15
賊に襲われた村にしては被害は小さかった。門衛の若者が一人死んで、何人かが怪我を負っただけだ。撒き散らされた財貨は集められ、元の持ち主に返されたし、税も払う事が出来そうだった。狗人らは咎人として郡都へ移送された。死をもって罪を購うのかもしれないし、奴隷にされるのかもしれない。巨人は傷ついたまま北へ逃れたという。いずれにしてもそれを止める事が出来る者はいなかったろう。
母の容態はいけなかった。起き上がるのもやっとで、食べた物もすぐに戻してしまう。顔はどす黒く時折血を吐いた。石の下になったときに悪い所を打ったのだ。腹の中が傷ついているのかも知れないということだった。何人かの村人が怪我をした母を介抱し食事やヤギたちの世話を手伝おうと申し出てくれた。「あんたのお陰で娘を連れてゆかれずに済んだからね」「冬が越せるよ」「たった一人の家族を傷つけられて可哀想に」皆がそうして声をかけてくれるのがアシュラには不思議だった。
(私の何が変わったというのだ)
全き者への遠慮という裏返しの蔑みは影を潜めた。まるで急にアシュラが黒い子供ではなくなったようだ。母の代わりに村の仲間を手にいれたようなもので、優しい言葉をかけられれば、嬉しくなる自分にアシュラは苦しんだ。
それで終わりにはならならなかった。ピレから吹き降ろす風が一向に治まらぬのである。人を衝き転ばすほどの風が吹き荒れ、家畜を外に出す事もままならない。もう麦を蒔く時期が来るというのに。そうして村人は気付いた。アシュラが神籠石の封を解いたがために、風の精霊が自由になったのだ。かつてそうであったとの始祖の話のままに、ヌンレは人の住めぬ土地に戻っていた。アシュラの元を訪ねる者が絶えた。そして村長が来た。
「付いて来い」
と言う。ニレの母を伴っているのは、暫しの間アシュラと看病を変わるという事だ。アシュラは黙って村長に従った。
村長と向かったのは神域の森である。横っ面を張り飛ばす勢いで風がふく。シュウの子等が駆け巡っていた。背を丸め、つき転ばされぬように重く歩く。道すがら村長はアシュラに語りかけた。
「お前は始祖の話を知っていようか?」
アシュラは小さく頷いた。村長は独り言のように続けた。
「その昔、我らの祖先は安住の地を求める旅でここに辿り着いた」
その頃のピレは今のように間断なく激しい風を吹き降ろしていた。強い風のために木も大きくは育たず、草ばかりが生える土地であったという。それでも水があった。雄大なるドーバに注ぎ込む小さな流れがピレから続いていた。流れは細く頼りなかったが、冬にも凍らぬ川だった。始祖は風如きでこの地を諦めるのは惜しいと思ったそうだ。
「始祖は水の全き者であったそうだ」
始祖はヌンと語らい、風を治める手立てを計った。
「始祖は風を祀ると称してピレの風を呼び出し、その御前で剣舞を舞った。持っていたのは雨の剣だ」
ヌンの技で鍛えたという雨を降らせ水を静める剣だ。
「水は大地の欠片たる岩と相い高め合う。水に親和する風は事がなるまでそれに気付かなかったという」
そうしてピレの風は神籠石に封ぜられた。以来、ピレの風はヌンレの暮らしを見守り続けている。シュウレを騙した全き者の始祖は封ぜられた風と何を語ったろう。同じ全き者のアシュラをシュウレはどう思っていたろうか。ただ、シュウレはもはや帰ってくるまいとアシュラは思った。つまりはこの吹き荒れる風を止めることは出来ないということだった。
神域の広場にいたのは司祭だった。神籠石の前にはあの雨の剣が横たえられていた。
「再びピレの風を封じなければならない」
そうすれば村人を悩ませる風が和らぐだろうと。今や村人を困難に陥れているのは賊ではない。ヌンレの村を滅ぼそうとしているのはアシュラの行いだった。失われつつあるのは母だけではないのだ。この場所の全てが終る。
「精霊を岩に繋ぎとめるのだ」
村長がアシュラに命じた。だがどのようにしてそれをなすのかアシュラは知らなかった。アシュラは首を横に振った。
「精霊がいません」
シュウレの姿は何処にもなかった。岩に封ぜられるのが分かって出てくる筈もない。司祭は愚弄されたかのように怒った。
「分かっておるわ!呼び出せ!」
無駄だと思った。それでもアシュラは命じられたままにシュウレを呼んだ。
「シュウレ」
小さな声で。
「懸命に叫べ!」
「シュウレ」
アシュラに応える声はなかった。神域の森を揺らすのはシュウレではない風の子ばかり。シュウレは現れなかった。
「お前をこの岩に磔にしてやろうか。そうすればピレの風も黙ってはおるまい」
息をまく司祭を村長が宥めた。
「仕方がない。王都には早馬を出してある。じきに巫女が遣わされよう」
「それでは遅い!それにこのモルダめは風の館の禁を破ったのだぞ。罰を受けて当然、いや村人にしめしが付かぬわ!」
「ならば尚更風の館の裁定を待たねばなるまい」
村長が司祭を黙らせた。アシュラを従えて村へ戻る道すがら村長は言った。
「お前に何もせぬのでは司祭ばかりでなく村人も納まるまい」
分かっている。寧ろ司祭が言うように神籠石に磔にして欲しかった。
「お前を牢に籠める。これはお前が村の者に害されぬようにするためでもあるから、大人しく受けよ」
村長が司祭のように罰としてそれを与えたがっているのではない事はアシュラにも分かった。
「なぜ私に優しくするのです?私が全き者だから?」
全き者であること以外にそうされる理由など思いつかなかった。
「お前にとってのこのヌンレの村はそのようなところであったか?」
答えは必要なかった。
「そうであったな」
そうしてアシュラを母の臥す家ではなく、半分崩れ落ちたままの村長の館の地下にある牢に籠めた。
村長の館にこのような地下牢があることをアシュラは知らなかった。元は酒倉だったというそこは重い木の扉が天井につき、梯子で上り下りするようになっている。梯子を外してしまえば上へ上がる事は出来ない。どの道アシュラは逃げ出す気などなかった。母の容態が心配ではあったが、アシュラがおらぬ方が母の面倒を見てもらえる事はアシュラにも分かっていた。そうして原初の時のような暗闇で膝を抱えて蹲っている。岩に封ぜられたシュウレはこのような感じだったのだろうかと思う。この地下牢は村の内で罪人が出た場合や従わぬ奴隷を籠めるのに使う事もあるそうだ。ニレが教えてくれた。ニレはアシュラに食事を運ぶ役を言い付かっていた。腹など少しも減らなかったが、食い終わるまでニレが居るので食べなければならなかった。ニレは他の村人のように、或いはこれまでそうだった様にはアシュラを詰ったりいたぶったりしなかった。「全き者だなんていい事ないな」寧ろ慰めるような事を言う。そうして精霊の技はどのようにして使うのだとか、雨の剣は触れても痛くないのかだとか返事もせぬのに喋る。「お前を苛めたのはさ、そうしないと俺がやられるからだよ」村の内で最も貧しく身分の低いニレは言う。ニレが何を思ってそう言うのかはアシュラにも分かった。アシュラはもうニレの盾にはなれぬからだろう。風はまだ収まらない。風の館からの返事もまだだ。流れの果てはこのような場所であったかと、アシュラは膝に顔を埋めた。