16
いつ朝が来てまた夜になったのか分からぬ日が何日か過ぎた。天上の扉が開いて梯子が下ろされた。ニレではなく村長だった。
「上がって来い」
やっと風の館から裁定が届くのかしたかと思いきや、村長はアシュラをつれてアシュラの家へ向かった。長く動かなかったのでふらつくアシュラを気遣いながら村長は歩いた。家ではニレの母が出迎えた。その奥に母が臥していた。母はやせ衰えていた。
「母さん…」
もういけないのだとアシュラにも分かった。だからアシュラが呼ばれたのだ。母の枕元には家神が居た。家神は家人が死ぬ時に戸口まで送り出すのだという。それは枕元近くに立っていた。ひざまずく。母がうっすらと目を開けた。
「アシュラ…」
やつれて節くれだった手に触れた。その手は壊れてしまいそうで握る事も出来ない。常しえなる物など何一つとしてないのに、アシュラはどういう訳か母はずっとここに居るものだと思っていた。全てを悔いた筈なのに、アシュラは再びうな垂れた。くだらない諍いの一つ一つが胸のうちに甦ってくる。何故詩を疎かにしたのだろう。何故勉学に励まなかったのだろう。それを母が望んでいた事は知っていたのに。ただ朗らかに日々をすごし、母に笑いかけることさえしなかった。こんな日が来ると知っていたのなら、もっといい娘でいたのに。
「母さん…」
それ以上に、モルダの血を色濃く引き継いだアシュラはこれまでどれほどこの母を苦しめたか。
(こんな姿で生まれてきてごめんなさい)
だが、アシュラがそう言えば、母は必ずそれを否定する。そして母はアシュラの荷物を一緒に持ってゆくために詫びてくれる筈だ。自分が楽になるためだけにそんな言葉は言えなかった。そんな狡い謝り方だけはできなかった。喉元まででかかるそれを知っているかのように母は頷く。長い長い息をついて母はアシュラに部屋の隅にある櫃を開くように言った。晴れ着や大事なものが入っている櫃だ。言われるままに奥底に隠されたものを取り出す。それは鎧の首当だった。銀の地に輝く透明な石が三つもはめ込んである豪奢な物だ。売れば一年も暮らせそうなほどに高価な代物が我が家にある事をアシュラは知らなかった。更に続いた言葉には耳を疑った。
「それはお前の父が遺した物です」
アシュラに四つとも神素が揃っているのだから、黒い姿と共にそれをアシュラに分け与えた者が居るのだろう。しかし、アシュラの父親はヌンレに災厄をもたらしたモルダであった筈だ。母の家族を殺し、奪い、駆け去った筈。その男が忘れたのではなく、何かを遺すとは。
「幾度も便りを貰いました」
まさか。便りと言っても手紙や人づてにではなかった筈だ。そのようなものをアシュラは見た事がない。
「風の技でありました。あの人は風の三位でありました」
母の答えに村長が呻く。
「カルダの占領軍の指令は風を自在に操る三位、嵐神と呼ばれているそうだ。嵐神は鎧の首当てをつけない。何処かの戦役で失ったまま直そうとはしないのだと聞く…」
それがここにあった。手の中の黒ずんだ銀の塊に目を落とす。嵐神はそれがここにあるから、いつかそれを再び一つにするために直さないのだ。母もまた、どれほど貧しい時もそれを手放す事は考えもしなかった。
(それでは…)
母は娘のように微笑んだ。
「あの人は敵でありましたが、悪い人ではなかった」
苦しい息の中にも穏やかな母にアシュラは打たれた。母は首まで不幸に浸かった人生を喘ぎながら過ごして来たのだろうと決め付けてきた。奪われ、亡くし、失うばかりの日々を愚かしくも耐えるばかりの無力な人だと思っていた。母はアシュラにも同じ物を求めているのだ思っていた。だから母には決して自分の想いなど分かりはしないと思っていたのだ。
(…何も分かっていなかったのは私だ)
かつて出会い、何事かを語らい、そして別れても待ち続けた、そんな母の来し方をアシュラは微塵も想像しなかった。敵であるモルダと通じているとは夢にも知られてはならなかった筈だ。その娘にさえ何も言わずに来た。そこにどれほどの苦悩があったのか。アシュラは母が何を考え、何を決めて人生を送って来たか尋ねるどころか、ただの一度も思い巡らせもしなかったのだ。己の無明に打ちのめされてアシュラはただ悔い震えた。
「お前が半を受けられなかった時、一度はヌンレを捨てようと思ったのです」
モルダの将校であったアシュラの父からは二人を呼び寄せる便りが幾度もあったのだという。半祭の屈辱の後、母はそれを決めた。母はアシュラを連れてカルダへ向かうためにシェアの街まで出た。アシュラも記憶するあの時のことだ。あれは村を捨てる覚悟であったのだ。
「もっと早くにそれを決めていたら」
だが、あの頃、戦況が変化した。カルダは市民の蜂起によって一時的に奪還されたのだ。戦況は変わり続け誰にも先が読めなかった。母はアシュラと共に村へ戻った。
「ここではなくシェアや王都で暮らすことを考えていたら」
目を閉じた母はあったかもしれない「もしも」を苦しげに数える。
アシュラにはずっと母に聞きたかった事がある。どうしても聞けなかったことがある。
(母さん、私が母さんを不幸にしたのではないですか?)
いいえと答える母の目に僅かでも嘘を見つけるのが怖くて聞けなかった。この母を自分が苦しめている事を認めたくなかった。日々の暮らしの辛さに負けそうになる時、諦めた夢の華やかな香りを思い出した時に、この世に産み落とした生を母は疎ましく思うのではないかと怯えたのだ。憎い筈のモルダの姿。アシュラの存在は母の人生を踏みにじった証。生きている事を疎まれる前に、母と話すのをやめ、母を避けてきた。
「母さん…」
誰に疎まれても、この母に疎まれたくなかったから。だが、アシュラの中に居座り続けていた問いは無意味な物だったのだ。なんと馬鹿馬鹿しく、なんと愚かだった事だろう。
「アシュラ、もしもあの人に会うことがあったら、私はもう待てなくなったと伝えてちょうだい」
母がこの時にそれを語ったのは、アシュラの問いを感じ取っていたからだろう。母は知っていたのだ。
「母さん…」
愚かで卑屈な娘がこれ以上苦しまぬために、この時にそれを教えた。食いしばった歯から漏れるアシュラの想いは言葉にはならない。もう母に語らせてはいけない。それだけは言わせてはいけない。母は芥子粒ほども悪くないのだから。ああ、だから、もう。
(言わないで…)
家神が手を差し伸べた。
「ごめんなさい。アシュラ」
この流れの中で留まり続けるものなど何一つとしてない。