10
月が降り注ぎ、アシュラを包む。その胸に流れるのもまた月の詩だった。彼方からは神を寿ぐ声がする。森へ入ってアシュラは気付いた。森の精霊たちが流れるように一つ方向に向かっている。動けぬ精霊たちもまた皆同じ方角を向いているではないか。あの老人の木までが目を見開いているのに息を呑む。精霊が向かっているのはアシュラが目指す方角だった。微かに届く旋律の方角。
(精霊が人の声に耳を傾けている!)
鳥肌が立った。人の祈りが世界に届くとは。これまで神素などどれほどの物かと軽んじてきた。間違っていた。詩は神と精霊をを動かしていた。
(私達は神素で世界に繋がっているのだ)
世界を揺り動かす音声に、世界に満ちた神と精霊にアシュラは慄いた。精霊たちは高く低く詠う声に導かれ、アシュラを掠めてゆく。暫し呆気にとられていたアシュラも再び旋律の方角に踏み出す。無数の精霊を従えるようにしてアシュラは神籠石を目指した。
随分と大回りして神籠石が見える場所に出た。神籠石の周りをめぐらすように篝火がたかれ、ひしめく人々の上を火影が踊る。火は風を起こす。大巫女の力が弥増すように火は栄え続けている。神籠石の前に祭壇が設けられていた。奉納された品々が溢れんばかりに積み上げられている。聖なる音声は豪雨のように降り注ぎ、大海のように満ちる。アシュラもその渦の中に飛び込んだのだ。草陰に身を潜めた。神籠石の前に膝をついて並んだ巫女たちの詠唱が続く。集まっていたのは人だけではない。無数の精霊が神籠石を囲み飛び跳ね詩の旋律に揺れている。詩が言葉が旋律が世界を包む。月が中天に差し掛かる。この世の理は今ここにあった。その韻律に飲み込まれたアシュラも奔流に飲み込まれた木の葉のように魂を揺さぶられ、昂ぶりに総毛だった。体中が耳になったように瞬きも忘れて荘厳なる音声に身を浸している。夕暮れに始った神事は佳境を迎えていた。
(これが神素の力)
アシュラの魂は怖ろしさと、激さと、昂ぶりではちきれんばかりに膨れ上がっている。精霊たちが無音のままに跳ぶ、叫ぶ。大巡検、精霊を鎮め祀る神事は叩きつける滝のように荒々しく、厳かに神域を支配していた。風の館の巫女たちが詠う。風の神を称える詩だ。神域の夜気が震える。詠っているのは巫女たちだけではない。堂々たる巫女たちの声に村人の唱えるヌンの詩が溶ける。ヌンレの村にとっては風ではなく水が恵みであるからだ。風の詩と水の詩が掛け合い、絡まり相まって流れてゆく。アシュラの身体の奥底からも詩が溢れ出しそうだ。眼前のあの人々に混ざって声を上げ、始まりの神と繋がり、世界を揺さぶりたい欲求を押さえ込むのにアシュラは必死だった。
神籠石の前には一人の小柄な巫女が立っていた。顔を隠す垂れ衣を被っている。
(あれが大巫女様だ…)
衣装はほかの巫女らと変わらぬが、小柄な身体からは大気が波を起こしたような気迫が溢れ、一目でアシュラにもそれと分かった。さらにアシュラは信じられない物を目にした。
(シュウレ…)
神籠石の上にシュウレが腰を下ろしているのである。なぜあのような振る舞いが咎められぬのか、いやあれも神事の一環なのか。禁を破っているのはアシュラの方なのだが、怖ろしくて仕方がない。全ての目が食い入るようにシュウレと大巫女を見つめていた。大巫女が口を開き、それにシュウレが受け答えしているようだ。その声はアシュラまで届かない。シュウレは神籠石の上に腰かけたまま、時にそっぽを向いてやり取りをしている。もう声をかけることもない姿だった。やがてシュウレの姿が神籠石の裏手に消えると、巫女の一人が鈴を鳴らした。全ての詠唱が弱まってゆく。吸い込まれるような喪失。
(終ってしまうのだ)
聖なる時間が終わる事はアシュラにも分かった。一人大巫女が祝詞をあげはじめた。その力強い声だけが残り、それも終息して篝火の爆ぜる音と木々のざわめきだけになった。世界とのつながりは薄れ、精霊たちが散ってゆく。潮が遠のくように高揚が萎む。もはや溜息しか出ない。大巡検が終ることをアシュラは酷く惜しんだ。神事の光景に圧倒されたまま動けないアシュラをよそに物事は動いていた。
聖の後は俗の慣わしが支配する。村長が前に進み出た。
(…ああ)
それはアシュラも見たことのある光景だった。村長の仕切りで前列の者が立ち上がる。聖なる十二歳の半分の年齢になる子等だ。
「かの者ら、初めて巡検に合間見える者に候」
それぞれの村の司祭も前に出る。
(半だ…)
大巡検は幕を閉じ、そのまま半と環の場へ移ってきたのだった。子供らにまだ肩布はない。少しばかりの緊張と晴れがましい顔。居並ぶ巫女の前で夫々の村の司祭が子供らの新な神素を判じて見せる。「水に候」「風に候」願ったとおりの神素を得れば、子供の顔がパッと輝く。六年前、アシュラもあの場に居た。アシュラには与えられなかった恩恵が子供らに引き渡されてゆく。二度ほど常の年にないことも起こった。ヌンレの司祭の判じに年かさの巫女が袖を引き
「その者は火を得んとしている」
訂正が入ったのだ。近隣の司祭が呆れた顔を向けた。それ以外は常の年と同じだった。子供らは授けられた判じを胸にしまう。半の子供らの列が減ってゆく。そして
(環だ…)
祝詞が始った。村々の司祭に巫女らが和する。大人も子供も至った時を祝福せんと待ち構える。立ち上がったのは今年成人になる者たちだった。夫々の家系の肩布をつけて、金糸銀糸の腰紐に石が煌く。その姿よりも半の者とは桁違いの緊張でそれと分かった。半と環とが違うのは神素が良き揃い方をしたときに恩恵を宣言する所だ。
「土の対に水の相乗にございます」
「この者は風の対でございます」
司祭らが誇らしげに告げる。神素の判じを終えると腰を下ろすのは半と同じ。一人また一人、列が減る。この後の事をアシュラは知っていた。始まりの四つの神を讃える詩で環は幕を閉じる。そして宴だ。楽器の入った音楽と歌に踊り。食べ切れぬほどのご馳走と酒。環を迎えた者が輪になり廻り踊ってみせる。それに未婚の男女が加わり宴は夜更けまで続く筈だった。晴れやかな顔の子供らとその家族が笑い声をあげ、環に至らぬ者も終えた者も感謝と喜びの時間を共にするのだ。アシュラの受けられなかった環が終ろうとしていた。列の最後の一人まで判じが終っても、アシュラの名が呼ばれる事はなかった。
(終ってしまう…)
一度向きを変えた流れは戻ってくる事はない。全てはアシュラと関わりなく流れ去ってしまう。大巡検の神事が終った後に早々に立ち去らなかったことをアシュラは悔い、俯いた。今年の終わりを告げる詩が、
(調和の詩が…)
なかなか始らなかった。アシュラも顔を上げた。どうしたのだろう。
「村長よ」
大巫女が村長を手招きしていた。聴衆を向いた大巫女の声はアシュラにまで届いた。
「…何でございますか?」
環の列は終っていた。今度は訂正ではない。皆の目が大巫女を見ていた。
「村人はこれだけではあるまい」
確かに幼き者やその母、病人など祭事に参加できなかった者もいる。それがどうした言うのだろう。皆の目が問う。大巫女は言った。
「神籠石に悪さを仕掛けた者がおる筈だが、この場におらぬようだ」
その言葉に血の気が引いた。
(私だ)
草陰に身を潜めたままのアシュラの背を脂汗が伝う。近々において神籠石の禁を破ったのはアシュラだけだった。
(私が神籠石に触れたことを咎めていらっしゃる)
大巫女が言うのはそれ以外にありえない。よもやあの神事を取り仕切った大巫女にそれを知られていようとは。足の裏から這い上がった怖気は身体の中を駆け巡り、今やアシュラは歯の根が合わぬほど震えていた。
「この村の者以外に誰が神籠石に触れる?それともよそ者が出入りしておるのか」
どうしよう。逃げ出そうにも足がすくんで動かない。
「…あれだ」
司祭の呟きに息が止まった。村長がギョッとした顔を上げる。
「神域を汚した者がおります。神事に参加する事を禁じましたゆえこの場にはおりませぬ。如何様にも罰を」
もはや逃げ隠れできない。月が太陽のふりをしたのだ。環を見送る程度で許される筈がなかった。が、己の所業を悔いても遅い。ざわめく村人の中から母が立ち上がった。青ざめた顔に怒りも露に。
「アシュラは他の子供と同じように遊んでいただけです。罰など!」
喚く母を周りの者が慌ててとり押さえに掛かる。尚も大巫女に声を上げる母は数人がかりで地に伏せさせられた。
(母さん!)
乱暴に扱われる母の姿に悲鳴を飲み込むのがやっとだった。
(やめて)
叫び、抵抗を続ける母はそのまま引き遠ざけられてゆく。
(もう、いいから、かあさん)
大人しく従うよう願うアシュラの祈りは母には届かない。厳粛な声で大巫女が告げた。
「その者をここへ」
村の男衆数人が立ち上がる。はっとした。
(まずい)
固まっていた身体が溶ける。押さえつけられた母から目を放すのは忍びなかったが、男らがきたときに家にいないのではもっと困った事になる。アシュラは薮に飛び込み駆けた。このまま村を走り去りたかったが、捕らえられている母を思えば逃げる事など出来ない。森の中を走り畑をぬけ家までを駆け戻った。戸を後ろ手に閉めて息をついてから暫く、乱暴に扉が叩かれた。
「付いて来い」
「今宵、人目につくことも、神域に入ることも禁じられている」
息が乱れているのを気付かれぬように必死だった。
「いいから来い」
乱暴に腕を取られて、アシュラは再び神域へ向かった。