【サイドストーリー5】 穴の底のミア その4
翌朝、目を覚ましたミアは隣で眠るジョシュを見て微笑んだ。幸せそうな寝顔。見知らぬ世界に引きずり込まれたばかりだとは思えない。そっと顔を近づけて頬にキスした。
彼がゆっくりと目を開ける。ミアの顔を不思議そうに見つめ、それから急に上半身を起こした。
「君はだれ?」
「……ミアだけど」
「ミア?」
慌てて部屋の中を見回す。彼の目に浮かんだパニックの色にミアは不安になった。
「ここはどこ? 俺はどうしてこんなところで寝てるの?」
「覚えてないの?」
「21世紀に行こうとして『穴』をくぐったとこまでは覚えてるんだけど……」
救いを求めるようにミアの顔を見つめる。
「何か起こったの? 俺、事故に巻き込まれた? ここは21世紀? それともまだ24世紀にいるの? どちらのネットワークも見つからないよ」
「どっちでもないの」
ミアの言葉にジョシュが凍りついた。
「昨日起こったことを忘れちゃったんだね。あなたはね、『穴』を抜けて全然違う世界に来てしまったの。『召喚』されてしまったのよ」
「召喚?」
「そう。あなたは昨日、24世紀から……」
彼女の言葉が聞こえないかのようにジョシュがつぶやいた。
「……帰らなきゃ」
「帰れないの」
「え?」
「ここからはもう戻れないの」
「そんな、嘘だろ? じゃ、俺はどうなるの?」
「ここで暮らすのよ。慣れるまで私があなたの面倒を見ることになったの。だから心配しないで」
「君が?」
彼の瞳がミアの顔に焦点を合わせる。彼女が人格を持った存在だとようやく気付いたみたいに。自分とミアが服を着ていないことに気づいて彼の目が見開かれた。
「……俺、君と?」
「うん」
彼はミアから目をそらすと恥じるように下を向いた。
「ごめん、本当に覚えてないんだ」
「いいよ。きっと『召喚』されたショックだよ」
ゆっくりと彼女の顔に視線を戻してジョシュは首を傾げた。
「でも……君の事は知ってる気がするんだ。不思議だな」
「それじゃ昨日のこと、少しは覚えてるの?」
「ううん、全然。でも君の顔と声は思い出せそうな気がする。気のせいかな?」
「……私の事、好きだって言ったのも覚えてないんだね」
「俺、そんな事言ったの? 昨日出会ったばかりなんだろ?」
「うん、そうなの。おかしいよね」
ミアは彼から目をそらせた。そんなに簡単に忘れちゃうなんて本気にさせといてそれはないでしょ? 急に意地の悪い衝動に駆られて彼女は一言付け足した。
「それにね、眠る前にこれからはずっと一緒に暮らそうって約束したんだよ。パートナーになろうって」
ジョシュの顔に驚きが浮かぶ。ほら、見なさい。おかしな女とおかしな約束しちゃったって思ってるんでしょ? 酔っ払って誰かと寝ちゃったときと同じね。
「その約束はまだ有効?」
彼がおずおずと尋ねた。
「俺、君と一緒にいてもいいの?」
予期しなかった問いかけにミアは口ごもった。
「あ、あなたさえよければ構わないけど……」
「よかった。昨日の俺はきっと本気だったと思うんだ。だって君は凄く素敵な人だから」
陳腐なせりふも無邪気な彼の口から聞くと最高のほめ言葉に聞こえた。ジョシュが幸せそうな笑顔を浮かべる。
「目が覚めたら彼女ができてたなんて夢みたいな話だね」
やっぱりこの人はおかしいんだ。でも、そんな男に惹かれてる私はもっとおかしいのかもしれない。微笑みを返しながらミアは思った。
*****************************************
出仕の時間になるとサジが部屋まで迎えにやって来た。改めて彼をジョシュに紹介するミアに怪訝な顔をしたものの、あえて質問をしようとはしない。賢人達のやることはいつだって謎だらけだ。いちいち気にしていては弟子なんて務まらない。
サトルのオフィスに向かう間もジョシュはくつろぎきった様子だった。ミアと一緒にいることが嬉しくて仕方ないようだ。 目新しいものを見つけてはミアに質問する。24世紀は恋しくないんだろうか? 彼に聞いてみようかとも思ったがそれでホームシックになられては困ると考え直した。
彼らがオフィスに到着するとサトルのほかに四人の賢人達がジョシュを待ち構えていた。
賢人はサトルを含め全部で12人いるのだが、半数は地方へ出張中だ。もちろんサトルからの連絡でジョシュが仲間に加わったことは知っている。 今日の顔ぶれは農学担当のハナフィ、歴史学者のリンドン、科学全般を受け持つサリナとヨアキムの夫妻。サリナ以外は男性だ。
おしゃべりなハナフィが口火を切った。彼は恰幅のいい四十代の男で『召喚』されてもう二十年近くになる。この国の女性と結婚し子供は四人。子供達が騒がし過ぎるということで、今では小さな離れを与えられそこで暮らしている。
「『穴の底』へようこそ、ジョシュ」
「穴の底?」
戸惑いを顔に浮かべてジョシュが聞き返す。首を傾げる。
「この世界の奴らは俺達が『天上世界』からやってくると信じてるからな。ここは世界のどん底にあたるわけだ」
リンドンが説明した。神経質そうな見かけからは思いもつかないほど陽気で豪胆な男だ。24世紀でも歴史学の教員をしていたとかで、この平行世界の歴史にも並ならぬ興味を抱いている。
「一度はまると二度と抜け出せない。まさに穴の底だろ?」
「おい、ジョシュ」
その話題は新入りには酷だと判断したサトルが慌ててジョシュに話しかけた。
「昨夜はよく休めたか? 今日は君のこれからについて話し合おうと思ってね」
サトルの言葉にすかさずサリナが前に出た。
「それなんだけど、彼を私たちのほうに回してくれないかしら?」
サリナは金属的な輝きを放つ長いホワイトブロンドの髪とアメジスト色の瞳の持ち主だ。自然界ではありえない奇抜な色の組み合わせに彼女が城外へ出ると誰もが振り返る。夫のヨアキムはそれとは対照的に地味で無口な男だ。
「ちょっと待ってくれよ。俺のほうも人手が欲しいんだ。ジョシュ、君の専門はなんだ?」
ハナフィも名乗りを上げる。このまま話が進むとまずい。慌ててミアが口を挟んだ。
「ちょっと待って。ジョシュなんだけど、昨日の記憶がないの」
「なんだって?」
サトルが目を丸くした。
「今朝、目を覚ましたら昨日のことをすべて忘れてしまってたのよ」
「本当か、ジョシュ?」
ジョシュが惨めな顔でうなずいた。リンドンが同情するように彼の肩に手を置く。
「ストレスのせいだよ。俺もここに来たときには一週間寝込んだからな。今日ぐらいはゆっくりさせてもらえよ。どうせこれからは馬車馬のようにこき使われるんだからな」
気を利かせたハナフィが、ほかの賢人達に退出するよう合図した。彼らはジョシュに励ましの言葉をかけながら、ぞろぞろと部屋から出て行った。
*****************************************
今朝はジョシュは皇帝に謁見することになっていた。新しい賢人は『召喚』された翌日に皇帝の前に引き出される決まりだ。記憶をなくしたからと言ってこれを延期するわけにはいかない。
「大丈夫だよ。俺がついて行って何を言えばいいのか『通信』で指示してやる」
そうサトルに言われジョシュは安心したようだ。賢人たちが言葉を口にせずに会話できることは秘密ではあったが、皇帝側もうすうす感づいている様子だった。
サトルが『大賢人』に選ばれたのは皇帝との交渉役に適任だったらからだ。口先がうまいだけでなく度胸があり機転が利く。これまでも皇帝側にいくつもの難しい要求を呑ませてきた。24世紀では一介のエンジニアに過ぎなかった彼も自分に隠されていた才能に驚いたようだ。『大賢人』という呼称は昔の賢人が『あちら側』のファンタジー小説から拝借したらしい。『archmagi』、つまり、魔法使いたちの長だ。
サトルがジョシュとリンを引き連れて宮殿に向かうのを見送った後、ミアは自分の持ち場に向かった。
*****************************************
昼休みになったのでミアはサトルのオフィスに顔を出した。ジョシュが気の抜けた様子で椅子にもたれかかっている。
「どうだった?」
「緊張しちゃったよ。皇帝ってもっと怖い顔してるのかと思ってたけど普通のおじさんなんだね」
「私には十分恐ろしい人に見えるわ」
ミアは皇帝の温かみのかけらもない黄ばんだ目を思い出して身震いした。そう、彼は恐ろしい人間だ。彼の一言で数万人の人間が惨めな死を遂げるのだから。
サトルが振り返るとジョシュに笑いかけた。
「ご苦労だったな。今日はミアに街に連れてってもらえばどうだ? これから住む場所を見とくのもいいだろう?」
「ですが、ミア様には講義がございます。一時間後です」
サジが慌てて口を挟んだ。
「今日のは基礎の基礎だろ? データを貰えれば俺が出てやるよ」
「それにジョシュ様にはまだ付き添いの者が決まっておりません。 外出するわけには……」
賢人が『弟子』や『世話係』を連れずに城外へ出ることは許されていない。
「お前が二人一緒に見張ってれば問題ないよ。上にもそう伝えておく」
見張るという言葉を使われてサジは思わず言葉を返した。
「私はミア様の弟子でございます。ミア様の行動を監視などいたしません」
「すまなかった。お前のことは信頼してるよ。二人を頼むな」
サジの傷ついた口調に驚いてサトルは素直に謝った。




