【サイドストーリー5】 穴の底のミア その10
ミアが顔を上げるとジョシュが彼女を見つめていた。自分の目元が濡れているのに気づき慌てて笑顔を作る。
「あなたもメッセージを貰った?」
「うん、俺にはトムの手助けをして欲しいんだってさ。『穴』に喰われた人たちを送り返せって」
「どうやったら戻れるのか分かってるの?」
「試してみなきゃ分からないんだけどね。心から戻りたいって願いさえすれば『穴』は開くんじゃないかってガムは言うんだ」
「それだけ?」
逆方向には『穴』は開かないんじゃなかったっけ? そんなに簡単なら今までに『あちら側』に戻って行った人間がたくさんいるはずだ。納得がいかない。
「みんな、戻るのかな?」
ジョシュがサトルに尋ねた。
「ガムランはこちらの生活に満足しているなら戻らなくてもいいと言ってたよ。ほとんどの奴らはこっちに残るんじゃないのかな」
サトルは笑って付け加えた。
「もちろん俺は戻らないよ」
ミアは微笑んだ。彼はリンを置いてはどこにもいかないだろう。サトルはにやりと笑うと満足そうに自分のオフィスを見渡した。
「エンジニアとして暮らすよりは、世界の守護者でいるほうがずっと面白いからな。もうしばらくは『大賢人』を勤めさせてもらうさ」
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その日、夕飯の席でミアはジョシュに告げた。
「私ね、ここにいることにした。本当のことを言うと24世紀にいい思い出はないの。戻りたくないんだ」
「ミア?」
「ここであなたと暮らせるんだったらそれでいいと思ってる。こんな気持ちじゃ『穴』が開くかどうか分からないでしょ?」
心から願いさえすれば『穴』が開くと聞いたとき、24世紀へ戻った者が誰もいないのが不思議に感じられた。しかし冷静に思い返してみれば、この世界に囚われてパニックに陥っていたときでさえ『あちら側』に戻りたいとは思わなかったのだ。心のどこかでは自分の身に起こった変化を歓迎していたのかもしれない。
『穴の底』へと『召喚』されるには絶望を感じなくてはならない、そうトムは言っていた。それが本当だとすれば自分をそこまで追い詰めた世界になど誰も戻りたくはないだろう。
「ねえ、ミア。ミアは戻らなきゃだめだよ」
小さな子供に言い聞かせるようにジョシュが言った。
「どうして?」
「どうしても」
ミアは訝しげにジョシュを見つめた。彼の気まずそうな様子を見れば何かを隠しているのが分かる。
「何かあるんでしょ? 教えてよ」
「ガムランにね、ミアだけは連れ戻せって言われたんだ」
「どうして私だけ?」
「ミアを待ってる人がいるから」
私を待ってる人? ミアは首をひねった。一人として思い当たる人物はいない。
「誰なの?」
「ごめん。でもミアには話すなって言われてるんだ」
ジョシュは隠し事が苦手なようだ。彼の困った顔を見ると気の毒になったが、ここはどうしても聞き出さなければならない。
「教えてよ。誰なのかも分からない人のために戻るわけにはいかないでしょう?」
ジョシュは戸惑ったが隠していてはミアを説得できないと悟ったようだ。
「それじゃ、話すよ。別に隠すようなことでもないと思うんだ。ミアを待ってるのはミアのお母さんなんだから」
ミアの顔が蒼白になった。どうしてここであの女が出てくるの?
「あの人は私なんて探してもいないはずよ」
彼女の冷たい口調にジョシュは自分が過ちを犯したことに気づいた。どうしてガムランが話すなと言ったのか今になって合点がいったがもう後の祭りだ。
「母親が娘を探さないわけないだろう?」
「あなたに何が分かるの? 親なんていないくせに」
吐き捨てるように言ってすぐにミアは後悔した。ジョシュに親がいないのは彼のせいじゃない。彼女は立ち上がるとジョシュの広い背中を後ろからぎゅっと抱きしめた。
「ごめん。でもあの人にはどうしても会いたくないの」
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翌日の昼休み、講義を終えたミアはサトルのオフィスに現れた。最近はこの小さな部屋でジョシュやほかの賢人達と共に昼食をとるのが日課になっている。ジョシュが来る前は一人で済ませることが多かったのに、彼のお陰でいまさらのように人と接する機会が増えた。
その日、ミアは早めに昼食を切り上げた。次の講義に使うサンプルを取りに行かねばならなかったのだ。ジョシュには残ってゆっくり食事をとるように行ったのだが、もちろん彼がミアと一緒にいられる機会を逃すわけがない。結局、彼とサジを伴ってオフィスを出た。
普段、あまり足を踏み入れることのない『キト=マグス』の一角に目的の建物はあった。窓も装飾もない石造りの小屋はほかの建物からは少し離れて建てられており、たいして重要な物には見えない。ミアはオフィスから借りてきた鍵を取り出すと、大きな閂をはずした。重い引き戸を押し開けてジョシュとミアは隙間から薄暗い建物の中に足を踏み入れる。続いて入ってきたサジが壁を探って照明のスイッチを入れた。
ぼんやりと明るくなった仕切りのない空間には、箱やキャビネットが整然と並べられていた。
「ここはなんなの?」
ジョシュが尋ねた。
「収蔵庫よ。賢人の持ってきた物や使っていた物は全部ここにしまわれてるの。着ていた服やアクセサリーなんかもね。賢人の世界の物は『キト=マグス』内に留めておきたいという要望が通ったの」
「ミアはここに何の用があるの?」
「講義に使いたいものがあるのよ。ここにある物は許可を貰えば持ち出しが出来るの。希望があれば『大学院』に貸し出すこともあるわ」
壁際に置かれたガラスのケースの中に人の形をしたものが横たわっているのに気づいてジョシュが足を止めた。
「あれは?」
「ロボットよ。人間と一緒に落ちてきたんだって」
ジョシュは恐る恐るケースに近づいた。ロボットはアジア系の男性の姿をしていた。劣化したプラスチックの皮膚はところどころ破れ金属の骨格がのぞいている。
「ずいぶん昔のモデルだね」
人間そっくりで、それでいて人間ではないと一目で分かる顔。今ではもう博物館でしか見ることのない初期のアンドロイド。
「人間と一緒に引きずり込まれたのよ。AIだけが『召喚』されたのはあなたが初めてなの」
「このロボットはどうして人と一緒にいたんだろう?」
「召使いロボットだったのよ。数週間で動かなくなったそうだけど、当事は大変な騒ぎになったらしいわ。『大学院』で隅から隅まで分解して調べたんですって」
ジョシュは黙ってロボットの残骸を見ていたが、やがて小さくため息をついた。
「どうしたの?」
「俺、まだ作られて二ヶ月なんだ」
「そうだったの」
「調整の途中だったんだよ。記憶を失くすのもそれが原因じゃないかな」
「今の方法でうまく行ってるんだからいいじゃない」
ジョシュは何も言わずにロボットに視線を戻した。恐ろしい予感が胸をよぎりミアは彼の顔を覗き込んだ。
「そうじゃないの?」
「俺ぐらいの複雑なロボットになってくるとね、調整が終わった後も頻繁にメンテナンスを受けなきゃならないんだ。身体じゃなくて頭脳の方のね」
「でもここじゃ……」
「そう。受けられないんだ」
「どうなるの? 壊れちゃうの?」
「このままだとね」
ジョシュはまたロボットに視線を戻す。突然、ミアの脳裏に動かなくなったジョシュの姿が浮かんだ。
「壊れちゃやだよ。私、また一人になっちゃう」
「一人になんてならないよ。みんながいるだろ?」
「あなたに会えなくなるなんて嫌だ」
ジョシュの顔に笑顔が広がった。
ガムランは彼に言ったのだ。もしミアが幸せでないのなら『あちら側』に送り返せと。今の彼女は幸せそうに見える。でもそれはジョシュが一緒にいるからだ。それならば24世紀へ送り返そう。彼がいなくなった後のことはガムランが面倒をみてくれるはずだ。
「それじゃ、24世紀に戻ろうよ。そうすれば俺は修理してもらえる」
ロボットにだって嘘はつける。嘘は苦手だが今はそんなことは言ってはいられない。残された時間は僅かなのだから。
ジョシュはミアに微笑みかけると優しく抱き寄せた。繊細で傷ついた心の宿る華奢な身体。これは彼のものだ。だから最後まで彼が守らなくちゃならない。
ミアがうなずいた。
「分かったわ。ジョシュが直して貰えるのなら戻らなくちゃね。あなたと一緒にいられるのならどこにだって行くわ」
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背後でサジが二人の会話を聞いていた。ミアが『天上世界』へ戻ってしまうという話は寝耳に水だ。ジョシュに対して最初に感じた嫌悪は彼を知るにつれて薄れていった。今ではもう二人の関係を認めることもできる。だが彼がミアを連れ去ってしまうとなると話は別だ。
サジは切れ長の目で冷たくジョシュを見つめた。彼を止めなくてはならない。例えどんな手段を使うことになろうとも。
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ミアと別れジョシュだけがオフィスに戻った。昼休みも終わっていないというのに、すでに仕事に没頭しているサトルに話しかける。
「サトル」
サトルが顔をあげた。
「どうした?」
「ミアが戻る気になった」
「本当か? どうやって説得したんだ」
「このままここにいたら俺が壊れてしまうって言ったんだよ。修理が必要だって」
「なんだ、嘘ついたのか」
「嘘じゃないよ」
ジョシュが寂しそうに笑った。
「嘘ならよかったんだけどね」




