【サイドストーリー5】 穴の底のミア その8
ガムランがヒルダの前にラテの入ったマグを置いた。
「豆を変えたんだ。飲んでみろ」
彼のいれるコーヒーには定評がある。ヒルダはマグを持ち上げると香りのよい液体をそっと口に含んだ。いつもの事ながらエスプレッソの濃さもミルクの泡立ち具合も文句のつけようがない。
「おいしいわ。前よりも酸味が弱いみたい」
「だろ?」
彼が愛用しているのは21世紀から持ち込まれた古ぼけたエスプレッソマシンだ。毎回、抽出具合が微妙に変わるのが魅力らしい。
「どこでこんな特技を身につけたのよ?」
「昔、天才バリスタに師事したことがあってな」
謎めいた笑みを浮かべると、自分もマグを持って向かい側に腰を下ろす。
「集められるだけの記録は集めた。大半がデータ化されてなくてな、苦労したぞ」
「あんなの、どっから探してきたの?」
「収集家を片っ端から当たったんだ。当時の手書きの文書が残ってた。もう目は通したな」
「ええ。面白いわね。確かに作り話とは思えない」
彼の見つけてきた文書というのは、異世界から来たとされる二人の男の証言を、当時のオカルト研究家達が書きとめたものだった。
「一人目と二人目の男の証言には大きな食い違いがあってな、そのために当時は信憑性が疑われたようだ」
「全く違う場所の話をしてるみたいな箇所が多いわね」
「俺が思うに二人は違う国から来たんだ。そこでは『サキ=デム=ガルジ』と『サイガエアナ』という大国が対峙していると考えると納得がいく。向こう側の文明はこちらより数世紀は遅れているようだ。21世紀の平行世界である可能性もあるな」
ガムランはラテを一口すすった。
「『サキ=デム=ガルジ』から来た男の証言には『神殿では召喚師が朝昼晩と呪文を唱えつづけ……』とある。俺が思うにパスワードをくり返し唱えることにより『穴』を開きっぱなしにしているんだろうな」
「被害者の前後に『穴』を使った人は大丈夫だったんでしょ?」
「タイミングがぴったり合わなきゃいけないのかもしれないなあ」
「試してみたの?」
「もちろんだ。ミアがいなくなった直後に同じ『穴』から小型のロボットを立て続けに送り込んだ。一台ぐらい向こうに引きずり込まれるんじゃないかと思ってな。全部、無事に21世紀に到着しちまったがな」
「『穴』を開くのに必要なのはパスワードと『穴』を開こうという意志ね?」
「ドアを開けよう、ってぐらいの意志があれば『穴』は開くからな」
「21世紀じゃないほかのところに行きたいって願ったら?」
「それでも21世紀にしか繋がらない。キッチンのドアを『風呂場に行きたい』と願って開けてもキッチンにしか通じないのと同じだ」
ヒルダは首をひねった。『穴』の向こう側では犠牲者を引き寄せようと『召喚師』とかいう連中が何百年もの間、日夜パスワードを唱え続けているのだ。なんて気味の悪い話なのかしら。遠い未来の知識をもった人間にはそれだけの価値があるのだろう。引きずり込まれた人達がどんな目に遭っているのか想像しただけでも背筋が寒くなる。ガムランがいつになく真剣なのも分かる気がした。
「私の勘じゃね、鍵はやっぱりそこにあるわ。何を願って『穴』をくぐるか。間違ったこと考えてるとあっちのパスワードと感応して『穴』がおかしなところに通じちゃうのよ」
反応を探るようにガムランの顔を見る。人間の想像の超えた力を持っているくせに決して人の限られた能力を見下すことはない。 認めたくはないけれど彼の人格をプログラムした人間こそ真の天才って奴だわ。
「じゃあ、その線で考えてみろ。お前の勘はよく当たるからな」
にやりと笑うとガムランは出て行った。
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ジョシュがやってきて三週間目の朝のことだった。ミアは隣で眠る彼の顔を見つめた。今からこの人は目を覚まし、「君はだれ?」と聞くだろう。昨夜、あれだけ愛し合ったというのに何一つ思い出すこともなく。
ミアは上半身を起こすと枕の下にノートをしまった。ベッドの揺れでジョシュが目を覚ます。彼女は冷ややかに彼の顔を見下ろした。
「お前はだれだ、って思ってるんでしょ?」
彼の目にとまどいが浮かぶ。
「……ここはどこ?」
「知らないわ」
「変だな。『穴』をくぐったと思ったのに。あれ? ネットワークが見つからないよ」
「そう」
何でこんな意地の悪い事してるんだろう。ジョシュは泣きそうな顔で部屋の中を見回している。彼が悪くないのは分かってる。でも自分を思い出せない彼を罰してやりたい気分だった。
ジョシュは起き上がると自分が服を着ていないのに気づいた。
「俺の服は?」
「そこ」
「これ、俺のじゃないよ」
「それしかないの」
彼は明るい緑色のチュニックを手に取った。よく分からないまま身につけると怯えた顔でミアに尋ねる。
「俺、どうしたらいい?」
「分かんない」
「あの、どうして俺は君と寝てたの?」
さすがにこれは堪える。ミアは彼から目をそらせた。
「知らないわ」
「俺、行くよ。君を怒らせちゃってるみたいだし。よく分からないけどお世話になったみたいだね。ありがとう」
彼は靴も履かないままドアを開けて表へ出て行った。自己嫌悪に押しつぶされそうになってミアは頭から毛布をかぶった。
『キト=マグス』の関係者はみんなジョシュのことを知っている。『召喚』されたショックで物忘れがひどくなったと話してあるから、すぐにここに連れ戻されてくるだろう。
それ? 明日の朝にはミアのことを忘れてしまう男とまた一緒に暮らすっていうの?
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朝食も取らずテーブルに突っ伏したまま出仕の時間が来た。誰もジョシュを連れ戻して来ないところをみるとサトルのところへ連れて行かれたのかもしれない。椅子の背に掛けてあった昨日のチュニックを頭からかぶり、サンダルを突っ掛けると、ドアを開けて外に出る。渡り廊下の欄干にもたれて、ジョシュが手入れの行き届いた中庭を眺めていた。
「まだここにいたの?」
ジョシュが振り向いた。彼女の顔を見て笑顔を浮かべる。彼の笑顔を見るとミアは何も言えなくなった。駆け寄って彼の身体に両腕をしっかりと巻きつける。
「ど、どうしたの?」
「ごめんね」
ミアの謝罪にジョシュが戸惑いの表情を浮かべた。
「……俺は君に迷惑をかけてたんだよね」
「そうよ」
「それなのにどうして君が謝るの? やっぱり君は俺を知ってるんだろ?」
ミアはジョシュの手を引いて部屋に戻り、彼の手にノートを押し付けた。促してページをめくらせる。
細かい字で書き込まれた昨日までの日記を読み終えると、ジョシュは安堵の笑みを浮かべた。
「そういうことだったんだね。今朝はどうしてこのノートを見せてくれなかったの?」
「だって、腹が立ったのよ。毎朝、忘れられちゃうから……」
「そうだね。腹も立つよね」
ジョシュはミアの意地の悪い仕打ちに怒ろうともしない。人間に対して悪い感情を持てないようにプログラムされてるんだろうか。
「ミアは辛いだろうね」
「でもジョシュの方が辛いでしょ? 何も覚えていられないなんて」
「そんなことない。すごく幸せな気分だよ。きっと毎朝、このノートを読むたびに同じように感じてるんだよ」
「こんなノートに書かれたこと、信じちゃうの?」
「うん、だって本当のことなんだろ? 嘘だって構わないよ。ミアといられるんだったら」
ミアはジョシュを抱きしめた。好きで好きで仕方ない。
「ねえ、ロボット工学者が召喚されてこないかな。あなたが毎朝忘れちゃわないようにしてもらうの」
ジョシュが笑う。
「会社のラボじゃなきゃ俺は直せないよ」
「人間の私の方が記憶力がいいなんておかしな話よね」
「そうか、ミアには補助記憶装置が入ってるんだよね?」
「うん」
彼の顔に笑顔が広がった。
「すごくいい事思いついたんだ。これでもうミアのことを忘れないよ」
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毎朝、ミアはジョシュが「君はだれ?」と質問する前に一枚の小さな紙切れを手渡す。ジョシュは戸惑いながらもいつだって素直に紙に書かれた指示に従う。
そして、ミアの顔を見て笑う。
「おはよう、ミア」
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オフィスに入って来たジョシュがサトルに向かってにっこり笑って見せた。
「おはよう、サトル。昨日の続きから始めようか」
「昨日の事、覚えてるのか? どうなってるんだ?」
ジョシュに続いて入ってきたミアが得意そうに説明する。
「驚いたでしょ? ジョシュがね、すっごくいい事考え付いたのよ。毎晩、眠る
前に私の補助記憶装置に記憶をバックアップするの。そして朝起きたらそのファイルをまた読み込み直すのよ」
「へえ、よく考えたな。ロボットの記憶を保存しておけるほどの容量があるのか? うらやましいな」
「余裕よ。サトルのいた頃からもう十年も経ってるのよ」
サトルは驚いた顔でミアの晴れやかな笑顔を見つめた。彼の知る限りこちらに引き込まれた人間は、最初のうちこそ動揺していても数ヶ月経てば自分の居場所を見つける。『召喚』されてくるのは何故か『あちら側』の暮らしに未練を感じない者ばかりなのだ。サトル自身がそうであったように。
それなのにミアは半年経ってもこちらの生活に溶け込もうとはしなかった。24世紀が恋しいのかと聞くとそうではないと言う。どこにいたって自分はこうだから、そう言って諦めたように笑う彼女はサトルの悩みの種だったのだ。
だがジョシュに出会ってからの彼女は、ここでの暮らしを心から楽しんでいるように見える。彼をミアの元へと送り届けてくれた偶然にサトルは心から感謝していた。




