69. 短い休暇と顔合わせ①
休暇初日の午後、珍しく馬車を使ってルーイ家の本邸に向かったマイラは、ガタゴトという規則的な揺れを感じながら広々とした美しい丘陵地帯をぼんやりと眺めていた。
「ああ、この辺りでよくリアと魔法練習をしたなあ。」
エリクスがマイラの視線の先を見つめて懐かしそうに呟く。マイラは何だかその優しい表情が素敵だなと思い、思わず微笑んだ。
「そうなんですか?じゃあその頃はリアと仲良く過ごしていたんですね!」
「あー、どうかな?そういえばいつもピンク色の土で足元を固められていたような気もするな・・・」
「・・・」
(思い出ってちょっと補正されてたりするから、よくよく思い出してみるとそうでもなかったってこと、あるよね・・・)
きっと幼い頃から妹べったりで鬱陶しがられていたんだろうなあと想像しつつ、マイラは再び窓の外を眺めはじめた。
「まあ庭が広かったのはよかったな。失敗を気にせず魔法練習ができたし、この辺りなら木も少ないから被害も・・・ん?マイラ、なんて顔をしてるんだ!?」
マイラはまるで幽霊でも見てしまったかのような引きつって青ざめた顔で、エリクスの顔を見ていた。
「え・・・ここって、全部ルーイ家の庭なんですか!?」
「ああ。この辺り一帯はうちの庭だよ。さっき門を通ったじゃないか。」
「・・・あの巨大な石造りのアーチのことですか?」
「そうだ。木の扉が開いて中に入っただろう?」
マイラは絶句し、今度は横に座るエリクスから目を逸らした。
(そうだよね、ルーイってこの国で一、二を争う名家だもの・・・私何を期待していたんだろう。こんなすごい家の人が、私とどうこうなるわけないじゃない!バカみたい!)
「マイラ?」
「な、何でもありません。」
エリクスは様子がおかしいことを少し心配しているようだったが、マイラの頭にポンと手を置くと「少し疲れただろう、休みなさい」と言って優しく微笑んだ。
彼が悪いわけでもないのに素っ気ない態度を取ってしまった自分の幼さに気付き反省し、兄の優しさに触れて余計に落ち込む。
(お兄様は何も悪くない。これは私の問題なんだ。この休暇中にお兄様への気持ちをしっかり断ち切らないと!)
だがそんなマイラの決意を打ち砕くように、ふと気づくと膝の上にあるマイラの手に、エリクスの右手が重なっていた。
「お、お兄様!?」
「マイラは俺の大切な人だよ。だからもっと甘えていいんだ。ほら、敷地内とは言っても到着まで数分はかかる。目を瞑るだけでもいいから少し休みなさい。」
イリスの手とは違う案外ゴツゴツと男らしいその感触に、マイラの胸は高鳴った。握られた手は軽く汗ばみ、彼の手の温もりが顔や耳にまで届き頬が熱くなる。
結局本邸にたどり着くまでの短い時間、マイラの気が休まることはなかった。
早く手を離してほしい、でもその手を嬉しいと思ってしまう。そんな矛盾した気持ちを抱えたまま、マイラはただじっと外の景色を眺めながら、到着するまでの僅かな時間をやり過ごしていった。
本邸に到着すると、エリクスとマイラ以外はまだ誰も来ていないことがわかった。彼の両親が帰っていなかったことにはだいぶ驚かされたが、エリクスが言うにはよくあることなのだそうだ。
「明日の朝には帰ってくると思うよ。あの人達には割とあることだから気にしなくていい。それよりもせっかくだから今夜は二人でゆっくり過ごそう。」
嬉しそうにそう話しながら夕食を楽しむ兄を見て、マイラは危機感を感じていた。
(これじゃまずい!イリスにも約束したし、私だって二人っきりなんて絶対無理!!)
そこで夕食後「ちょっと疲れたみたい、頭が痛むので早く休みます」と言って、心配する彼をよそにさっさと自分に当てがわれた部屋へと入っていった。
「はあ。これで二人きりは何とか回避できた!」
ほっとして自分の部屋を見渡すと、窓の外に広がる広すぎる庭が目に入った。もう暗くなっていてよく見えないが、目に入ると何だか落ち着かない気分になったのでマイラはすぐにカーテンを閉めて小さなソファーに腰を下ろした。
(明日からは二人じゃない。大丈夫。きっと何も起きない!)
どんなに想ってもその想いが届かない人に心を砕いている暇は無い。絵さえ仕上がればそれを元に訓練して、長年の夢を叶えることができる。
「よし。とにかく今は目の前の勉強を頑張ろう。」
そう独り言を言ってから立ち上がると、持ってきていた大きなバッグを開けて中から勉強道具を取り出した。イリスが丁寧に整理して入れてくれたそれらを取り出すと、机に向かって勉強を始める。
いざ始めてしまえば案外集中できるもので、気がついた時には二時間ほどが経過していた。
時計を見てそろそろ寝ようかと腰を上げた時、ドアからノックの音が聞こえてきてマイラはビクッと体を震わせた。
「マイラ、起きてるか?」
口を開いてはみたが答えるのを躊躇う。だが机の上に置いてあったペンが転がって床に落ち、そのコツンという小さな音がエリクスに聞こえてしまったらしい。
「起きてるんだな。ちょっと話せるか?」
「ごめんなさい。もう寝るところなので。」
「・・・会いたいんだ。」
拾い上げたペンを握りしめたまま、マイラは動きを止めた。その言葉を今こんな場所で聞いてはいけなかった。
心が揺れる。決心が鈍る。
(そんなの、私だって会いたい。でもダメ!絶対に今日はダメ!)
マイラは苦しい胸をペンを持っていない方の手で押さえながらゆっくりと返事をした。
「今夜は一人でいたいんです。お兄様も早く休んでください。」
「・・・」
ドアの向こうに彼の気配を感じ、マイラは足音を立てないようそっとドアに近寄ってみた。手でドアに触れると微かな振動が伝わってくる。彼が、すぐ側にいる。
これでもう諦めて部屋に戻ってくれるだろうと思っていたが、今日のエリクスは引かなかった。
「少し体調が悪いんだ。寝るまででいい、頼む、側にいてくれないか?」
マイラはその言葉に驚き、途端に心配になる。普段決して弱音など吐かない彼がまさかそんなことを言うなんて、と。
動揺したマイラは、先ほど自分が頭が痛いと言ったことなどすっかり忘れて思わずドアを開けてしまった。
「お兄様、大丈夫ですか!?」
「やっぱり開けてくれた。」
そこには微かな笑みを口元に浮かべたエリクスが立っていた。
「え!?騙したんですか!?」
「いや、本当に体調が悪いんだ。今夜メイド達は俺の力に対応できない人しか残ってない。悪いが少しだけでいい、寝るまで付き添っていてくれないか。」
顔色を見ると確かに少し良くないような気もする。マイラは背中を押すようにして急いで兄の部屋へ彼を押し込むと、慌ててエリクスを看病しはじめた。
メイドの一人に薬箱を探してもらい、水とその箱を手に彼の部屋に戻る。風邪っぽい症状だったので無難な風邪薬を飲んでもらった後、今度は枕の位置を調整したり飲み物やタオルなどを持ってきたりと、甲斐甲斐しく兄の世話を焼いた。
そうしてエリクスが何とか落ち着いてベッドに横になったのを確認すると、マイラは小さな声で彼に話しかけた。
「もう、無理は駄目ですよ!熱はどうですか?辛いですか?」
「いや大丈夫。ああ、でもマイラ、熱を測ってくれないか?」
「えっと、体温計はどこかな・・・」
そう言ってベッドの横の椅子から立とうとした手をエリクスが優しく掴んだ。マイラはドキッとして彼の目を見つめる。
「手で触って確かめてくれればいい。」
マイラは目を大きく開き、口をキュッと閉じた。どうしようかと悩んだが、仕方なく手を彼の額に載せる。どうやらまだ微熱があるようだ。
「少し熱がありますけど、そんなに高くないと思います。」
「そうか。・・・マイラの手、ひんやりして冷たい。」
「あの、水で濡らしたタオルを持ってきます。」
エリクスはまだ手を離さない。そして首を横に振った。
「いい。今は俺の側にいてくれ。」
「エリクスさん、でも私」
「マイラがいいんだ。頼む。」
イリス、そして自分との約束を守れない不甲斐ない自分に腹が立つ。だが今のマイラは、弱っている彼をどうしても放っておくことができなかった。
「わかりました。側にいます。」
「うん。嬉しい。」
エリクスの手が、額に載せられているマイラの手に重なった。そんな些細なことが本当に嬉しくて、切ない。
でもこの人の手はいつか必ず自分から離れていってしまう。彼の妹ですらいられなくなる日が来る。それでも今はこうして大好きな彼の一番近くにいられることを、マイラは心から感謝していた。
しばらくすると薬が効いてきたのか、彼はスウスウと寝息を立てて眠り始めた。マイラは起こさないようにそっと手を外すと、布団を直し部屋を出る。
(よかった、このまま休めばきっと良くなるわ。私も早く『治癒の魔法』を使えるようにならなくちゃ!)
マイラは改めて自分の目標を思い出すと、エリクスの手の感触を振り切るように、急いで自分の部屋へと戻っていった。
翌日、エリクスの両親が本邸に帰ってきた。だがそこに現れたのは彼ら二人だけではなかった。
「エリクス!帰ってきたわよ!」
セシーリアのよく通る声が玄関ホールに響く。メイド達は忙しなく動き始め、ヨアキムは穏やかな笑顔でそこに立っていた。
エリクスとマイラはすでに準備を整えていたため、今回は慌てることなく彼らを迎えることができた。だが彼らの横に現れた五人の女性達を見ると、二人とも顔を青くして黙りこんだ。
セシーリアが何かを言いたげに首を傾げると、エリクスはハッとして口を開く。
「父上、母上、お帰りなさい。ところでそちらのお客様方はいったい?」
セシーリアは相変わらず美しい。その美しさがさらに華やかになるような笑顔を見せると、あっさりとこう言った。
「あなたの婚約者候補達よ。」
「・・はい?」
エリクスはそう言った後絶句してしまい、マイラが慌てて背中を突き、小声で言った。
「お兄様、しっかりなさって!」
「あ、ああ。」
予想外の母の言葉に一瞬どうしたらいいのかわからなくなったようだったが、さすがは彼女の息子だけあって、マイラのその声かけで彼はすぐに冷静さを取り戻した。
「承知いたしました。とにかくここではなんですから、皆さんも中へどうぞ。」
美しく個性的で、明らかに良い家柄のご令嬢達だ。マイラはその五人の後ろ姿を見送ると、複雑な思いを抱えながら、彼らが向かった応接室へと少し距離を空けてついていった。