【番外編1】アミーナ その2
ある日、キースが言った。
「この国はね、僕の大好きな人が生まれた国なんだよ。アミーナにはこの国の言葉を覚えて欲しい」
「日本語を? でも、私が歩けるようになったら、すぐに国に帰されるんじゃないの?」
「帰りたいの?」
あの男の家には戻りたくなかった。友達には会いたいけど、それでもあの生活に戻るのは嫌だ。
「ここにいてもいいの?」
「もちろんだよ」
「でも、滞在許可なんて簡単には降りないって聞いたよ」
キースの笑う声を聞いて、アミーナは馬鹿げた質問をしたことに気づいた。彼にできないことはないんだったっけ。
「じゃ、アミーナはこれから日本で暮らすんだよ。お母さんにもそう伝えてもらうからね」
「お母さんは家に帰らないといけないんでしょ? あの男のところに戻らなきゃ、叔父さん達になんて言われるかわかったもんじゃないわ」
「あんなところに戻ることないだろ? 叔父さん達にも二度と会わなくていい。すべて僕達に任せてくれればいいんだよ」
「あなたは私にここにいて欲しいのね。どうしてなの?」
「わけは言えないよ。でも、とても大事なことなんだ。君にとっても僕にとってもね」
キースがそう言うんだから本当に大事なことなんだろうな。これからは頬の赤い看護師に、『ありがとう』と言おうと秘かに心に決めた。
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その日は朝から病院中が騒然としていた。若い看護師たちはみんなおしゃべりに夢中だし、掃除のおばさんはいつもよりも念入りに廊下の床を磨いている。
アミーナはキースに言われた通り日本語の勉強を始めた。あの会話の翌日に届いた日本語教材を使って、簡単な物の名前や挨拶程度ならわかるようになっていた。看護師の名前がサトミさんだというのも知った。彼女がおずおずと日本語で名前を尋ねたとき、サトミさんは嬉しそうだった。それ以来、彼女に話しかけるときは、わかりやすい言葉を選んでくれる。サトミさんのおかげで聞き取りが上達したように思う。
乏しい語彙を駆使して、サトミさんから騒ぎの理由を聞き出そうとしたが、何度説明されても分からない。サトミさんは詰め所から週刊誌を持ってきて、俳優の写真を見せてくれた。どうやらその俳優がこの病院にやって来るらしい。彼女は彼の顔を知っていた。たしかキース・グレイっていったはず。彼女の好きなアメリカの映画に出てたんだ。
アミーナが家で恋愛映画なんて見ようものなら、あの男は顔を真っ赤にして怒った。色気づきやがって、そう怒鳴って彼女を殴ることもあった。だから映画は友達の家で見た。アミーナは海外の恋愛映画が好きだった。映画の中で男と対等に恋をしている女性達がうらやましかった。自分が将来どうなるのか知っていたから、余計にうらやましく思えたのかもしれない。
彼女の母親があの男と再婚して以来、あいつはアミーナの嫁ぎ先を探し回っていた。彼女は整った顔立ちをしていたので興味を示す男はたくさんいた。どの男も20歳以上も年上だ。嫁いだら最後どんな目にあわされるのか、彼女は11歳にして理解していた。年上の子供たちから恐ろしい噂を聞かされていたからだ。
サトミさんはアミーナの髪をいつもより丹念に整えた。鏡を見せて気に入ったかどうか何度も確認する。俳優が病院に来るってだけで、アミーナまでおめかしするなんておかしな話だ。
その謎は昼食の後に解けた。
彼女の病室に院長先生に伴われてキース・グレイが入ってきたのだ。ずんぐりした院長先生よりも頭一つ分背が高い。地味なスーツを着ているのに不思議に存在感があった。まるで後光でも差してるみたい。
キースは笑顔でサトミさんに話しかけた。英語なのかな? サトミさんは赤い頬をますます赤くして彼をアミーナのところに案内した。
アミーナのベッドの横に立つと、彼は彼女の顔を見てにっこり笑った。ウェーブのかかった茶色くて柔らかそうな髪が、滑らかな顔の輪郭を縁取っている。アミーナの周りにいた粗野な男達とはまったく違う。
なんて綺麗な人なんだろう。まるで……絵から抜け出てきたみたい。
キースは笑顔でアミーナと握手した。優しく英語で話しかける。彼女は理解できないことを伝えようとして首を横に振った。誰も彼女のために通訳を呼ぼうとは思いつかなかったようだ。後から入ってたカメラマンがキースと彼女の写真を撮る。記者の質問にいくつか答えたあと、キースは院長先生に話しかけた。 院長先生が大人たちに部屋から出て行くように指示する。最後に自ら部屋を出ると、慇懃な笑顔を浮かべてドアを閉めた。キースだけが後に残される。何が起こっているのかわからず、アミーナはじっと彼の顔を見つめていた。
「さて、やっと二人っきりになれたね」
彼女の国の言葉を話すその声を聞いて、アミーナは理解した。なんだ、キースってこのキースのことだったのか。
「あなた、カラスじゃなかったのね?」
「俳優でもないんだよ。本当はね」
キースが笑う。
「あまり長居はできないんだけどね、一度、君の顔を見て話したかったんだ」
手を伸ばしてアミーナの義手に触れる。
「今のところ、これが一番実用的なモデルなんだ。君が大人になるころには、自分の意思で動かせる義手もできるよ。今よりもずっと使いやすくなる」
次に彼はアミーナの左手に触れた。暖かなキースの手の感触に彼女は思わず赤くなった。動揺を隠そうとうわずった声で質問する。
「これはなんの騒ぎなの?」
「この病院に百万ドルほど寄付したんだ。テロ被害者の少女を受け入れてくれたことに感謝してね。君はある民間支援団体のおかげで、ここで治療を受けていることになってる。慈善活動に熱心な『キース・グレイ』は、その支援団体を更に支援してるってわけなんだ」
ことになってる?
「病院にとっちゃ絶好の宣伝のチャンスだからね。話題の二人を面会させてくれたわけだよ」
「私がここにいるのは、その支援団体が決めたからじゃないよね?」
キースが微笑む。
「うん」
「わけを教えてよ。あなたに言われて日本語だって勉強してるんだよ」
「いつか、君にもわかる日がくるよ」
緑がかった深い茶色の瞳でキースが彼女の顔を覗き込んだ。そのとたん、アミーナはドキドキして何も言えなくなってしまった。ここにいるのはただのキースのはずなのに、どうしちゃったんだろう。
でも、これだけは聞いとかなきゃいけない。アミーナは震える声で尋ねた。
「あなたは……誰なの?」
「それもいつかわかるよ。僕が何なのか、君ならきっと気づくはずだ」
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それからも毎日、キースとの会話は続いた。会話の途中、彼の顔を思い浮かべるたびに動悸が早くなった。サトミさんはキースの出ている映画を、毎日のように借りてきてくれた。英語の音声に日本語字幕なのでどちらもさっぱりわからなかったが、アミーナは動いているキースが見られるだけで嬉しかった。
その日見た映画には、手足の長いきれいな女の子が出演していた。18歳ぐらいだろうか。今よりもずいぶん若いキースは、その子に一目ぼれした。告白して優しくキスをする。アミーナはリモコンに手を伸ばすとテレビを消した。見たくなかった。ただのお話だって分かってるはずなのに……見たくなかったんだ。
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その晩、キースが、彼の好きな人は日本で生まれた、と言ってたのを思い出した。
キースには好きな人がいるんだ。彼が好きになるぐらいなんだから、きっと素敵な人なんだろう。その人と一緒に暮らしてるのかな? 彼に愛されるなんてどんな気分なんだろう。急に悲しくなって上半身を起こすと、アミーナはガラス窓に映った自分の姿を見た。
あと十年もすれば、アミーナだって結婚してもおかしくない年になる。でも、誰が彼女を好きになってくれるだろう。手も足も一本ずつしかない女なんて。五体満足で働き者のお母さんでさえ、あの男は殴ったのに。
その晩、アミーナはなかなか寝付けず、何度も寝返りを繰り返した。
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クリスマスの前日、アミーナは退院した。まだリハビリには通わなきゃならないし、義足も義手もしばらくは調整が必要だ。けれども、母親と妹と一緒に暮らせるようになったのは嬉しかった。タクシーの乗り場までサトミさんが見送ってくれた。彼女と別れるのはすごく寂しい。病院に来る時には必ず顔を出すと約束した。
小さなアパートに戻り、にぎやかな夕食が終わったところで、アミーナの携帯電話が鳴った。
申し訳なさそうな声でキースが言った。
「これが最後の電話になるよ」
「どうして? どこかに行っちゃうの? 」
「うん 」
「もう話せないの? 」
「うん 」
「カラスは? カラスも来てくれないの? 」
「うん」
うん、しか言わないキースに、アミーナは泣き出した。 母親があの男に嫁いだ時に、彼女は泣くのをやめた。手足を失くしたときにも、リハビリが辛かったときにも泣かなかった。なのに、今はどうしても涙が止まらない。驚いた妹がアミーナに話しかけようとしたが、母親が止めた。
「大丈夫だよ。君の面倒はみんながみてくれるからね」
「でも、私はこれからどうなるの?」
「この国で勉強するんだよ」
「それは聞いたわ。でも大人になったら? 私、女だから一人じゃ生きていけないよ」
「君の国ではまだ難しいかもしれないけどね、日本でなら女性だって独り立ちできるんだよ。君は人一倍頭がいい。心配することないよ」
「頭のいい女は生意気だって言われちゃう」
「誰もそんな事言わないよ」
「でも…… 」
キースにはわからない。はっきり言わなきゃわからない。
「……男の人は、私なんていらないっていうわ」
「ああ、そんなことを心配してたんだね」
それっきりキースは黙り込んでしまった。彼女にかける言葉がみつからないんだろう。彼は適当な慰めなんて言わないから。
長い沈黙の後、彼が口を開いた。
「君はね、大学在籍中に素敵な男性に出会うんだ。優しくて、君をとても大切にしてくれる人だよ。生涯、変わらずにね」
電話の向こうで、キースはいたずらっ子のように笑った。
「本当は、こんな事教えちゃ叱られちゃうんだけどね。これは僕からのクリスマスプレゼント。僕に聞いたなんて誰にも言っちゃだめだよ」
そしてこれはアミーナの生涯で一番素敵なクリスマスプレゼントとなった。
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夕食後、席を立とうとするキースをサエキが呼び止めた。
「キース、ミヤジマ博士の件はどうなってる?」
「リハビリは順調ですよ。このまま日本に滞在さえしてくれれば問題ありません。来月からは地元の小学校に編入するんですよ」
サエキが眉を寄せる。
「最初から日本の小学校だなんて大変じゃないのか? 身体だって不自由なんだろ?」
「英語が話せませんからね、インターナショナルスクールに入れるわけにもいかないんですよ。NGOを通して日本語教師とヘルパーを手配してあります。とても利発な子なんです。すぐに溶け込めますよ」
「まさかテロに巻き込まれるとはな。死なずにすんで本当に良かったよ。危うく未来が変わっちまうところだ」
「僕達が干渉しなければ、おそらくあのまま感染症で死んでいたでしょうね。一年前に博士本人だとわかり、監視を始めたところだったんです。僕の目の届くところにいてくれて不幸中の幸いでした」
「さすがのガムも、こればっかりは許可を出さないわけにはいかなかったからな。俺も会ってみたいよ。アミーナ・ミヤジマ博士なんて歴史の教科書に載ってる人物だからな。一緒に写真を撮ってくれなんて頼んだら、怪しいおじさんになっちまうかな?」
キースがくすりと笑った。
「未来のコンピュータ工学の礎を築いた人ですからね。あやうく僕まで存在しなくなくなるところでしたよ」
-おわりー




