90. 豪雨
湖に向かう日の朝はとても良い天気だった。
青い空と山沿いに立ち昇るもくもくとした雲を眺めながら進む馬車の旅も、とても快適だった。
エリクス、イリスは残念ながらこのピクニックには不参加だったが、この日の朝二人ともマイラにこっそりと何かを手渡してから笑顔で送り出してくれた。
馬車の中でマイラはまず、イリスが渡してくれた紙袋を開けた。そこには小さな箱が入っており、中を開けると以前貰ったブレスレットと同じ石を使ったイヤリングだった。
(イリスったらまた心配して・・・でもイヤリングって着け慣れてないからなあ。どうしよう?)
そうして今度はエリクスに手渡された布の袋を開ける。外から触ってみると何か硬いものが入っているようだ。袋の口を開いて中を覗くと、そこには薄いピンク色をした美しいカットのバングルが入っていた。袋の中にはさらにメッセージカードも添えられている。マイラは周りに気付かれないよう袋の中でそれを開いた。
(『この間はすまなかった。離れていると心配だから、これを身に着けていてほしい』、か・・・何か効果のあるものなのかな?)
マイラは袋の中からバングルを取り出すと、左手首にはめてみる。硬い素材だが思っていたより着け心地は良い。そして何よりも、身につけるとなぜかエリクスに守られているような不思議な感覚があった。
結局マイラはその日イリスのイヤリングではなく、エリクスのくれたバングルを身につけて過ごすことに決め、イリスから貰ったプレゼントは箱ごとポケットにしまいこんだ。
そうこうしているうちに湖の少し手前の道で馬車が止まる。リアはこの場所のことをよく知っているようで、マイラの横で道案内をしながら湖への細い道を歩きはじめた。
「ねえマイラ、お兄様と喧嘩でもしたの?」
どうやら昨日の様子から何かに勘付いたリアが、小声でこそっとそう尋ねてきた。後ろからはしゃぎながらついてくる面々に聞こえないようマイラもひそひそと返事をする。
「う、うん、色々あって・・・ここだとまずいからまた後でゆっくり話すね。」
「わかったわ!でもそれって進展があったってことでしょ?ふふ!お兄様も隅におけないわね!」
「ん?」
楽しそうなリアの言葉の意味をここで問い詰めるわけにもいかず、マイラは頭の中の疑問を一旦忘れることにした。
少し歩くと次第に水辺が見えてくる。キラキラと湖面の光が反射しているのがわかり、ケイト達もわーっと歓声をあげた。
そうして馬車を降りたところから十分程歩いてようやく、ハルーガムの木々の間を抜けた先にある湖畔に行き着いた。
「うおー!!綺麗だーー!!」
「まあ、素敵ねえ!湖もそんなに広くはないけれど、水が透き通っていて美しいわ!」
ウィルが感動のあまり叫びを上げ、ミコルも珍しく興奮している様子だ。
「おいおい、ウィル!あまり大きな声出すなよ!他に人がいたらびっくりするだろ!?」
カイルが嗜めるとウィルは照れたように笑う。ケイトは早速平らな良い場所を見つけたようで、スヴェンと共にすでにシートを広げてはじめていた。
「ケイトったらさすがね!ランチの準備は誰よりも速いのね!」
マイラが茶化したようにそう言うと、ケイトはにっこり笑って「当然よ!」と胸を張って笑った。スヴェンはそんなケイトの姿を見ていつものように盛大なため息をついていた。
こうしてマイラ達一行はそんな和やかな雰囲気の中、湖畔での昼食の準備を始めていった。
各自が持ってきた荷物を開き、お茶やパンや別荘のコックが準備してくれた美味しそうなオードブルを次々にシートの上に並べていく。広過ぎるかもと思ったシートの上はあっという間にいっぱいになり、そこはすっかり豪華な食事会場となっていた。
強力な強化魔法がかけられた薄いグラスにミコルが楽しそうにお茶を注ぐ。全員がグラスを手に持つと、リアがスッと立ち上がり「乾杯!」と言いながらグラスを高く掲げた。
そうして素晴らしい景色と爽やかな風に包まれながら、最高のランチタイムが始まっていった。
しばらくは食事とおしゃべりに夢中になっていた七人だったが、ある程度食べ終わるとそれぞれにやりたいことを始めていった。
ミコルは読書を、ケイトはスヴェンと釣りを、カイルとウィルは湖で泳ぎたいと言って服を脱ぎ始めた。
「ちょっと、女性陣の前で突然脱がないでちょうだい。それとも二人は私に逞しい体を見せたいのかしら?」
リアが笑いながらそう苦言を呈すると、ウィルが顔を真っ赤にして服を直し、カイルを引っ張ってどこかへ消えていった。マイラはリアに苦笑しながら話しかける。
「リアったら意地悪ね。ウィルがあなたのこと気に入ってるって知ってるくせに。」
「いいのよ。どちらにしろここを離れたらまた会わなくなる人だし、そもそも彼、ちょっと強く言われた方が喜ぶタイプだと思うわよ?」
「そ、そうなのかな?」
マイラはウィルをちょっとだけ可哀想と思わないでもなかったが、とにかく自分も今を楽しもうと、一人で湖の周りを散策することにした。
ハルーガムの美しさを愛でながら周る湖畔の散歩は素晴らしかった。そこまで大きくない湖、一周して戻ってくるのにさほど時間はかからなかったが、マイラは十分にその景色を堪能する。
心地よい風が水面を揺らし、幾つもの光の糸を生み出していく。その美しさに目を奪われながら立ち止まった足元に、一枚の青色の葉が落ちているのにふと気付いた。思いつきでその葉を拾い上げ、折れないようにそっと胸ポケットに入れると、マイラはミコルが待つ場所へとゆっくり戻っていった。
その途中、ふと嗅ぎ慣れた匂いに気付き再び立ち止まる。空を見上げ、風を確かめた。
「あ、雨が降るかも!」
それはマイラがよく知る雨が降る前の匂いだった。田舎育ちの生活で培ったその勘は、これまでほとんど外れたことがない。馬車の迎えが来るまでにまだだいぶ時間がある。マイラはこれはまずいと判断し、ミコルの元に急いだ。
その後、湖の上で遊んでいた仲間達も慌てて呼び寄せると、リアに誘導してもらいながら雨宿りできそうな場所へと移動した。
馬車で迎えに来る予定のホープという高齢の男性使用人は、耳は少し遠いがこの辺りの地理には精通しているらしく、雨ならここまで来てくれるから大丈夫とのことで、一行は安心してその場所へ向かった。
向かった先には切り立った崖があり、その岩肌を抉るように大きな穴が空いている。一足先にその場所に辿り着いたマイラとリアはぽっかりと空いたその穴の中を覗きこみ、安全確認を済ませた。マイラはじっくり中を確認したが、そこまで奥行きは無いようだ。
とても頑丈な岩でできているので崩れる心配は無い、と自信満々にリアが言うので、マイラはミコル達を呼び寄せ安心して中に入る。
中に入ってしばらくすると、ゴロゴロと遠くで雷の鳴る音が聞こえ始めた。どうやら雨に降られずに済んだようでほっとしたマイラは、ポケットからハンカチを出して汗を拭おうとして、ふと大事なものを落としたことに気が付いた。
「あ!落としてきちゃったかも!」
「マイラ?どうしたの青い顔をして?何を落としたの?」
ミコルが心配そうにマイラの顔を見つめている。ケイトもその声を聞きつけて近寄ってきた。
「イリスに貰った大事なものを落としてきちゃったみたい!まだ雨は大丈夫そうだし、急いで探してくる!」
「え!?一人で行くの?」
ケイトの大きな声に、少し奥の方にいたカイルが反応した。
「マイラ、俺も一緒に行くよ。」
「ううん、大丈夫!どの辺りで落としたか何となくわかるから。」
「でも・・・」
カイルは空をチラッと見てからマイラに視線を戻す。だがマイラはもうその小さな穴から出発し始めていた。
「すぐ戻ってくるから、ここで待ってて!」
「マイラ!?」
マイラはカイルが引き留める声を背に、猛スピードで走りだした。いつ雨が降ってもおかしくないほどの灰色の雲が迫ってきている。来た道を一気に駆け抜け急いで湖に戻ると、先程までの美しく光に満ちていたあの景色はすっかり暗い色に包まれていた。
「おかしいなあ、この辺りだと思ったんだけど・・・」
散策していた湖畔沿いの土に残る自分の足跡を遡りながら、イリスから貰った小さな箱を探すが見つからない。さらに十五分ほど歩いて湖の反対側まで来た時、雨がポツポツと降り始めた。
「あ、降ってきちゃった!」
マイラは一瞬だけ空を見上げると、さらにスピードを上げて湖の周りを探していく。だが次第に強くなる雨に濡れて、体は徐々に冷えてきていた。
「あ!!あった!!」
そうして雨が豪雨へと変わった頃、マイラはやっとのことで探していたあの小さな箱を見つけた。だが雨はさらに激しさを増し、風も強まってきている。
マイラは一旦木陰に入って雨宿りをしてみたが、強過ぎる雨のせいで木の下でも容赦なく水が体に降りかかる。
「うう、寒い・・・」
このまましばらく雨が弱まるまでここで待つか、みんなにこれ以上の心配をかけないように走って戻るか・・・
だがそんな悠長なことを考えていられなくなるほど雨足は強まり、ぶるぶると寒さに震えるマイラは、もうその冷え切った体を動かせなくなっていた。
(ああ、もう。私、何やってるんだろう?早くエリクスさんに会いたい・・・)
冷たくなっていく指先が無意識に左手首のバングルに触れる。するとその瞬間、バングルが仄かに光った。
「マイラ!!」
ああ、幻聴が聞こえるほど体調が悪いんだと、朦朧とした意識の中でマイラはぼんやりと考える。エリクスに似たその声は、マイラの名を何度も呼びながら大きくなっていく。
(会いたいからって声が聞こえるような気がするなんて・・・ああ、頭が痛い)
体の震えと寒さでマイラはもう立ってもいられなくなり、木の根元にしゃがみこんで丸くなる。そして縋るような気持ちでピンク色のバングルを強く握りしめた。
「エリクスさん、寒い、会いたいよ・・・」
「大丈夫かマイラ!?マイラ、しっかりするんだ!!」
自分の肩を誰かが揺らしている。だがもうマイラは目を開けていられなかった。
そうして、ふわっと抱きかかえられるような感覚を最後に、マイラの意識はすうっと遠のいていった。