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 ハイファンタジーが読みたい/書きたい という事で投稿をしてみました。『はてしない物語』、『ゲド』、『指輪』、アーサー、ネシャン、エリンも……etc、ああいう世界観に浸りたい、描ければいいなと思っております。

 朝、日の出と共に寝床を這い出す。もう鶏とヤギたちは起き出していて声を上げていた。寝ていた立ち襟のシャツのまま東向きの窓辺に立って火の神、ラの子である太陽に詩を捧ぐ。今日一日を照らすラに感謝を述べるのだ。詩には音楽とまでは行かない独特の節をつける。強く弱く、低く高く、神を寿ぐ音声の中を掌ほどの大きさのラの子等が舞い降りてくる。陽射しの精霊は地に届く前にかすんで消えた。手早く髪を一つに括って、着替える。腰に巻くスカートは膝上でアシュラには少し小さくなってきていた。聖なる十二歳、大人の仲間入りを許される環に至れば女は足首までのスカートを履く。男なら裾広のズボンだ。アシュラは今年環を迎える。膝小僧を人目に曝して少しばかりきまりの悪い思いをするのもそれまでだ。さらに上から毛糸で編んだ半袖の上着を被って、長靴を履く。上着の袖口と襟周りに編みこまれた文様はこの地方特有の物で、夏もまもなくのこの季節には保温というよりこの村の者である証に近い。着替え終わると水汲みが待っている。

 台所に母の姿はなかった。きっと鶏小屋だ。昨夜残った水と餌を鶏達にあげて、代わりに卵を集めてくるのだ。アシュラは水桶の前で手を組み合わせて軽くひざを折った。ありとあらゆるものに始まりの四つの神が生んだ精霊が宿る。人の道具にもだ。水の神ヌンの子である水鏡の神や火の神ラの子である竈神、土中から掘り出された鉄や銅の道具類には土の神ゲブの子供たちが宿る。水桶の前でアシュラは詩を唱えなかった。アシュラの母は一々にその詩を詠むのだが、母が見ていないところではアシュラはそれを省略してしまう。実の所アシュラは世界のそこかしこにおわす神や精霊をあまり敬っては居ない。神も精霊も確かにあるが、それらは人間の営みに関係なくあるだけなのだ。話しかけても応えないし、触れることもかなわない。詩を捧げようがその振る舞いに変化はない。人は良き暮らしと安穏を日々に祈るが、その祈りを彼らが聞く事はないのである。となれば、好き勝手に居たり居なかったりする精霊など風景と変わらないではないかとアシュラは思うのだ。村の大人たちも決まった場合を除いて精霊などそこにおらぬかのように暮らしている。世の中には世界に多く愛された者もいて、祈りで精霊を使役するとも聞くが、常の者には祈りも詩も慣習であって、それ以上ではない。

 水桶と棹を担いで水場に駆けて行く。ヤギがアシュラを急かす音がしていた。ヤギの世話は主にアシュラの仕事だ。小屋の戸を壊されては敵わないから急いだ。ヌンレの村でも最も山よりのアシュラの家から水場は遠くない。なだらかに傾いだ畑の先は神域の森で、その向こうにはピレ山が聳えている。ピレは高い。この陸で最も高い山の一つだろう。木々が生えるのはその裾のみで、中腹より上は草と岩の山肌が続く。夏でも溶けない氷雪の冠を頂き、ピレは始まりの時のままの姿を保っている。人間どころか動物もピレを越える事はまずない。ピレの向こうは異国だ。そのピレを見上げれば人の暮らしなど、神の喪裾にたかるダニの様なものだと思う。陸を渡ってきた風はそのピレに突き当たって吹き降ろす。風も越えられぬほど高い山がピレだ。

 空の半分をピレとそれに列なる山々が覆う村の暮らしは容易いものではなかった。一年を通じてピレから吹き降ろす風は、村を開いた始祖の技と恵みによって格段に弱まったのだと聞くが、吹きすさぶ風の中での暮らしにそれも疑いたくなる。アシュラもせっかく汲んだ水を風につき転ばされてぶちまけてしまった事が幾度もあった。ただ、ピレに染み渡り、麓の森で湧き出す水だけは一年中途切れる事はない。神域の森から流れ出した水は村の広場を迂回するように流れる小川となって村の暮らしを支えている。村の者はその水を飲み、作物を育て、洗濯をして、水浴びをする。水の神ヌンの恵みが人間にここで暮らす事を許しているのだ。ヌンレはピレの水を意味している。

 ささやかな流れに突き出す足場に立ったアシュラは朝一番の水を汲むための詩を寿ぐ。どういう訳かこれを省略するといつも母にばれるのだ。仮にそれが聞こえていたとしても、足踏みしながらの詩などヌンが喜ぶ筈もないのだが、これはせねばならない。水よ。命よ。満てよ。流れ行け…。アシュラの声は水面を渡ってゆく。詩を詠み終えると足場から手早く桶を下ろして水を汲む。ついでに顔を洗って口をすすぐ。家まで運んだ水を使うのはもったいないからだ。水面は穏やかだった。ヌンの乙女達がさんざめきながら宙に立ち上ってゆく。水面にアシュラの黒い影が掛かった。子供でも女ならば暫し眺めて身づくろいする所を、アシュラは口に含んだ水をぷっと吐いてそれを打ち消した。棹の前後に重い桶を提げてアシュラは家に戻る。水をこぼさぬよう腰で歩くのがコツだ。

 台所には母が戻っていた。

「おはよう、アシュラ。調和を」

「…おはよう、母さん。調和を」

火と水、風と土の調和をというのが正式な挨拶だが、略するのが一般的だ。なぜ相対する火と水、風と土を組み合わせるのかアシュラは知らない。母に聞いてもやはり知らなかった。水瓶に水を移す。昨夜のスープを温めなおす竈の火口でラの子等が楽しげに舞っている。幼い頃はこのダンスを飽かず眺めた物だ。そんな年頃はもう過ぎた。ラの子供たちの騒ぎを横目に明日辺りは降りそうだから、水汲みはあと三往復せねばなどと考えている。

 食物と豊穣の神に詠ってはじめた朝食はパンにスープとゆで卵だ。詩のあとは黙って食べる。

 いつ頃からだろうか、アシュラは母と口を利くのが億劫になった。取り立てて理由があった記憶はない。働き者で、賢い、優しい母だ。何故そんな事になってしまったのだろうと思う。それもこのヌンレの村でアシュラがまともに口をきけるたった一人の相手だというのに。

(きっと姿が違いすぎるせいだ)

ちらと母を眺めて思う。若くしてアシュラを生んだ母はアシュラが環を迎える今でも十分に美しい。厳しい暮らしに腰まである銀の髪は無造作に結っただけ、服は相当着古したものであっても母は美しかった。ヌンレの辺りでは人の肌は白く、髪は薄い茶か金が普通だ。村の内でも特に母は白く、クリームのような肌をしている。更にその艶やかな髪は非常に稀な銀色で、ピレの雪と呼ばれて人から羨ましがられていた。一方のアシュラは髪はカラスのように目は黒曜石のように黒く、肌は火に爆ぜた栗の色をしていた。顔立ちそのものは母譲りであるのに、その色の所為で母子はまるで違って見える。このヌンレでアシュラのような姿をしているのはただ一人だった。アシュラは思う。

(私が私であると言う事は決して母さんには分からない)

母が言った。

「今日は卵を持っていってちょうだい」

鶏が産んだ卵を三日おきに買い取ってもらいに行く。卵を粉屋に持ちこむのは環の半分で迎える半祭を過ぎた子供に任される仕事だった。前に卵を運んでからもう三日も経ったのかとアシュラはうんざりした。

「…分かった」

そう返事をしたものの、朝食を済ませてもアシュラはすぐに卵を持ってゆかなかった。母も何も言わず畑に出た。アシュラはヤギを小屋から出して、今年の柵まで追っていく。柵の場所は毎年変える。村はずれのアシュラの家では土地に余裕があるから順にヤギに草を食わせ、土を休ませて肥やすのだ。そうすると次の年の実入りが確かに違う。今年は森に近い場所だから多少時間がかかった。ヤギ達が柵を越えて作物を荒らさぬよう、森に迷い込まぬよう詩を詠む。これは少々真面目に詠む。柵が役に立たずに難儀する事があるからだ。あとはヤギ小屋と鶏小屋の掃除だけだ。鶏を小屋から追い出して掃除は念入りに行った。汚れた敷き藁を取り除き、柵まで運んで積み上げる。たまに集め損ねた卵が残っているので慎重にやる。隅々まで掃いた後に新しい藁を敷いた。どんなに丁寧にやっても掃除は終ってしまう。家畜小屋の精霊が走り回っているのを見ていい気な物だと思った。もはや卵を持ってゆくのを先送りに出来ない。


 アシュラの容姿はヌンレのものではない。ピレの向こうの異国の民の姿である。ピレを境に接した国をモルダという。人間も動物や植物と同じでその土地々々のあり方によって自分自身を変えてきた。水辺に住まう鰐人や鉱山での生業を主とする山人やヌンレよりも高地に住む鳥人。同じ人間であっても姿は様々である。空を飛ぶ鳥人や水の中でも暮らせる海人、山のように大きな巨人に比べればモルダの人の風貌はヌンレの者とさほど変わるわけではない。せいぜい髪や目や肌の色が違うだけだ。だけれどもヌンレにおいてモルダの異質さは単なる差異ではなく、憎悪と憤激をもよおさせるものであった。

 ヌンレは始まりの国と呼ばれる小さな国の端っこだ。その辺境のヌンレの村よりもモルダはよほど貧しい国らしい。作物が育ちにくく、家畜はやせ衰え、度々旱魃や凶作に見舞われる。そして食えぬようになると隣国へ押しかけるのがモルダのやり方だ。いつからかモルダにはならず者の意味さえ含まれるようになった。そのモルダとの小競り合いは古くから王都を越えてはるか西の海辺で行われてきた。何しろモルダと始まりの国との間の長い国境は、大半がピレに列なる山々なのだ。噂すら山々を迂回して海側から届く。そのピレを越えて戦がやってくるなど誰も夢にさえ思わなかった。

 十二年前、モルダは獣道すらない常雪のピレの頂を馬にまで毛皮を着せて越えてきた。ピレを越えてくる間に兵と荷駄の大半が失われた筈だ。残ったのはピレをも越える強壮な男達。二十に満たぬ騎馬と歩兵がピレを駆け下り、街道沿いの村々で奪い、殺し、暴虐の限りを尽くして王都に迫った。何の備えもない内陸の村々はひとたまりもなかったと言う。同時に海沿いの戦端でもモルダ軍は勢いづき、あわや王都陥落の危機さえあったそうだ。神兵の働きで何とかモルダを押し返したものの、その時にカルダという港町の一つを奪われた。ピレを越える戦略はモルダ側にも被害は大きかったと見えて、以来ピレを越えて攻めてくるような事はなかったが、十二年前のモルダ侵攻の惨状は今に伝えられている。アシュラの黒さはそのモルダ兵であった父譲りの姿なのだ。戦によって生まれた、モルダとの混血児は異質な物への拒絶と憎悪をこめて黒い子供と呼ばれている。戦場に近いカルダの辺りには黒い子供もそれなりに居るらしいが、ヌンレやその近隣には黒い子供は一人しかいない。それがアシュラだった。


 卵を篭に入れて粉屋に運ぶ。粉屋と言っても粉だけを扱うのではない。村のほぼ全ての家が小麦を作り、水車を利用した共同の粉挽き所で粉を得るのだから村では粉は売れない。逆だ。村人たちは自分達で使う分と税を差し引いた小麦を粉屋に持ち込む。卵やチーズ、バター、燻製肉、酒、布等も使う以上に生産すると粉屋に買い上げてもらうのだ。粉屋はそれを町で売り、かわりに塩や油、砂糖、この村では手に入らぬ品々を仕入れてくる。ヌンレの生産品はマタルの織物やシエタ島のガラス細工等に比べると田舎じみていて、さほど高値にはならない。それでも王都から半月、市が立つシェアの町までも馬車で半日以上も離れた村では大事な現金収入になる。開け放たれた粉屋の戸口の前でアシュラは立ち止まり、大事な卵の篭を抱きしめて息を整えた。粉屋の中に客の姿はない。先ほど最後の一人が出て行ったのを木の影から見送った。そうして一歩を踏み出した。

「調和を」

愛想良く振り返った粉屋の親父の「調和を」の声は途中で飲み込まれた。

「卵を持ってきました。買っていただけますか?」

村長に言うように丁寧にと教えられている。親父は誰も居ない店内を見渡して先に相手をするべき客を探した。当然、誰もいなかった。他の客がいればアシュラを無視しておけるのにと舌打の音までしそうである。

「卵を持ってきました」

繰り返すアシュラに

「俺は耳無しじゃねえ!黒いガキがっ!」

粉屋は怒鳴りつけてから乱暴にアシュラの篭をひったくった。ふんと鼻を鳴らしながら一つ一つ卵を吟味して数える。一つでも割れていれば篭ごと突っ返すつもりだ。アシュラが大事に運んできた卵は一つも割れていなかった。アシュラと母が育てている鶏は毎日のように丈夫な殻の大きく甘い黄身の卵を産む。「餌が違うのよ」母が言うように難癖のつけようがない。それがアシュラの悪事であるかのように親父は忌々しい顔をした。しぶしぶ皮袋の口を広げて銭を取り出す。

「二十四個で一ギゼーだ」

卵は十二個で一ギゼーが売りの相場で、買取値は八〇リングというところだ。二十四個なら一ギゼーと二〇リングの筈だが、アシュラは抗議しなかった。何故ならそれはアシュラが持ち込んだ卵だからだ。黒い子供であるアシュラが。

「…ありがとうございます」

アシュラが伏せた目の端で親父の唇がニヤリと持ち上がった。十二年前のモルダ侵攻の折、粉屋の親父は弟と二人の娘を殺され、商品の大半を奪われた。粉屋だけではない。村のほぼ全員が家族や親しい者を亡くし、傷つけられ、その年の飢えを忍んで来たのだ。ヌンレの村を蹂躙した戦乱は今も人々の中に残っている。モルダの風貌を濃く現わしたアシュラはその姿形だけで人の憎悪をかきたてた。一緒に遊ぶような相手などおらず、道を歩けば石を投げられ、まともに口を利いてもらえることも稀だった。かつてその母がモルダの子を身籠っている事が知れると、殺すか捨てるように迫られたという。アシュラがこの村で暮らしてゆく事を許してもらえるだけでも大層な事なのだ。粉屋の振る舞いなどその一端に過ぎない。粉屋はアシュラが椀の形で差し出した両の掌からわざと外れるように銀貨を放った。

「あっ」

一ギゼー銀貨は土の床で弾むとカラカラと転がって壁に寄せられた雑多な商品の裏で軽い音を立てた。たちまち満ちてくる情けなさを顔に出さぬよう必死だった。アシュラが這いつくばって手を伸ばすのを親父は嬉しそうに眺める。もしもアシュラではなく母が卵を売りに行けばきっと正しい値段で買ってもらえたのだろう。だが母はそれをヌンレの子供たちが皆そうするようにアシュラにさせる。人の世には限りがある。母がアシュラに遺せるのはヌンレの村の畑と家と家畜たちなのだ。アシュラはここで暮らして行かねばならない。母は幾度もそう語り、アシュラもそれを理解していた。だからアシュラはぐっと堪えて自分に言い聞かせる。この程度の事などいつもと同じではないか。少しでも早く粉屋を出るために銀貨を探る。突き出されたアシュラの尻を蹴り上げてやろうと親父が一歩踏み出した所で

「調和を!卵を持ってきたんだけど」

子供の声がした。この隙にとアシュラは手を伸ばす。

「おお、マルタのところのヨギか。調和を」

篭を差し出したヨギは蹲った塊に一瞬ギョッと足を止めたが、それがアシュラだと気付くとくすくすと囃した。ヨギの祖母はモルダに腰を折られて死んだ。ヌンレの子供はモルダが忌むべき存在である事を聞きながら育つのだ。

「なんだ「全欠け」じゃないか」

始まりの国で最大の侮蔑を表すその言葉はアシュラの心臓を鷲づかみにした。姿形を詰られた以上の悪意がアシュラの身体の内に染み渡る。アシュラはようやく指先に触れた銀貨を引っつかむと粉屋を飛び出した。賢いウサギならば絶対にしないだろうに真っ直ぐ走って逃げた。どんなに逃げてもヌンレの村から逃げる事は出来なかった。人の子供であるということは自分を自分で食わして行かれないという事であり、生れ落ちたその場所、食べさせ、育ててくれる場所から逃れる事ができないという事である。虫や魚のようには行かぬのだ。アシュラにとって生きる事とは耐える事だった。アシュラの頬を涙が伝う事はない。


 村の大路を駆けぬけ、村はずれのアシュラの家へと向かう小道に飛び込む。麦の畑が続く道をきりりと唇を結んだまま走った。そうして母の待つ家が見える他所の家との境界を過ぎてから麦の畑にしゃがみこんだ。膝に顔を埋め、ギリギリと締め付ける重く熱い心臓押さえつけた。幼い頃は良く泣いて帰った。母のスカートに取り付いて「何故私は皆と違うの?」と困らせた物だ。泣くのは止めた。村の者の仕打ちに対して出来ることなど何一つない。モルダを憎む人の心を変える事は出来ないのだ。だから何もない振りをする。何もないのだから涙など流れない。そうでなければならなかった。いつかそれが本当に何もなかったことになるようにアシュラはそれを自分に課していた。

 それでもあの悪態には傷ついた。「全欠け」。その身の内に神素を一つも持たぬという意味だ。世界は火と水、風と土の神によって始った。始まりの四つの神があらゆるものを生み出したのだ。だからこの世の全てのものは身のうちにそれを創った神を持つ。世界をその身の内に宿しているのだ。この全てのものの内にある神の質を神素と呼ぶ。神素に恵まれぬものなど一つとしてない。草も木も獣も人間も、生きとし生けるものにも、水や光、岩や人の道具などにまでそれはある。「全欠け」。だからその神素が全て欠けていて、人に四つあるはずの神素を持ち合わせないという事は、

(生まれてはいけなかった者)

世界から望まれない者を意味しているのだ。間違いで生まれ、何一つ恵まれなかった者という嘲りであった。それほどまでに皆から疎まれているという事実をアシュラはまたもや突きつけられたのだった。まだ青い麦の海を風の息子が渡ってゆく。掌ほどの大きさの精霊はくるくると回ったり、声なき叫びを上げて遊びまわっている。精霊はただそこにあるだけで、アシュラの事など気にも留めない。まるでアシュラなどそこにおらぬかのようだ。

(本当に自分は世界から見放されているのではないか)

「全欠け」。あの悪態をアシュラは否定できなかった。何故ならアシュラは自らの神素を唯の一つも知らないのだから。

 人の持つ神素は四つだ。二つは生れ落ちた時に父と母から。六歳の半祭までに生れ育った場所から一つを得る。そして聖なる十二年の節目、環までに自ら一つを手に入れる。自らの神素を知らぬのはまだそれが定まっていない幼い者達だけだ。神素は常の者には判別がつかない。親の体から生れ落ちた時や、半や環の節目には精霊の働きが強い場所で煌き立ち上るものらしい。それを村に一人は居る司祭が判読する。旅の者など、司祭の立ち会わぬ出産はままある。アシュラの場合はモルダへの憎悪のあまり、ヌンレでは無事に赤子を産み落とせぬと母が町へと逃れたためにそうなった。そのような場合は生後六年目の半祭にて、三つを判じてもらう。万万が一、半祭を病気や怪我、不幸な事故で逃しても、環がある。環は成人の儀で、それを超えねば社会に受け入れられないから、これを逃す者などいない。親を無くしたり年齢が定かでない者も、年遅れで環は受け、神素を判じてもらうのだ。

 なぜ神素を知る事が重要なのかといえば、神素はその人となりに現れるからだ。神素によほど富むならば自在に精霊を使役することさえ出来ると言う。それほどの恵みはまずないが、神素に水を持つ者が鍛冶には向かぬように、風に富む者が交易や船乗りに適するように、持ち合わせた神素によっていかに生計を支えるかの指標にはなる。「あいつとは神素が合わない」と言えば人と人との相性が悪いという意味で、奴隷でさえ、神素は如何に生きるかという事に付いてまわった。だから自分の神素を一つも知らぬ者など居ないのだ。アシュラは今年十二になる。四つの神素が揃う年、環を迎える年である。本来ならばアシュラはすでに己の三つの神素を知っていなければならない。

 姿形が違えども、村で暮らすうちに受け入れられるに違いないという母の願いと裏腹に、モルダへの憎悪は薄れも消えもしないことを半祭のその場で母娘は知った。晴れ着を身に付け、他の子供らに混ざって半の列に並んだアシュラを村の司祭はまるでそこに誰もいないかのように無視したのだ。泣いて取り付いた母に司祭は「その者が何かを得るはずもない」と言った。村の者達もそれに頷いた。皆「これ以上モルダにくれてやるものなどない」と思っていたのだ。だからアシュラは今も自らの神素を知らない。司祭が祝福を与えてくれぬだけなのか、それが本当にあるのかさえ分からぬのだった。

(本当に神素など一つもないのかもしれない)

村人らの仕打ちの底に横たわる憎悪を思えば、とても世界から何かを恵まれているなどと思えない。だからヨギの悪態にあれほどまでにうろたえてしまった。秋が来ればその環が来る。


 家に戻ると母は布から顔を上げて微笑んだ。「おかえりなさい」空の篭と一ギゼー銀貨を差し出すと、母は何も言わず手招いた。アシュラが近づくとそれまで母が屈みこんでいた黒い布をアシュラの肩に掛けた。滑らかな手触りの黒い生地に美しい刺繍が施された布だ。環の晴れ着の肩布だった。肩布は左の肩にたらす。前後を均等にしても尻の下まで届く長さだ。肩布の下は染めない麻布を身体に巻きつけるだけ。女は足首まで、男は腿の中ほどまでの麻布を巻く。それを肩布ごと石や金銀で飾り立てた組紐で締める。

「傷んだところを直しているのよ」

肩布は代々受け継がれる。父から息子へ。母から娘へ。アシュラの肩布は母の祖母が織り、戦火を免れた肩布だった。刺繍は夫々の家で異なる。アシュラの家系では昔この地を開いたときに咲いていた矢車菊と蔦を意匠にしてあった。母はこの晴れ着をアシュラが着て環を迎える事を夢見ている。それは母親が娘に抱くであろう当然の期待だった。しかし、半祭に参列する事さえ拒否されたアシュラにその日が来るのかは疑わしい。久しぶりに取り出された組紐は石も銀もない質素もので、それもアシュラには短くなっていた。

「組紐は織りましょうね」

母の期待に満ちた声が煩わしかった。

(同じことが繰り返されるだけなのに)

半のときと同じく、自分に神素が告げられる事はないとアシュラは思う。それが分かるだけの仕打ちを毎日のように受けていた。

「母さん」

「矢車菊を織り込むというのはどうかしら?」

アシュラが普通の娘のように環を受けられると思い込んでいる母が愚かしかった。

「母さん」

母が優しい顔を上げた。

(いや、母さんだけじゃない)

神素を全て得ることは成人の儀の根幹である。しかしよほどのことでもなければ、大抵の者は生れ落ちた場所で、その親のように生きるものだ。神素に優れようとも精霊がその暮らしを手助けするものでもない。ならば一塊のパン、一切れの肉の方がよほど価値があるのではないか。

(神素なんかその程度の物だ)

腹立ち紛れにそう断ずる。愚にも付かぬ神素を有難がる村の、この世界のしきたりそのものが愚かしかった。アシュラは肩布を下ろすと、それを返した。

「仕事はある?」

母は首を振った。

「今日はもう好きにしていいわ」

色々なことがあったろうから。アシュラは母に背を向け、森へ向かった。ヌンレには澱みの中で喘ぐような暮らししかない。だが、それがアシュラの世界だった。



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