがアシュラの命が無駄ではなかった証であり、アシュラを愛してくれた世界へ応える方法だった。アシュラは残りの命の使い道を決めた。
(村にモルダがピレを越えたと知らせるのだ)
優しくはない村だった。もはや母はおらず、吹き荒れる風に人の住めぬ地に成り果てた村だ。だがそれを運命のままに見過ごしてならないと思った。抗うのだ。一度できた。もう一度出来ない筈がない。アシュラは再びの流れをしかと見据えた。
決意と共にアシュラの中に神を寿ぐ声が甦った。それは母の声のようであり、神事の夜の巫女や村人達が唱和する声であり、アシュラ自身の声だった。幻の音声は響き渡り、アシュラを叱咤する。だが、一度失われかけた命は心もとなく、身体は言う事を聞かない。手を伸ばす。届かない。僅かに身体を持ち上げて這う。指先が腐った林檎に触れて林檎が逃げた。諦める事など出来ない。震える心で祈る。
(来い)
梢に溜まった雨がざざと音を立てて振った。腐った林檎を打ちつける。林檎が転がる。アシュラの手の中に。アシュラはその林檎をのろのろと握る。耐え難いほどの重みに耐え口元へ運んだ。食うのだ。食って動ける身体を取り戻さねばならない。口が上手く動かぬのがもどかしい。固まった顎と戦い、ようやく飲み下す。暫く振りの食べ物だった。禄に噛まずに飲み込んだ林檎が胃の府に落ちてゆく。腹の中に火が灯るように感じた。それが身体に伝わってゆく。無理にでも食わねばならなかった。黙々と食い続けた。終いには貪るように食い、土を握るようにして上半身を起こした。落ちていた林檎をもう一つ手に入れこれも食った。そして立ち上がると手を伸ばして腐っていない林檎をもう一つ食った。口を手の甲で拭う。雨で濡れた全身に力が戻っていた。まだ膝が笑っているのは仕方がない。傷だらけの足を見下ろす。これまで少しも痛く感じなかったのに今更足は悲鳴を上げていた。それもまたいい。そう思った。顔を上げる。アシュラを見守り続けていた精霊たちに頷いてみせた。
(世界よ)
自分を愛するものたちへ。
「願わくば、我と我が身のなす事を」
御照覧あれ。その視線は確かに絡み合った。アシュラは村の方角を見定めた。随分と遠くまで来てしまったようだ。だが、当てもなく歩くのとは違う。真っ直ぐに、村を目指してアシュラは走り始めた。