【サイドストーリー5】 穴の底のミア その12
その晩、ミアとジョシュが夕食を食べていると、サトルから『通信』が入った。すぐに彼の部屋まで来いと言う。彼の私室は回廊を挟んでミアたちの部屋のちょうど向かい側にある。急いで向かうと、待ち受けていたリンが彼らを迎え入れてくれた。
部屋の中ではテーブルに置かれた世界地図を挟んでサトルとトムが熱心に語り合っている。ミアたちが入ってきたのに気づきサトルが振り返った。
「皇帝から『穴』を使う許しが出たんだ。ミアには引継ぎをして貰わなきゃならないからな。三日もあれば足りるか?」
ミアが目を丸くした。
「嘘でしょ? どうやって許可なんて取ったの?」
サトルの代わりに彼女の後ろからジョシュが答えた。
「皇帝と取引したんだよ」
怪訝な顔でミアが振り返る。
「取引って?」
「俺と引き換えにミアをあっちへ帰すって」
「引き換え?」
「皇帝陛下は『人造人間』をお傍に置きたいんだってさ」
意味が分からず彼女はジョシュの顔を見つめた。皇帝は取引なんてしない。いつだって欲しければ奪うだけ。取引の必要なんてないんだから。
彼女の心を読んだかのようにサトルが話し始めた。
「トムは『あちら側』では『人造人間』の『製造』に関わっていたということにしてある。まあ全くの嘘という訳ではないからな」
トムが愉快そうに笑う。
「確かに『製造』されましたからね。関わっていたのは事実です」
「それと取引とどういう関係があるの?」
「まあ、聞けよ。幸い、皇帝はロボットのことなど何も知らない。ジョシュには不具合があり、ミアが自分の主人だと思い込んでいる。彼女がこの世界からいなくならない限り、ほかの主人は認めないだろう。そうトムが話したら、うまいこと信じ込んでくれたようでな」
ミアは驚いてジョシュを振り返った。
「そんなのダメよ。あなたと一緒じゃなきゃ戻る意味なんてないわ」
「大丈夫。もちろん俺も一緒に帰るよ。勝算のない計画なんて立てるわけないだろ?」
ジョシュは彼女を安心させるように笑って見せた。嘘をつくのにもだいぶ慣れてきたようだ。
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ミアの職務は残った賢人たちが分担することになった。彼女はまだ新米なので受け持ちの講義の数もあまり多くはない。同僚にそれほど迷惑をかける心配もなさそうだ。
講義の合間に彼女は賢人達を集めて引継ぎを行った。補助記憶装置のお陰でデータの引渡し自体は簡単だったが、それでも次から次へと伝え忘れたことが出てくる。こんなときに『弟子』がいないとはタイミングが悪いとしか言いようがない。サトルはジョシュをミアのサポートにまわしてくれた。ここに来て日の浅いジョシュに、手伝えることはあまりなかったが、心の支えぐらいにはなると思ったのだろう。
サジはもうここにはいない。もちろん、皇帝に忠実であったという理由で彼を『キト=マグス』から追放するわけにはいかないのだか、周りをうろつかれ邪魔をされても困る。悩んだ挙句、サトルは褒美という名目で彼に一週間の休暇を与え、地方都市へと送り出したのだった。
この事件をきっかけに、賢人達はジョシュの正体を知る事となった。皆、驚きはしたもののジョシュに接する態度は変わらない。ジョシュが密かに安堵したことにミアは気づいていた。彼がロボットだと知って一番見苦しい態度を取ったのは彼女自身だったようだ。情けない気分でミアが謝ると、ジョシュは笑って彼女にキスをした。
サジは復帰後、リンドンの『弟子』となることに決まった。リンドン自らの申し出だった。すでに彼には三人の弟子がいるのに、どうしても引き取ると言って譲ろうとしない。聞けば過去に自分も同じ過ちを犯したのだと言う。彼が自分の過去に触れるのは初めてだったからサトルは驚いたが、ありがたく申し出を受けることにした。
こうして期日までの三日間はあっという間に過ぎていった。
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ジョシュはミアの身体を抱いてベッドの上に横たわっていた。秋口だというのに日が暮れても蒸し暑い。何度もお互いを求め合い、まだ余韻の残る身体から汗が冷えていくのが心地よかった。薄暗い部屋の中、ミアの白くしなやかな肢体が仄かに光を放っているように見える。ジョシュの視線に気づきミアが微笑んだ。
「あっちに戻ったらね、あなたを連れて行きたい場所があるんだ」
「どんなところ?」
「私が施設を出て初めて住んだ街。シャンハイの郊外にあるの。何百年も昔の町並みが未だに残っててね、部屋は小さいんだけど住み心地は良かったわ」
「そんなに昔の町並みが残ってるの?」
「景観保護区の一部なのよ。半分以上は再現されたらしいんだけどね、私にはオリジナルの部分との違いはわからなかったわ。入り組んだ小さな路地ばかりで車両なんて入れない。街中に水路が張り巡らせてあって住人は小さな舟で行き来してるの。こだわる人は手漕ぎのボートに乗ってるわ」
決して見ることのないその風景を、ジョシュは心に思い浮かべた。
「面白そうだね。俺、『会社』の近所しか知らないんだ」
「もちろん、悠長に船なんて乗ってられないって人は、空を飛んじゃうけどね」
ミアがまた笑った。
「ここに来るまではずっとそのあたりに住んでたな。成人して施設を出たらね、すぐに身体を変えたの。新しい街に行き、新しい姿で暮らせば、昔の自分と決別できると思ったのね。でも見た目が変わっても、中身は変われないんだってすぐに気づいたわ」
母親の話が出たのを契機に、ミアは過去の出来事をすべてジョシュに話した。彼はただ黙ってミアを抱きしめてくれた。同情の言葉なんて聞き飽きていたミアには、それが何よりもありがたかった。彼の胸の中で久々にミアは泣いた。
時の流れが心の傷を癒してくれるというのは嘘だ。時が経てば、自分が手負いであることを忘れてしまうかもしれない。でも傷は今でもそこに残っている。小さなきっかけで傷口はうずき出しまた血を流す。
傷を癒すには時間ではなく何かほかの物が必要なのだ。でもミアにはそれが何なのか分からない。
「昔のミアはどんな姿をしていたの?」
「今とは全然違ったな。髪はブロンド、瞳はグレイがかった青色でね、そばかすだらけだった。周りからは活発そうに見えたと思うわ」
「もし俺達が、ここに『召喚』されてなかったら……」
「危うくあなたに会えないところだったね」
そう言って微笑むミアにジョシュが首を傾げた。
「そうかな? もしここに来ていなければ、俺はミアとどんな出会いをしたのかな、って考えてたんだよ。例えば俺がシャンハイ勤務になってさ、休みの日にミアのいる町に観光に出かけたかもしれないだろ?」
「向こうにいても私達が出会ったと思うの?」
「うん」
どうやらジョシュは本気で言っているらしい。ロボットが運命を信じてるなんておかしな話だ。でも彼の口から聞くと、ありえない事でもないように思えてくる。ジョシュの無邪気な笑顔を見つめていると、ミアは不安になった。
「どうしたの?」
突然黙り込んだ彼女に、ジョシュが不思議そうに尋ねる。
「本当はね、怖くてたまらないの。こんなの、うまく行くのかな?」
「何が怖いの? あっちに戻れば俺はすぐに修理してもらえる。そうすればこれからも一緒にいられるんだよ」
「うん、そうだね。このままだとジョシュは壊れちゃうんだもんね」
「選択の余地はないんだからね。前日になって気が変わったなんて言われても困るよ」
ジョシュは彼女にすねた顔をして見せた。
……そうだよ。選択の余地なんてないんだ。君はどうしても帰らなくっちゃならない。君を傷つけたあの人だけが君を癒す力を持っている。皮肉な話だけどね、でも、ガムランがそう思うんだったら、きっとそれが正しいんだろう。
「それに毎朝、記憶をなくしちゃうなんて嫌だよね」
ミアが暖かな身体を寄せてくる。
「そんなことはないんだよ。毎朝、ミアを見るたびに幸せな気分になれるって言ったろ?」
……そう、毎朝俺は初めて君に出会い、初めての恋に落ちるんだ。
ジョシュはミアの耳元でそっとささやいた。
「もう一度、抱いてもいい?」
うっすらと頬を赤らめてうなずいたミアの首筋に、彼はキスを落としていく。
……これで君を抱くのは最後だよ。俺はね、君に出会うためにここに呼ばれてきたんだ。そして君を送り返すために。最後まで傍にいたかったけど、それは俺の役目じゃなかったみたいだね。この世に『守護天使』が存在するのなら、俺の願いを聞き届けて欲しい。もし……。
動きを止めたジョシュをミアが不思議そうに見上げていた。
「なんでもないよ」
彼は微笑みを浮かべ、彼女の身体を静かに抱き寄せた。
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ジョシュの腕の中でミアは小さな寝息を立てている。彼女の補助記憶装置に、彼はその日の記憶を保存した。毎晩繰り返してきたこの作業もこれが最後になる。
彼を失ったことに気づけば、彼女は悲しむだろう。だが人間である彼女の記憶は、時と共に薄れていくはずだ。忘却は人に与えられた恩恵なのだと聞いたことがある。ミアが彼のことを忘れてしまうと思うと耐え難かったが、それで彼女が心の平穏を得られるのなら仕方がない。
……それでも、時々は俺の事を思い出してくれるだろうか?
ミアの額にそっと口付けるとジョシュは目を閉じ、そしてすべてを忘れた。




