【サイドストーリー5】 穴の底のミア その13
ほの暗い部屋の中を、ぼんやりとジョシュは見渡した。どこかで旧式の時計が時を刻む音がする。彼が初めて起動された時にも、よく似た音を聞いた。彼をこの世に送り出した博士が大切にしていたアンティークのぜんまい時計の音。早朝なのか顔に触れる空気はひんやりと冷たい。どうして自分はここにいるのだろう? 『穴』をくぐってからの記憶がまったくない。今まで自分はこのベッドで眠っていたようだ。事故に遭ってここに運ばれたのかもしれない。
上半身を起こすと右隣に女性が眠っているのに気づいた。二人の身体を覆っている毛布をそっと持ち上げると彼女の顔を覗き込む。ジョシュは思わず微笑んだ。
ああ、そうだ。この人が自分がここにいる理由だ。何が起こったかなど、急にどうでもよくなった。大切なのはこの人の傍にいることなのだから。
さて、自分にとってそれほどまでに重要なこの女性は誰なのか、どうして自分の記憶から抜け落ちてしまっているのか、頭をひねっているうちに彼女が身じろぎした。ゆっくりと目を開くと澄んだヘイゼルの瞳で彼を見上げ、そして微笑みを浮かべる。
ジョシュは凍りついたように彼女を見つめた。喜びとも悲しみともつかない奇妙な感情が胸を締め付け、呼吸が苦しくなった。涙がじわりとこみ上げて慌てて目頭を押さえる。
女性はしなやかな腕を伸ばしベッドの脇のキャビネットの上から小さな紙切れを取り上げた。にっこり笑ってジョシュに差し出す。
わけが分からないまま彼は紙切れを受け取った。紙には小さな文字で、彼女の補助記憶装置内にあるファイルの所在地が記されている。書かれた指示にしたがって彼はファイルを読み込んだ。
これまでの記憶が鮮やかに蘇る。この女性はミアだ。彼女は彼の恋人。『穴の底』と呼ばれるこの世界の、この小さな部屋で、二人は仲良く幸せに暮らしてる。
そして……それも今日で終わり。
ジョシュは初めてファイルを読み込んだことを後悔した。だが悲しんでいる暇などない。彼が今からやらなければならないことを心に刻むとミアに挨拶する。
「おはよう、ミア」
「おはよう、ジョシュ」
大切なのはミアに彼の本当の気持ちを悟られないこと。彼は無邪気に笑ってみせた。
「今日はいよいよ24世紀に戻れるんだね」
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大型の軍用車両が巨大な石作りの門の前で止まり、ミア、サトル、そしてトムの三人が、きらびやかな階級章を胸につけた男に付き添われて降りてきた。最後に少し離れてジョシュが続く。
当初、主人の後を追う恐れがあるとしてジョシュの同行は許されなかった。しかし『人造人間の専門家』であるトムが「ミアがこの世界から去るところを見せない限り、『人造人間』は新しい主人を認めようとはしない」と言い出したので、皇帝は許可を与えないわけにはいかなくなった。
『穴』と彼の主人であるミアには近づかない事が条件だったが、ロボットであるジョシュなら容易に『穴』までたどり着くことが出来るだろう。旧型アンドロイドしか見たことのない皇帝は、ジョシュの能力を過小評価していた。人の物真似をする精巧なカラクリ人形程度にしか思っていないのだ。
ミアたちが門をくぐると数十メートル先に大きな金色の廟が見えた。午後の光を浴びてまぶしいほどの輝きを放っている。ミアが『召喚』された粗末な石造りの小屋とは比べ物にならない。驚いて彼女はサトルに話しかけた。
「ずいぶん立派なのね」
「ここは先代の大賢人が『召喚』された『穴』なんだそうだ。『召喚』に成功した『穴』は格が上がるんだろうな」
サトルはトムを振り返った。
「どうしてもっと近くの『穴』を選ばなかったんだ? 宮城の近くにも一つあっただろう?」
トムがいつもの夢見るような口調で答えた。
「あの『穴』だと24世紀では黄帝廟の地下に出てしまいます。この『穴』も20世紀までは寺院の下に埋もれていたのですが、本殿が文化大革命で取り壊されたので24世紀側に障害物がないのです。現在でも交通量の多い『穴』の一つですよ」
『人造人間の専門家』であるトムはサトルの希望で同行を許された。賢人にしては冴えない姿をしたトム自身が、憧れの『人造人間』だと知れば皇帝はさぞ驚くに違いない。『会社』製の戦闘ロボットというからには帝国の一個連隊を殲滅できるほどの能力を持っているはずだ。
あと五人ほど送り込んでくれないだろうか。宮殿から皇帝を蹴り出してサトル自身が皇帝になるのも悪くない。皇帝の座を手に入れても実際に帝国を切り盛りするのはリンの仕事になりそうだ。さぞかし住み良い国になるだろうに。皇后の衣装を身に纏ったリンの姿を思い浮かべてサトルは微笑んだ。
前方より派手な装束を身に纏った老人が近づいてくると深々と頭を下げた。
「ようこそ、賢き方たちよ。わたくしは『ライ=ガウル』、すべての召喚師の長でございます」
流暢な賢人の言葉で挨拶をすると、次はサトルに向かって話しかける。
「こちらの準備は整っております。召喚師たちは外で待たせ、ミア様だけ中に入っていただくとの事でしたが……」
「ああ、それでいい。ありがとう」
サトルは笑ってうなずいた。彼とは顔見知りのようだ。以前サトルが、宮中に賢人達に協力的な爺さんがいて助かると言っていたが、彼のことかも知れない。
「ミア様、こちらへどうぞ」
老人はミアを差し招くと、先に立って歩き出した。ためらうミアに向かって、トムが力づけるように微笑みかける。
「大丈夫ですよ。もしうまく行かなければほかに方法を考えましょう」
トムからはガムラン宛の伝言を預かっている。『穴の底』に関する報告書と言った方がいいのだろう。ミアの補助記憶装置に保存されたファイルはかなりの大きさがある。
サトルがミアを促した。
「さあ、行けよ」
「うん、今までありがとう」
ミアはサトルを抱きしめた。どれほど彼に面倒をかけてきたのか、いまさらのように思い返す。 ここに残る賢人たちは誰もが心に深い悲しみを抱えている。どうして自分だけが不幸だと思いこんでいたのだろう。ジョシュのお陰で彼女は自分の幼稚さに気づくことができた。24世紀に帰っても、もう元の自分には戻りたくない。
「ごめんね」
サトルは一瞬驚いた顔をしたが、すぐに彼女の気持ちを察したらしい。にっこりと微笑んだ。
「いつかまた会えないとも限らないからな。元気でいろよ」
ミアは老人の後を追った。廟の入り口まで来ると彼女は振り返ってジョシュを見た。門のすぐ外で小銃を構えた屈強な男達に囲まれている。突然、昨夜の不安が蘇ってきて呼吸が苦しくなった。足が動かない。
ジョシュの声が頭の中に響いた。
『どうしたの? 早く行かなきゃ。皇帝の気が変わっちゃっても知らないよ』
『やっぱりジョシュを置いて行きたくない』
『ミアが行ってくれないと俺も逃げ出せないだろう?』
『本当に逃げられるの?』
『俺はね、ロボットなんだよ。その気になれば生身の人間なんて敵じゃない。さあ、行って。向こうに帰りたいって願うんだ。強く願うんだよ』
ミアはジョシュに向かってうなずいて見せた。
『’じゃ、あっちでね』
『うん、すぐに後を追うよ。願うんだよ。帰りたいって』
ミアはにっこり微笑んだ。
これが彼女の笑顔の見納めになるだろう。ジョシュは食い入るように彼女の顔を見つめた。どうせ長くは覚えていられない。でも覚えていられる間は、ミアのことだけを考えていたい。
彼女は廟の中へ入り、姿を消した。
ジョシュはその場にくずおれるように座り込んだ。これで彼の役目は終わり。壊れかけのロボットにしては上出来だ。
門の内側にいるサトルから『通信』が入る。
『さあ、次はお前の番だ。俺とトムが奴らの気を引くから『穴』まで走れ。撃たれたって死にはしないだろ?』
ジョシュはサトルに向かって笑ってみせた。
『いいんだ。俺は行かない』
『なんだって?』
『もう限界なんだ。よくここまでもったものだと思うよ』
『だって、ミアが待ってるんだぞ。向こうへ戻れば修理して貰えるんだ』
『俺はもう直らないよ。そのぐらい自分でも分かる。それならここで別れたほうが諦めがつくだろ?』
サトルは黙ってジョシュを見つめている。かける言葉が見つからないのだろう。
『心配はいらないよ。明日になったらどうせ何も覚えていないんだからね。それに明日まで動いてられるかどうかも分からない』
ジョシュは真っ蒼な空を見上げた。この世界の人間は死んだら『天上世界』へと旅立つのだという。人の形をした機械にも行けるのだろうか? ミアの帰っていったあの世界へ。




