とんかつ令嬢
きっかけは僕が17歳の時の、彼女だった。
初めて彼女を見た時のことはよく覚えている。
恋に恋していた僕は、女子校に通う幼馴染みに、誰かいい娘がいたら紹介してくれと頼んだのだった。
そしてショッピングモールの中にあるシネコンで出会った。初めてのデートが初対面だった。
『制服のセーラー服で行く』と聞いていたのですぐにわかった。彼女は僕に横を向けて、カチンコチンに緊張しながら立っていた。
「奥山さん? 奥山麗情さん?」
僕が聞くと、彼女は横を向いたまま、目だけをこっちに向けて、うなずいた。
ちょっと緊張しすぎてるよなと思いながらも、その横顔が女優さんみたいに綺麗だったので、僕は心の中でガッツポーズをキメていた。
彼女は中流家庭の三姉妹の真ん中だったけど、まるでお嬢様のようだった。
何も知らないし、何もできないのだ。
シネコンに入るのにチケットを買う必要があることも知らず、そのまま入って行こうとしたので、びっくりして止めた。
「あのっ……。これ、どうやるんでしょうか?」
チケットの販売機の前で、おばあちゃんよりもオロオロしていた。
「お金は……どこから入れるんでしょうか?」
千円札を持ったまま、固まっていた。
「えっ? 千五百円入れたのに、お釣りが返ってきました!」
高校生料金の文字が読めないのかと思った。
「俺たち高校生でしょ? 大人は千五百円だけど、高校生料金はほら、千円って書いてある」
僕が教えると、彼女は初めて僕に正面を向けて、とても楽しそうに笑った。
女の子が好きそうな恋愛映画にしてよかったと思った。
彼女は感動して、僕の隣でぽろぽろ泣いていた。映画が終わってから入ったカフェでも泣き止まなかった。
「映画、よかったね」
僕が言うと、
「誰かと一緒に観る映画がこんなにいいなんて思いませんでした」
そう答えながら、紙に包まれたままのストローをオレンジジュースの中に突っ込んだ。
「奥山さんって、見た目大人っぽくてしっかりしてそうに見えるよね」
二度目のデートの時、ハンバーガーのマヨネーズをぼとぼとこぼして慌てる彼女にそう言ったのは、何も知らない、何もできない彼女のことを、可愛いと思いはじめていたからだった。
半分からかいのつもりだった僕の言葉を、彼女は100%の褒め言葉と受け取った。顔の前で何度も手を振りながら、顔を真っ赤にしながら嬉しそうに笑っていた。
そして告白したのだった。
「だって私、23歳ですから。5回留年してますから」
後でそれが本当だったとわかるのだが、その時は冗談だと思った。
「知らなかったです……。初めです」
彼女は何度も僕にそう言った。
「恋するのって、こんなに素敵な気持ちになれることだったんですね」
「ヤキモチなんて……初めて焼いたんですよ。……もう、他の女の子と仲良さそうになんて、しないでください!」
「こんなに寂しい想いは初めてしました。でも……会えて嬉しいよ……」
何も知らない、何も出来ない彼女だったけど、ひとつだけ得意なことがあった。
「あたし、とんかつ作るのだけは得意なんですよ」
その言葉の通り、彼女の作るとんかつは絶品だった。
衣のつき方が見事で、揚げ方も素晴らしく、黄金色に輝く見た目の通りにカラッとした出来映えだ。
なんといっても肉の選び方が絶妙で、一緒にスーパーで選ぶ時にそのコツを教えてもらった。
「このぐらいの薄さで、こんなふうに脂身がついてて、色はこんな感じ」
一人暮らしの僕の部屋に来て、いつもとんかつを作ってくれた。その続きはかつ丼だったりカツカレーだったり、色々したが、とにかくとんかつそのものが素晴らしいので、かけるソースとかはなんでもよかった。
「なんでとんかつだけはこんなに得意なの?」
僕が聞くと、
「人間誰でもひとつは得意なことがあるものですよ」
そう言って、ドヤ顔で微笑んだ。
そして僕は彼女に色々なことを教えた。
勉強も、社会生活の送り方も、男の子が何をされたら喜ぶのかも。
楽しいことも、苦しいことも、悲しいことも。そして一年間付き合った男女がどういうふうに別れるのかも……。
二人とも、最後まで仲はよかった。年齢のわりにあまりに純真な彼女のことを、僕も最後まで好きだった。
与えるばかりの恋愛に疲れたのだろうか。お嬢様みたいな彼女に色々と教えながら、彼女に段々と出来ることが増え、彼女が歳相応の大人になって行くのを見るのが、それとも怖かったのだろうか。
25歳になった今、僕は初めて出会った時の彼女を追い越した。
与えてばかりだと思っていたけど、彼女から教えられたことは、じつは多かった。
中でも彼女から教わったとんかつの作り方が、僕の人生を変えることになるかもしれない。
僕は明日、自分の店を開く。
『とんかつ令嬢』──そう名付けたとんかつ専門店は、彼女と出会わなければ開くことがなかった、僕の店だ。
そしてこの店が成功したら、指輪を持って、彼女に言いに行くんだ。
「一緒に一生、とんかつを揚げ続けて行こう」