7. 偽の兄妹
マイラは今、ホークの家とは比べ物にならないほど大きいそのお城のような邸宅を前にして、すっかり尻込みして動けなくなっている。
目の前にそびえ立つその建物には、数えきれないほどの窓と大勢の人を一口で飲み込んでしまいそうな巨大な玄関が見える。現実味の無いその光景にマイラはごくんと唾を飲み込み、できたばかりの兄を恐る恐る見上げた。
「お兄様、こんなとんでもない家に住んでいるんですか?」
変なことを言うやつだと言わんばかりに眉を上げ、マイラに向かってため息をついてから言った。
「マイラ、俺の名前を聞いて何も思わなかったのか?」
「え?名前・・・エリクス?」
「違う。そっちじゃない。」
マイラは下を見ながら記憶をたどると、何かに気付いてあんぐりと口を開いた。
「思い出したか。」
「ルーイ、ってあのルーイ?魔法道具と言えばルーイ商会、って言われている、あのルーイ!?」
「今さら気付いたのか?まあいい。さあ、マイラの部屋を準備しよう。それと家の者には事情を説明しないといけないな。後でみんなに紹介する。」
マイラは今になって「これは早まった決断をしてしまったのでは?」と少し後悔する。
「あのぅ、やっぱりこの契約・・・」
エリクスは素早い動きで振り返ると、ぐいっとマイラに顔を近付けた。
「まさかここまで来て逃げようとか思っていないよな?」
「え、えへへ・・・」
「マイラはもう俺の『愛する妹』になったんだ。俺から契約を解除することは絶対にない。さあ、お前の欲しいものは何でもこの兄が買ってやるからな。おいで、マイラ。」
「いやあの、ええええ!?」
マイラは、嬉しそうに微笑む美形の兄に手を掴まれ、引きずられるようにしてあの巨大な玄関ドアの中へと飲み込まれていった。
そこからは怒涛の展開が待ち受けていた。
まずマイラは、この家がほぼエリクスのためだけに建てられた家だと知り驚愕した。時々家族もこの家を訪れるようだがその本邸は郊外にあるらしく、そちらはさらに広大な敷地を誇るとんでもない豪邸らしい。
そしてエリクスが言っていた『家の者』と言うのは彼の家族ではなく、この家で働く使用人達のことだった。と言っても彼らはかなり厳選された人材で、全員魔法使いかつ魔力が高く、ルーイ商会の業務も兼務しているほどの精鋭なのだとエリクスは説明した。
そんなわけで会う人会う人皆にこやかに挨拶をしてはくれたが、マイラは何か威圧感のようなものを感じてしまい、居心地はあまりよくなかった。
さらにマイラはもう一つ大事なことに気付く。
「女の人がほとんどいない・・・」
マイラの呟きが耳に入ると、エリクスはふっと自虐的な笑みを浮かべた。
「当たり前だ。俺の力に惹きつけられない者でないとこの屋敷には入れられない。女性は年配の者か、力の影響を受けにくいメイドが数名ここにいるだけだ。メイドと言ってもここで働けるほどの力の持ち主だからな。それなりの仕事を与えているし、給金も相場よりずっと高い。まあ、皆気のいい者達だ、心配はいらない。」
「は、はい・・・」
そうは言われても、明らかに優秀そうな魔法使い達が闊歩するこの屋敷の中でこれから生活するのかと思えば、憂鬱な気持ちにもなってしまうというものだ。
(ううん、こんなことで挫けていられますか!私には大いなる目的があるんだから!)
マイラは口をきつく結ぶと、次々に紹介してくれる猛者達ににっこりと笑顔を作って自己紹介を続けていった。
一通り紹介が終わると、マイラはエリクスが直々に部屋へと案内してくれるというので大人しくついていく。どうやら紹介してもらっている間にマイラのための部屋を急ぎ準備してくれたらしい。
「うわあ、可愛いお部屋!!」
そこはドアを開けた瞬間からいい香りが漂い、明るい色の上品な布地で作られたソファーや寝具、カーテンが設置されている広々とした部屋だった。
鏡台や小さなテーブルも派手すぎない程度に飾りや彫りが入っている素晴らしいものばかりで、ランプのシェードまで花柄がうっすらと浮かび上がる芸術品だった。マイラは一つ一つに感動しながら部屋をぐるぐると歩き回り、その様子をエリクスが微笑ましく見守っていた。
「元々はリアが来た時のために準備していた部屋なんだが、そんなに喜んで貰えるとは思っていなかった。うん・・・マイラは可愛いな。」
「へっ!?」
とんでもない言葉が耳に入り、ウキウキとカーテンを持って眺めていた手をぱっと離した。
「ん?何だ、カーテンは気に入らないか?キーツ!キーツはいるか?」
「はい、エリクス様、ここに。」
どこに控えていたのかと思うほど一瞬でドアの外に現れたキーツという男は、マイラが最初に紹介してもらったこの屋敷の執事長だった。一見すると若い男性のようだが、よく見ると目元には小さな皺が刻まれている。
「マイラがこのカーテンをお気に召さなかったようだ。カーテンの生地をいくつか取り寄せてマイラの好みのものに」
「ま、待ってください!!違いますよ?ただ驚いて手を離しちゃっただけですから!!大丈夫、ものすごく気に入ってます!!」
エリクスとキーツはじっとマイラを見つめた後、二人で顔を突き合わせて何やらコソコソと話しを始めた。
「ではキーツ、後は頼んだ。」
「かしこまりました。では失礼いたします。」
キーツは恭しく頭を下げるとあっという間に姿を消す。
「お兄様、まさかカーテン、本当に取り替えるつもりじゃないでしょうね!?」
「いや、カーテンはやめた。その代わりマイラのドレスを用意させたいからいつもの人を呼んでくれと言った。」
マイラは頭が痛くなってきていたが、まあ妹役をするならドレスは仕方ないと諦め、黙って頷くと窓の外を眺めた。
「お兄様、私、一度家に帰らないといけないんです。」
エリクスは窓のそばに佇むマイラに近寄った。
「荷物を取りに行くのだろう?俺も一緒に行くぞ。」
「いえ、そうじゃなくて、私の家はここからかなり離れた村の中にあるんです。父にも母にも、三年間も村を離れるなんて話はしていないから、一度きちんと説明しに行きたいんです。」
マイラが静かな声でそう話すと、エリクスはマイラの肩に手を置いて優しく微笑んだ。
「そうだな。俺からもご両親にきちんとご挨拶しないといけないな。では一緒に行こう。」
「でも、本当に遠いんです。ここに来る時も近所のおじさんに『鳥』で二時間もかけて送ってもらったので・・・」
エリクスの手がマイラの肩を強く掴んだ。
「お兄様?痛いんですけど!」
「あ、ああすまない!だがその近所のおじさんがなぜそんな軍事用の魔法飛行機体を持っているんだ!?」
「軍事用?あれが?あんな不安定で恐ろしくて二十年以上経ったボロいあれがですか!?」
「・・・まあ、『鳥』とその方が呼んでいるだけかもしれないな。とにかくそれほど遠いのであれば、こちらもそれなりの乗り物を用意するから安心しなさい。だが今日はもう遅い。今夜一晩ここに泊まって、出発は明日にしよう。」
マイラは首を横に振った。
「いえ、今日は叔父の家に帰ります。勝手に外泊なんかしたら叔父が大騒ぎしますから。」
その言葉に納得したように頷くと、エリクスはマイラの肩からようやく手を離した。
「わかった。では今日はまずお前の叔父さんの家に行ってご挨拶しよう。」
「よろしくお願いします。」
「うん。」
マイラは今回の経緯を説明した後のホークの様子を想像し、何だか胃がキリキリと痛むような気分になっていた。
そして場面は変わり、まさに今、マイラはその状況に直面している。
「マイラを、僕の愛するマイラをどうして君みたいな男に奪われなければいけないんだ!?」
「・・・」
号泣し始めたホークを前に、さすがのエリクスもたじろいでいる。マイラは遠巻きにそれを見ていたが、おいおいと泣き始めた叔父が急に愛おしくなり、横からぎゅっと抱きしめた。
「叔父さん、私も寂しいです。せっかく叔父さんの家が大好きになってきたのに・・・。でも、どうしてもあの絵が欲しいんです。だから許してくれませんか?これからもいっぱい遊びに来ますから!ね?」
「ううっ、マイラ、僕の可愛かったあのマイラがこんなに大人になって・・・いいですかルーイさん、いくら僕があなたのお父様にお世話になっているからと言っても、こんなに愛らしい僕の姪っ子をあなたの嫁にはやりませんからね!」
エリクスは戸惑いながらも頷く。
「もちろんです、ラウリさん!私は彼女を妻ではなく妹として我が家に受け入れるだけですからご安心ください。もちろん突拍子もない提案をしてしまったことは謝ります。ですが私の将来のためにも、ぜひマイラさんのお力をお借りしたいのです!」
ホークは持っていたハンカチで涙を拭うと、キッとエリクスを睨みつけながら言った。
「マイラが可愛いからと言って手を出すのだけは許しませんよ!最初から最後まで、きっちり妹として大事にしてやってください。それと絵のことも、必ず約束を守ってやってくださいね!」
「はい、もちろんです。手出しなど一切考えておりませんし絵も必ず仕上げます。それに屋敷には私を監視している者も多くいますのでご安心ください。」
エリクスの言葉に、ホークはハッとなって考え込んだ。しばらく考えた後、彼はマイラの方に顔を向けると一つ提案がある、と言って立ち上がり、ドアの外に出て誰かを呼んだ。
少ししてからドアを開けて戻ってくると、その後ろにはイリスが立っていた。背が高く小さく美しい顔を持つ彼女は、それなりに整った顔立ちの叔父の横に立つとお似合いの夫婦のようにすら見える。
「ルーイさん、こちらは現在マイラについてもらっているイリスです。そちらにご厄介になるなら、イリスもマイラの侍女として連れていってください。」
エリクスはその提案に難色を示した。
「ですが私は特異体質でして、見知らぬ女性を屋敷に入れるのはちょっと・・・」
するとホークが指をパチンと鳴らし、イリスは軽く頷いた。その瞬間、彼女は突然自分の髪の毛を掴み、上にグッと引っ張り上げた。
「え、ええっ!?それウイッグだったの!?」
「・・・もしかして彼女、男か?」
マイラとエリクスが驚愕していると、イリスが微笑みながら謝罪した。
「マイラ様、申し訳ありません。旦那様から男性だとわかるとマイラ様が不安になるかもしれないから内緒にするようにと言いつかっておりまして。女性のふりをしながら警護と身の回りのお世話を担当しておりました。」
「嘘・・・全然気付かなかった!」
ホークはマイラの手を掴むと、再び泣きそうな顔になりながら言った。
「いいかい、マイラ。何か困ったことがあればいつでもイリスに相談するんだよ。彼は優秀な魔法使いだ。心配はいらない。」
親より心配性のこの叔父を納得させるため、マイラは渋々頷いた。
そして何とか叔父ホークの了承を得た二人は、翌日次なる難関、マイラの両親の元へと出発することになった。