72. 甘くて気まずい時間
それからの三日間、マイラはリアと共に庭で魔法練習を繰り返したり時々近くにある小さな町へ出かけたりと、ゆったりとした休暇を思う存分楽しんだ。
あの後ヨアキムはすぐに家を離れ、セシーリアもその後本邸に戻ってくることはなかった。だがリアが最終日まで一緒にいてくれたことで、何とかエリクスと二人っきりになることは避けられた。
楽しく充実した日々はあっという間に過ぎ去り、そうして訪れた最終日の夜。
マイラは荷物をあらかた詰め終えると、最後まで残しておいた勉強道具も荷物の隙間にどうにか押し込めた。
「よし!帰ったらまた勉強勉強!全部忘れて、前を向いて頑張ろう!」
これが空元気なのは自分でもよくわかっていた。
でもあの三人の美しいご令嬢達のことを思い出す度に、自分の想いが叶うことは絶対にあり得ないと思い知らされる。胸がジンジンと痛む。
だからこそ今は、空元気でも前向きに頑張ることしか、マイラには自分を保つ方法が思いつかなかった。
(大丈夫。これから先は夢を叶えて一人で生きていけばいい。リアはずっと友達でいられるんだし、辛いことばかりじゃない!)
ぎゅうっと押し込んだペンケースが何だか苦しそうにすら見える。だがマイラはそのバッグの口をしっかり閉めて、もうそれが目に入らないようにしてしまった。
荷物を詰め終わりほっとしたのも束の間、マイラはふと、リアの部屋に愛用のペンを置き忘れていることを思い出し、急いで部屋を出た。
廊下の突き当たりにある彼女の部屋へと物音を立てないようにゆっくりと歩いて向かう。すると、自分の部屋のすぐ横にある階段の下から誰かが上に登ってくる足音が聞こえた。
すぐにそれがエリクスだとわかったマイラは、ハッとして立ち止まった。
「マイラ?」
その時のマイラは寝衣の上にガウンを羽織って歩いていたため、こんな格好でエリクスと会うのは少し恥ずかしいと、ガウンの前で手を組んで彼に背を向けた。
「あ、えっと、おやすみなさい!」
なぜか急に彼の視線が怖くなり、今度は足音も気にせずにリアの部屋へと走り出そうとする。だが一瞬早く、エリクスの手がマイラを捕まえた。
「待って、マイラ。」
「な、何ですか!?」
「どうしてそんなに怯えているんだ?」
エリクスの低い声がマイラを責めているような気がして、彼の顔をまともに見られない。
「あの、こんな格好だと恥ずかしいので、ちょっと離れたかっただけです。」
「本当にそれだけ?」
「・・・」
そうではない。もちろんそれだけではない。エリクスと二人っきりの時間を作りたくないというのが本音だ。でもそんなことは口が裂けても言えない。
「俺を避けてるのか?」
「そんなことは」
「じゃあ少し話そう。ここでの最後の夜だから、マイラとゆっくり話がしたい。」
「でも・・・」
「おいで、マイラ。」
エリクスの有無を言わさぬ声が、喉まで出かかった言葉を全て飲み込ませてしまう。マイラは彼に手を引かれてどうしようとオロオロしながら、今彼が上がってきた階段の方に引っ張られていく。
(どこに行くんだろう?もうこんな時間なのに・・・)
不安と抑えられない彼への想いが混ざり合い、マイラの心臓はどんどん鼓動を速めていく。エリクスはそんなマイラの状態に気づいているのかいないのか、ただ黙って手を引いて歩き続けた。
階段を上がり、マイラが入ったことのない階へと足を踏み入れる。すると彼は、廊下を少し歩いた場所にある大きな扉を片手で開いた。
「お兄様、ここは?」
「入ればわかるよ。今から明かりをつける。」
エリクスはそう言うと、壁にある何かに触れた。
そして部屋中に、柔らかな魔法の光が溢れる。
「うわあ!!」
その瞬間マイラの目に飛び込んできたのは、大量の絵画だった。しかもどれも素晴らしいものばかりで、マイラは自分の格好も忘れ、はしゃいで部屋の中を歩き回った。
「すごいすごい!!こんな素晴らしい絵がこんなにたくさん!?これはどなたの作品なんですか?」
エリクスはマイラに近付くと笑顔を向けて言った。
「これは全て父の作品だよ。どれも素晴らしいが、特にうちの庭を描いたあの絵が俺のお気に入りなんだ。」
そう言ってエリクスはマイラの手を取り、指差した絵の前まで案内してくれた。マイラはその絵を見ながら、数日前にヨアキムと座ったあのベンチがその絵の中に描かれていることに気付いた。
「あ!これ、お庭のあの可愛らしいベンチですよね?」
「ああ。あれは昔父と一緒に俺が作ったベンチなんだ。今はあまり父と話すことは無いが、幼い頃はよく一緒に絵を描いたりものを作ったりして遊んだんだよ。」
懐かしそうにそう話す彼の横顔は、幼い少年のような無邪気さを感じさせた。マイラはその表情を見てふふっと笑う。
「素敵な思い出ですね。・・・でも、今はあまり話さないんですか?」
エリクスの表情が少し暗くなる。
「そうだな。今は・・・あの人の考えていることがよくわからないんだ。気がついたら、父とはあまり話さなくなっていた。」
「お兄様・・・」
家族だからこそわかりあえることもあれば、家族だからこそすれ違い、大きな溝を作ってしまうこともあるのだろう。
マイラは思わずエリクスの腕に手を伸ばし、彼の顔を見上げて微笑んだ。
「大丈夫です。ヨアキムさんはきっとお兄様のことを大切に思っていますよ?だから、少しずつまた話していけばいいんです。」
「マイラ・・・」
エリクスは腕に載せられた小さな手を柔らかく握り、自分の体に引き寄せた。マイラはその時になってようやく二人っきりになってしまったことに気付いて焦り始めたが、もう遅かった。
その体はすっぽりとエリクスの腕の中に包み込まれ、彼の温もりをしっかりと感じる。
「ええっと、とにかく!大丈夫です!だからもう寝ましょう、ね?明日は向こうに帰りますし、出発も早いから、ってお兄様!?」
必死の説得も虚しく、エリクスはさらに強くマイラを抱きしめる。身動きが取れなくなって困り果てたマイラは、小さく呻いた。
「ううう、もう、離してくださいいぃ・・・」
「ぷっ、あははははは!!」
「なっ、何で笑ってるんですか!?」
「そんな泣きそうな声で言わなくても!そんなにいやだった?」
マイラは言葉に詰まる。いやではない。決していやではないのだ。だから困る。嬉しくて、でも切なくて泣きそうなのに・・・
「否定しないってことは、いやじゃないんだな。」
「えっ!?」
エリクスの顔がマイラの額の辺りに近付き、その唇が触れる感触が微かに伝わってくる。マイラはそれに気付くと真っ赤になって顔を上げた。その瞬間ゴン、と彼の顎がマイラの頭に当たる。
「いたっ!?」
「おっと!」
二人は同時に声を上げ、慌ててお互いから離れた。マイラは額に手を載せたままごめんなさいと何度も謝り、エリクスはこちらこそごめんと頭を下げた。
なんとも言えない甘く、だが気まずい空気がそこに流れ、マイラはじゃあと言ってその部屋からそそくさと逃げ出した。
(何?何が起きたの!?お兄様はどうして・・・)
考えても考えても答えは出ない。エリクスは何を考えているのか?どうしてこんなことをするのか?婚約者とどうするつもりなのか?
そんな混乱状態の脳内を処理することを諦めたマイラは、自分の部屋のベッドに飛び込み、布団をかぶって無理やり目を閉じた。そして気がついた時には深い深い眠りについていた。
翌日、再びエリクスと共に馬車で家に帰ると、イリスがエレンと共にマイラを待ってくれていた。
馬車の中でも彼はマイラにぴったり寄り添い、休憩で外に出た時以外、握った手を離してくれることは無かった。
「大事な妹との時間を大切にしているだけ」
マイラがどうしてこんなことをするのかと問い詰めると、彼はただ微笑んでそう言った。
(妹にこんなにべったりなんて、いくらなんでもおかしい!しかも私は妹じゃない!家に帰ったら絶対に近付かない!!)
マイラは明らかに揺らぎそうな決意を胸に馬車から降りると、一目散にエレンの元に向かった。
「お帰りなさいませ、マイラ様!まあ!一番に私に飛びついてきてくださるなんて、嬉しいですわ!」
エレンに抱きつくほどの勢いで近寄ると、ちょっと残念そうな顔で笑っているイリスが側にやってくる。
「お帰りなさいませ。お疲れでしょう。すぐにお部屋に参りましょう。お荷物は私が後でお運びします。まずはお部屋へ。エレンさん、マイラ様のために先程のお茶とお菓子をお願いしてもよろしいですか?」
「ええ、わかりました。マイラ様、すぐにお部屋に参ります。少しお待ちくださいね!」
エレンはそう言って楽しそうにその場を離れた。イリスはチラッとエリクスを確認すると、軽く会釈をしてすぐにマイラを連れて部屋へと移動し始めた。
(お兄様、何だかすごい顔をしてたけど、大丈夫かな?)
離れたい気持ちと離れたくない気持ちにぎゅっと挟まれながら、マイラは背中を押してくれるイリスと共に見慣れた部屋へと戻っていった。
「はあー、帰ってきた!やっぱりこの部屋が落ち着くなあ・・・」
マイラは部屋に入って早々に腕をぐうっと上に伸ばしてストレッチをすると、バタン、といつものソファーに倒れこんだ。
イリスはそんなマイラの横に軽く腰を下ろすと、マイラの顔に掛かった髪の毛を優しく後ろに移動させていく。当然その指は頬や額をなぞるように当たるので、マイラの体は再び緊張し始めた。
「イリス!?」
「会いたかった、マイラ。」
彼の手が、マイラの頬に寄り添うように触れていく。慌てて体を起こそうとしたが、その手が不思議な存在感を放ちどの方向にも動けなかった。
「あの、ただいま。帰ってきたから、その手を離して?」
「もう少しだけ。エレンが来るまで。」
「イリス、は、恥ずかしいよ!」
「もっと照れていいですよ?可愛いマイラ。」
もう駄目だと思った時、軽快なノックの音が聞こえた。イリスはスッと立ち上がりドアを開ける。するとそこには満面の笑みを浮かべたエレンが、クリームたっぷりのケーキとお茶をトレーに載せて立っていた。
「お待たせしました!さあ、疲れた体には甘いものですわ!あら?マイラ様、お顔が赤いですよ?熱があるのですか?ケーキは・・・」
「食べます!!」
「ぷっ」
笑いを堪えきれないイリスをキッと睨むと、マイラは勢いよくソファーから体を起こし、無理やり気持ちも切り替えた。
今は大好きな二人とのティータイムを全力で楽しもう、マイラはそう決意すると、ここ数日頭を悩ませていた出来事を全てクッションの山の中に埋めてしまって、目の前の美味しそうなケーキに全神経を集中させていった。