92. 不穏な動き
迎えの馬車に乗って別荘に戻ったマイラは、リアやミコル達に心配をかけてしまったことをまず謝罪した。
みんな全く怒ってはいなかったが、その安堵の表情から本当に心配をかけてしまったことがわかり、さらに申し訳ない気持ちになってマイラは何度も謝った。
エリクスは馬車の中でも帰ってきてからも何かを思い詰めたような表情で黙りこくっていたが、いつもと違う彼の様子をじっと観察していたリアによっていつの間にかどこかへ連れ去られていた。
その後、謝罪を終えぼんやりと玄関ホールに立つマイラを心配したケイトから「部屋で休んできたら」と提案されると、疲れ切ったマイラは素直にその提案に従い自分の部屋へと戻った。
そして部屋に入ってようやく、イリスと再会することができたのだった。
「あ!イリス!あの、ごめんなさい、心配かけて。」
マイラの部屋で片付けをしていたイリスが、目を丸くしてこちらを見ている。だがすぐに怒りの表情を浮かべてマイラに駆け寄ると、すかさずその華奢な体を抱きしめた。
「よかった!!無事で・・・俺が迎えに行くべきだったのにごめん、マイラ!エリクス様の方が土地勘があるからと言うので任せてしまった。そんなの関係なく、俺が行けばよかった!!」
マイラは後悔するような声でそう語るイリスの背中をポンと軽く叩くと、首を振って彼からそっと離れた。
「ううん、イリスは何も悪くないよ。不安にさせて本当にごめんね。」
「マイラ・・・どうして一人で雨の中を?」
イリスはまだ不安そうにマイラの顔を見つめている。
「ああ、えっと、イリスから貰ったイヤリングを箱ごと落としちゃって、それで・・・あ!でもちゃんと見つけたから!ほら!」
そう言って胸ポケットを探ると、小さな箱と共に青いハルーガムの葉っぱが下にヒラヒラと舞い落ちる。イリスはしゃがんでそれを拾いマイラに手渡すと、顔を顰めた。
「俺のために雨に濡れて・・・でも、イヤリングは着けてくれなかったのか・・・それに昨夜は、エリクス様と二人っきりで・・・」
ぶつぶつと独り言を言い始めた彼の声が徐々に大きくなっていく。そして、目と目が合った。
「マイラ、顔が赤い。昨夜何があった?」
「えっ?なっ、何も無いよ!?」
「マイラに嘘は似合わない。何かあったよね?俺に言えないようなこと?」
マイラは彼の追求から逃れようと思わず目を逸らす。だがそれは逆効果だった。イリスはガッチリとマイラの二の腕を両手で掴み、逃げられない状況に追い込んでいく。
「教えて。教えてくれるまで離さない。」
「い、言えない!もう、無かったことになってるの!だから聞かないで!!」
「無かったこと?それほどのこと?」
その鋭い指摘に何も返せず、マイラは口を噤む。イリスはその様子を見ながら諦めたようにため息をつくと、ゆっくりと手を離した。
「わかりました、もう昨夜のことは聞きません。・・・失礼いたします。」
彼はそれだけ言うと、掃除道具を持って部屋を出ていった。残されたマイラはベッドの上にうつ伏せになり、イリスに拾ってもらったあの青い葉を手の中に包みこむ。その青は拾ったばかりの時よりも透明感を増し、まるでエリクスの瞳のように青く輝いていた。
そしてマイラは胸の痛みから逃げるように、静かで浅い眠りの中に落ちていった。
その日以降、初日と何ら変わりのない穏やかな休暇と勉強の日々が戻っていった。エリクスは仕事があると言って早めに帰宅し、リアは困ったような顔で微笑みながらマイラにハグをした以外は、特にあの夜のことを問い詰めてくるようなこともなかった。
そうして無事に宿泊勉強会を終えた一行は、リアに別れを告げて帰宅することとなった。
「マイラ、また手紙を書くわ。」
「リア、ありがとう。」
「いい、諦めちゃ駄目よ?」
「え?」
「リ、リアさん!!」
意味深な発言に戸惑っていたマイラの前に割り込むように、突如としてウィルが現れた。彼は顔を赤くしながら鼻息も荒くリアの前に立つ。
「ウィルさん、どうかされましたか?」
リアは首を僅かに傾げて優しい笑みを浮かべる。それは女性のマイラでもドキドキしてしまうほど美しい姿だった。ウィルは赤い顔をさらに真っ赤にして手を差し出した。
「あの!また、機会があったらお会いすることはできますか?」
リアはその言葉に一瞬だけ驚いたような表情を見せた後、にっこりと微笑み、その手を握手で返してから言った。
「ご縁があればまた会えるかもしれませんね。今回は楽しかったです。どうかお元気で。」
「・・・はい!!」
マイラには遠回しの断り文句にしか聞こえなかったが、ウィルには違ったのだろう。彼は嬉しそうに手を握り返すと、満面の笑みでその場を離れていった。
「リア、あれで良かったの?」
「どうかしら。でも国外にいる私が彼にそう会うこともないでしょう?さあそれよりマイラ、私がさっき言ったこと、忘れないでね!」
「えっと」
「マイラ様」
その時突然イリスが背後に立ち、マイラに声をかけた。その声に驚いて振り向くと、彼は無表情のままなぜかリアを冷ややかに見つめていた。
「イ、イリス?どうしたの?」
「そろそろ出発のお時間です。今日はこの後天気も崩れそうですので急いで出発いたしましょう。」
「そうなんだ。わかったわ。じゃあリア、また手紙を送るわね!」
リアはなぜかイリスの顔を面白そうに眺めていたが、マイラの視線に気付くとすぐに笑顔を返した。
「ええ。気をつけて帰ってね。イリスも。」
「ありがとうございます。」
二人の間に流れる微妙な空気の意味はマイラにはよくわからなかったが、とにかく急いでリアと別れの言葉を交わし、馬車に乗って家路についた。
エリクスの家に戻ってから数日が経過した。
別荘での日々を忘れられないマイラは、気持ちを振り払いたい一心で勉強と実技練習に打ち込んでいた。あれ以来、雨の夜のことを思い出さないよう、エリクスのアトリエにも寄り付かなくなっていた。
エリクス自身もヨセフィーナと自宅で会うことはやめてしまったようで、その分外で会っているのか、家にもあまり帰ってこない日が続いていた。
そんな中、エレンとイリスだけはいつも通りマイラの側で穏やかに日常を支えてくれている。あの夜のことをイリスは二度と追求してこなかったが、イヤリングを身につけることだけは強要されてしまった。
「安全のためです。エリクス様もご自宅にいない中、あなたをお守りできるのは私とエレンだけ。どうかこれを毎日身につけていてください。」
そう強く主張する彼の強張った表情に根負けし、マイラはどこに行くにもその小さなイヤリングを毎日身につけて過ごすようにしていた。
― ― ― ― ―
そんな一見穏やかな日々が過ぎていく中、マイラの知らないところで事態は急速に変化していた。
その頃エリクスは、マイラとの小屋での一件以来一日も早く自分の役目を果たそうと躍起になっていた。
小屋から帰宅したあの日、リアに無理やり前の晩にあったことを白状させられた時も、何とか「俺がどうにかする」と宣言して彼女の信頼と笑顔を勝ち取った。
だが、自宅に戻ったエリクスを待っていたのは嫌な知らせだった。それはヨセフィーナに脅迫状が届いた、というものだった。
「ついに痺れを切らして向こうが動き始めましたわ。」
余裕たっぷりにお茶を飲む優雅な姿は相変わらずだ。ヨセフィーナの自宅に招かれたエリクスは、その日彼女とテラスでお茶を飲んでいた。
自宅といってもここは彼女にとってはあくまでも隠れ蓑としての家に過ぎず、本当の家がどこにあるのかエリクスは知らない。
「脅迫状には何と?」
エリクスはお茶にほとんど口をつけることもなく、ヨセフィーナに尋ねる。
「他の男と婚約をするなど許さないと。お前は俺の花嫁だ、約束を違えるならお前の家族がどうなっても知らないと、だいたいそのような内容でしたね。」
「・・・そのような約束をされた方が実際にいらっしゃるのですか?」
エリクスが真面目な顔でそう聞くと、ヨセフィーナは面白そうに目を大きく開いてから笑って言った。
「ふふふ!そんな風に真面目なお顔で面白いことを仰って!そんな方が私にいるはずないでしょう?ああ、ただ最近何人かの殿方には接触されたので、その中の誰かということになっているのでしょう。」
「つまりわざとあなたにそういう人物を接触させたと?」
「ええ。メリーアン・バルタークが。」
「・・・」
おそらく自分が脅迫しているわけではないと見せかけるために男性を差し向けたのだろうと想像はつくが、ここからメリーアンが何をするつもりなのかはわからない。そのことをヨセフィーナに話すと彼女の顔から笑みが消えた。
「私を害するために動くつもりなんでしょうね。そして晴れて最後の婚約者候補としてあなたの前に堂々と現れる。」
「それはかなりまずいのでは?」
「いいえ、これを待っていたんですもの。むしろ願ったり叶ったりですわ。」
エリクスは腕を組んで考え込んだ。
「なるほど。しかしなぜ彼女は俺に普通に接触してこないんだろう・・・あれからお礼の手紙くらいしか連絡もないが。」
エリクスが首を傾げて呟くと、ヨセフィーナはカップをテーブルに置いてから低い声で言った。
「あの女は全て調べ尽くしています。あなたが女嫌いであることも、私がただの裕福な家の娘でないことも。もちろん本当の私が軍の調査隊の人間であることは知られていないようですが。とにかく、あなたとの結婚は彼女、そして彼女の母親の悲願なのです。絶対に失敗するわけにはいかないので策を弄しているのでしょう。」
エリクスは絶句した。なぜ彼女や彼女の母親がそこまで自分との婚姻を望むのか。悲願とはいったい・・・
ヨセフィーナはその顔からエリクスが疑問に思っていることを察したのだろう。最後に一言だけヒントをくれた。
「お父様とお話してみてはいかがですか?」
「え?父と?」
彼女はふふっと声も無く笑うと、そこから先はもう何も話すことはなかった。無言で遠くを見つめはじめた彼女を見て、エリクスはカップのお茶をゆっくりと飲み干すとその家を後にした。
― ― ―
「ヨセフィーナ様、お手紙が届いております。」
ヨセフィーナがテラスを去っていくエリクスを見送ると、それを待っていたかのように若い女性のメイドが音もなく現れた。彼女はトレーに載せていた手紙をヨセフィーナに渡すと、静かにそこを離れていく。
ヨセフィーナは渡された手紙を開封し、読み終えると顔色ひとつ変えずにそれをビリビリに破いて地面に置いた。そして何かを口ずさむと黄緑色の炎が発動し、手紙は灰になって風に飛ばされていった。
「キャシー!」
ヨセフィーナの鋭い声が庭に響く。するとすぐに先ほどさがったばかりのメイドが現れた。
「はい。」
「グレンに連絡を。赤い花の件、例の場所で話したいと伝えて。」
「承知いたしました。」
キャシーと呼ばれた若いメイドは再び素早く去っていく。
この時一人テラスに残されたヨセフィーナの目には、見慣れているはずの小さいがよく管理されたその庭が、なぜかいつもよりも陰りを帯びているように見えていた。