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93. 父との確執

 エリクスは悩んでいた。


 事態は明らかに悪くなってきている。だがヨセフィーナの『父と話してみたら』という忠告を素直に受け入れることはどうしてもできずにいた。


(今さらあの父と何を話すことがあるというんだ?)


 もう長いこと父とまともに会話すらしていない。それにルーイ家の名前だけで議員の仕事をしているようなあの人に、芸術にしか興味も関心も無いあの人に、いったい何を聞けばいいと言うのだろうか。


(いや、色々自分に言い訳しても、結局俺は父と本気で向き合う勇気が無いだけなんだよな・・・)


 そんなことをつらつらと考えながら馬車で一旦自宅に戻る。そして二人で会うことを気まずく感じているであろうマイラに会う前に急いで事務所に戻ろうと、早足で自宅の門をくぐった。


「お兄様?」


 だが気遣いも虚しく、そこには久々に見るマイラの姿があった。この時間はいつも自室にいるはずなのにと焦りつつも、こうして彼女と顔を合わせられたことをついつい嬉しく思ってしまう。


「マイラ!」


 お互いに避けあっていたことなどすっかり忘れ、駆け寄ってきてくれた彼女を思わず抱きしめそうになる。必死でそれを思いとどまり、エリクスは彼女に兄らしい笑顔を向けた。


「どうしたんですか?今すごい顔してましたよ?何かあったんですか?」


(あんなことがあったのに、俺が困っていると思ったら自分の気持ちより俺への心配が先に立つんだな・・・)


 ふと、あの日衝動的にマイラにキスをしてしまった時のことを思い出す。あの夜、柔らかで甘い香りを纏う彼女にエリクスの理性はほぼ消えかかっていた。


「そんなに酷い顔をしていたかな?まあ、ちょっと色々あってね。マイラは実技の練習かい?」


 マイラはその問いには答えず、怒ったような顔でエリクスに詰め寄る。


「はぐらかさないでください!何か困っているなら相談してください!たいしたことはできませんが、それでも私はお兄様の力になりたいんです!」

「マイラ・・・」


 潤んだ瞳で見上げる彼女の表情が、エリクスの理性を再び決壊させていく。気がつくとマイラを自分の腕の中に包みこみ、そのふんわりとした髪にキスをしてしまっていた。


「お、お兄様!?」


 マイラの動揺した声が胸に響き、無理やり引きずりだした理性を再度働かせて、エリクスは何とか彼女から離れた。


「マイラ、まだ君に話せないことがほとんどなんだ。それでも俺は・・・まだ何も諦めたくない。何を言っているのかわからないと思う。だが俺が今からしようと思っていることはとても勇気がいることなんだ。もしよければ、一緒に行って俺を支えてくれないか?」


 マイラはその言葉に驚いた表情を浮かべる。だがすぐに頬を紅潮させて笑顔で頷いた。


「私があなたのためにできることは何でもしたいです。だから、一緒に行きます。」


 決意を込めたその顔は、いつもよりずっと大人びて見えた。エリクスもまた笑顔を向けると、マイラの手を取り今入ってきたばかりの門を抜けて、再び屋敷を離れた。



 ― ― ― ― ―



 マイラはエリクスの後ろ姿を見ながら馬車に乗り込む。


 先ほどまで庭で実技練習をしていたマイラは、ぽつぽつと自分の中に無い記憶が戻りかけているのを感じていた。



 幼い頃、見たこともない一人用の乗り物に乗り、転んで怪我をした自分。その時に笑顔で怪我の手当てをしてくれた優しい人達。


 薬品の匂いで緊張していたはずなのに、気がつくとすっかり元気を取り戻し、一緒に笑っていたことを思い出す。そして振り返ったそこには、ほっとした顔をした『母』の姿があった。


(お母さん・・・ああ、私はこの人を何度も泣かせてしまったんだろうか・・・)



 そんな白昼夢から目を覚まさせてくれたのは、エリクスの姿だった。


 彼は門をくぐってマイラのいる方へと歩いてくる。だがその表情は暗く、何かを深く思い詰めているようにマイラには思えた。あれほどお互いに避けていたはずなのに、どうしてもそんな彼を放っておくことはできなかった。


「お兄様?」


 思わず駆け寄り、声をかける。すると彼は笑顔になり、マイラの心配する声にも平気そうな顔で何かを誤魔化そうとしていた。


(そうやっていつもお兄様は私に心配をかけまいとするんだから!)


 マイラは先ほど取り戻した過去の記憶の断片を思い出す。


 『母」が私のことを何よりも心配してくれていたように、私も今の家族を、誰よりも目の前にいるこの人のことを心配している。助けになりたいと思っている。


「はぐらかさないでください!何か困っているなら相談してください!たいしたことはできませんが、それでも私はお兄様の力になりたいんです!」

「マイラ・・・」


 彼は一瞬苦しそうな表情を浮かべると、マイラを強く抱きしめた。髪に彼の唇が触れる。マイラは急なことにドキドキしながらも、再び彼と触れ合えた喜びに胸がいっぱいになっていた。


 彼のためにできることをしたい、その素直な気持ちがエリクスの心を動かし、今マイラは彼と共にどこかへ向かおうとしている。



「お兄様、私達はどこへ向かっているんですか?」


 馬車に乗り込むなりマイラはエリクスに問いかける。彼は隣に座り手を握ると、ゆっくりとその問いに答えた。


「これから、父の元に向かう。・・・俺はずっと父との対話から逃げてきたんだ。幼い頃は大好きだったはずなのに、いつの間にか仕事を母任せにして芸術にばかりのめり込む父を軽蔑するようになっていた。父とまともに話すことがなくなってもう何年も経つ。」

「そう・・・だったんですね。何か大事なお話ですか?」

「ああ。俺の未来のために、いや、俺とマイラの未来のために必要なことなんだ。そのために俺はもう逃げないと決めた。」

「お兄様・・・」


 エリクスがマイラの手を自分の方へと引き寄せる。


「話の内容を君に聞かせるわけにはいかない。でも近くにいてくれるだけでいいから、今日は俺の心の支えになっていてほしい。」


 その言葉は、マイラの心にさざなみのように静かな喜びを広げていく。大切な人に心から頼られたことが嬉しくて、彼の手を強く握り返した。


「はい。私でよければ近くにいます。」

「マイラじゃないと、駄目なんだ。」

「・・・」


 その言葉の意味はもうよく知っている。それでもマイラは、自分の素直な気持ちを、彼のことを自分も好きだという気持ちを、このままずっと胸の中にしまっておこうと決めていた。


 マイラは黙って小さく頷き、前を向く。



 しばらく馬車に揺られていると、石造りの堅牢な建物の前でゆっくりと速度を落として馬車は止まった。


「ここだ。」

「ここはどこですか?」

「父の今のアトリエなんだ。俺は滅多に来ない・・・と言うより、基本的には大事な用がある時以外は来るなと言われている。」

「じゃあ、今はその時ですね。」

「そうだな。マイラは馬車の中で待つ?それとも一緒に中に入るかい?」

「中で待っています。できるだけ、お兄様の近くにいます。」

「・・・ありがとう。」


 感極まった様子のエリクスは、マイラを引き寄せると額に軽く触れる程度のキスをした。マイラが顔を真っ赤にして動揺していると今度は外から馬車のドアが開いたため、二人は手を取り合い、目の前にある飾り気のない建物へと入っていった。



 中に入ると外観の印象とは異なり、温かみを感じさせる色合いの内装が二人を出迎えてくれた。そしてその壁にはいくつもの美しい絵画が掛かっている。


 案内してくれた男性は古くからここを守っているこの屋敷の使用人らしく、エリクスもほとんど来たことはないが顔見知りだと言っていた。


 マイラは玄関近くにある小さな部屋で待つことにし、エリクスはその男性に案内されて彼の父ヨアキムの部屋に向かうことになった。


「マイラ、少しここで待っていてくれ。」

「はい。」


 そう言ってこちらを見た彼の顔には、もう迷いは無いようにマイラには見えた。



 ― ― ― ― ―



 エリクスが案内されて入った部屋は、どう見てもアトリエとは言い難い部屋だった。


 大きな棚には本と書類が入ったケースが整然と並べられ、大きな机の上にはたくさんの紙やノート、手帳などが置かれ、絵に関するものなど一つも見つけることはできなかった。


「エリクス、ぼーっと立っていないでそこに座りなさい。」


 父ヨアキムは窓際に立って外を見ていたが、エリクスが入室したことに気付くと振り向いて声をかけ、息子をソファーに座らせた。


「父上、今日は大事な話があってここに来ました。」


 エリクスはまだ立ったままの父を見ながら、それだけを告げる。ヨアキムはふうと小さく息を吐きだすと、エリクスの前に座り笑顔を見せた。


「いつかこの時が来ることはわかっていた。思っていたより早かったがね。マイラさんのおかげかな?」

「・・・はい。」

「そうか。それで、何を話したいんだ?」


 エリクスは姿勢を正し、真っ直ぐに父の目を見据えた。


「父上、なぜあなたは母に仕事の全てを託してご自分はルーイ家の役割を果たそうとなさらないのですか?なぜ私にバルターク家との婚姻話を持ってきておいて、そのことについて何も説明をしてくださらないのですか?」


 ヨアキムはエリクスの強い視線とそこに込められた思いに応えるように、ひとつ大きく頷いてから微かな笑みを見せた。


「これまでお前に何も事情を説明しなかったことは謝ろう。だが理由があったことだけはわかってほしい。今から話すことはルーイ家がずっと守ってきた秘密の話だ。マイラさん含め他の人には絶対に話してはならない。いいね?」

「はい。」



 そうしてヨアキムから打ち明けられた話は、エリクスにとっては初めて聞く事実ばかりだった。その内容に衝撃を受けただけでなく、事情を深く知ってしまったがゆえに彼は逃れられない自分の運命を知り、絶望の淵に立たされた。


「・・・では、どうあっても私はメリーアン・バルタークとの婚約話を進めなければならない、ということですね。」

「お前には苦労をかけるが、これはお前にしかできないことなんだ。すまない。」


 ヨアキムの顔に深い皺が現れる。それはエリクスが正面から父を見てこなかった何年もの間に刻まれたものであり、彼の苦悩の歴史を物語っているようにも思えた。


「わかりました。ルーイ家を守るためにも、父上が私の知らないところで頑張っていてくださったことを無駄にしないためにも、私ができることをします。」

「ありがとう。何年もお前を騙すような態度を取っていてすまなかった。お前達を、家族を守るためだったとはいえ、父親として申し訳なかったと心から思っている。」


 エリクスは頭を下げる父を見て言った。


「いえ。真実を知った今、あなたは私達にとって最高の父だと思っています。」

「・・・ありがとう。」


 二人の間に長い間流れていた気まずい雰囲気はもうどこにも無かった。互いの理解が深まった今、エリクスは強い決意と共に立ち上がった。


「おそらく来週のパーティーに彼女はやってくるでしょう。そこで自然な形で再会できるように準備しておきます。」

「ああ。こちらも今後は進捗を逐一知らせるようにする。キーツだけは事情を把握している。お前も彼とだけは情報共有して構わない。」

「はい。」


 ヨアキムもまたソファーから立ち上がる。


「マイラさんのことはお前次第だ。だが私は彼女が好きだからね。陰ながら応援している。」


 父の柔らかな笑顔は幼い時に見たものと何ら変わりはなかった。エリクスは自分がどれほど父に愛されてきたのかを今改めて実感していた。


「はい、最後まで諦めません!」


 希望の光はまだ一筋も見えていなかった。それでもマイラの笑顔だけは、エリクスの心の中を温かく柔らかく照らしてくれているような気がしていた。


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