66. 遠い日の記憶
翌週から、マイラはようやく学校に行けることになった。だがそれはあくまでも安全を確保できる時だけ、マイラはエリクスにそう約束させられていた。
校内では基本ケイトやミコルと共に必ずいること、もし離れることがあっても極力教室を離れないことなども約束させられた。
少しだけ窮屈なその生活の中でも、ほっこりすることもあった。
プレゼントを渡したあの日から、イリスは嬉しそうに毎日あの懐中時計を使ってくれて、時々それを優しく磨いている光景を見かける。
エリクスもまた登下校の際には必ずあの手袋を身につけ、まるで自慢するかのように周りに見せつけながら歩くので、マイラは数日の間顔を赤くしながら隣を歩いていた。
そんな穏やかな日々がしばらく続き、すっかり安心しきっていたある日のことだった。
マイラはその日、いつもなら必ず付き添ってくれているミコルが体調不良で学校を休んでいたため、教室でエリクスが迎えにくるのをケイトと二人で待っていた。
だがケイトが先生に呼ばれてマイラの側を離れた時、ディーンが久々に現れ、マイラのいる教室にひょこっと顔を出した。
「お、いたいた!マイラさん、今ちょっと時間あるかな?」
「ディーンさん?ええと、今友達と兄を待っているんですが・・・」
(あれから一度も顔を合わせることはなかったけど、何だろう突然・・・しかもタイミングが良すぎる!)
マイラが警戒しながらそう話すと、ディーンは困った顔になって「そっかあ」と呟いた。
「・・・何かお困りですか?」
そんな顔をされるとつい助けたくなってしまうマイラは、悩んだ挙句渋々そう問いかけた。途端にディーンは笑顔になってそれに答える。
「うん。実は図書室の棚の隙間に大事な紙を落としちゃってさ。俺だと手が引っかかって届かないんだ。もし時間あったら、数分でいいから手伝って貰えないかなって。」
「あの、移動魔法を使ってみたらどうですか?」
彼は目を大きく開いてからあははと笑った。
「移動魔法は校内での使用は俺達三年生でも許可されてないよ。手の小さいマイラさんなら取れそうなんだけど、どうかな?」
両手を組んでお願いされてしまったマイラは少し困ったような笑顔で頷き、腰を上げた。
図書室にたどり着くとそこには誰も生徒がおらず、マイラは少し不安になった。だが今日のディーンからは、前回この場所で会った時のような不穏な雰囲気は感じられない。
(私が考え過ぎだったのかな?)
微かな不安を押し殺して、ディーンに言われた場所に手を突っ込んだ。すると確かにそこには何かの紙が落ちている。さらに腕を伸ばし、紙を指先で掴むと、ゆっくりと手を引き抜いた。
「取れた!ディーンさん、これですか?」
「そうそう!ありがとう!助かったよ。今日提出しなきゃならない書類でさ。付き合わせちゃって悪かったね。」
「いえ。それじゃあ私は」
マイラが別れの挨拶を告げようとしたその時、ディーンがゆらっとマイラの方に倒れ込むように近付いた。驚きすぎて避けきれず、マイラはギュッと目を瞑る。
すると足元で何かが光った。瞑った瞼越しでもわかるほどの強い光。それを感じた瞬間、マイラの意識は別世界へと旅立っていった。
― ― ―
白い壁、白いカーテン、白いシーツ。
小さなその部屋のベッドで、舞は天井をじっと見つめていた。
まだこれからやりたいことがたくさんあった。就職も恋愛も、結婚だって出産だって、何でもできることはやってみたかった。
でも、きっともうできない。
親は何もはっきりしたことは言わないけれど、時々母は泣き腫らしたような目をしている時があるのを舞は知っている。
父はいつも通り無口で穏やかな表情で時々見舞いにくるが、以前よりも皺の多くなった顔を見る度に、舞がいないところでは思い悩んで過ごしているのだろう。
様々な機械に繋がれた自分の姿を確認する度に、溢れそうになる涙をぐっと堪える。
もっと生きたかった。
誰かのためになる仕事がしたかった。
もっともっと・・・
舞の意識は、そこでふっと途切れていった。
― ― ―
「マイラさん!?大丈夫?」
ディーンの顔が近い。しかもなぜ斜めに見えるんだろう。
「マイラさん?」
頭が痛い。割れるように痛い。何か夢を見ていたような気がするのに、思い出せない。辛い夢だったような、苦しい夢だったような・・・
「はっ、ディーンさん!?」
ようやく自分が床に倒れているという状況を理解したマイラは、素早く避けたディーンの側でガバッと体を起こした。そこは先ほど紙を拾った棚のすぐ横の床で、マイラはさっと周りを見渡してからゆっくりと立ち上がった。
「大丈夫?ゆっくり立ったほうがいい。」
ディーンがそっと腕を支えてくれたので、マイラは頭を軽く下げてお礼を言った。
「ありがとうございます。どうしたんだろう、私・・・あの、急に倒れちゃってすみません!」
「いや、いいんだ。それより・・・何か思い出したことはある?」
「え?」
ディーンの探るような視線がマイラに刺さる。マイラは彼の言っている意味がわからず、余計に混乱する。
「いえ、特に何も。何か変な夢を見ていたような気はしますけど。」
「そう。そっか。・・・ねえ、ニホン、って知ってる?」
「え?いえ、何ですか、それ?」
マイラの本気でわからないといった表情に、ディーンは笑って自分の質問を誤魔化した。
「何でもないよ。変なこと聞いてごめん。そうだ!紙、取ってくれてありがとう。教室まで送るよ。」
「いえ、大丈夫です。お役に立てて良かったです。じゃあ、失礼します。」
マイラはぼんやりする頭を抱えながら、急いで教室へと戻っていった。
― ― ― ― ―
風のように去っていったマイラの後ろ姿を見送ったディーンは、床に手を当て、自分が準備した魔法陣の痕跡を丁寧に消していく。
「まさか、同じ境遇の人間がこんな近くにいたとは・・・」
全ての痕跡が消えたのを確認すると、立ち上がって膝についた埃を払った。
「欲しいな、あの子。」
小さくそう呟くと、ディーンは先ほどマイラに拾ってもらった紙をぐしゃぐしゃに丸めて、近くにあったゴミ箱に放り込んだ。
― ― ― ― ―
マイラが教室に戻ると、ケイトがすぐに気付いてマイラに飛びついた。
「マイラ!!どこ行ってたのよ!?心配したんだからね!!」
「うわあっ!?ごめん!ちょっと助けてくれって頼まれて・・・って、お兄様もう来ていたんですか?」
ケイトの後ろにはエリクスが青ざめた顔で立っていた。その表情に胸が痛む。
「マイラ。帰ろう。」
エリクスがおそらく怒っているのだろうとは思ったが、ケイトに別れの挨拶をした後マイラは一言も発しないまま、彼の後ろを歩き続けた。
(怒ってる、きっと怒ってるよね・・・勝手に教室を離れて、心配かけて。ああ、どうしよう・・・)
エリクスの後頭部をじっと見つめながら歩いていると、校門を出て少し歩いた人通りの少ない道で、突然彼が立ち止まって振り向いた。
「マイラ、さっきは誰とどこにいた?」
彼のいつもよりも低く暗い声に、マイラの背筋が凍る。
「・・・ディーンさんに、隙間に落ちた紙を拾ってほしいと言われて、図書室にいました。」
「ディーン、またあいつか。」
エリクスの表情は先ほどよりもさらに強張っている。冷たい風が、二人の間をびゅうびゅうと吹き抜けていく。
「ごめんなさい、心配かけて。」
俯くマイラの柔らかい髪も強い風に翻弄されている。エリクスはふいにスッとマイラに近付き、手袋を外すとその髪をマイラの左耳にかけた。
彼の指が、耳にそっと触れる。
マイラの心臓はトクン、と音を立てた。
「それで、何があった?」
「また、意識を失って倒れたみたいで。」
「・・・」
エリクスの沈黙が恐ろしい。マイラは顔を上げられなかった。
「本当に、ごめんなさい。」
「ディーンにはもう接触するな。」
「え?」
「向こうから近寄ってきたら避けなさい。俺も気付いたら助ける。」
「・・・はい、わかりました。」
いつもなら反抗するような内容だが、マイラ自身もディーンの言動を怪しいと思っていたため、この時は素直に彼の指示を受け入れた。
申し訳なかったななどとぼんやり考えてると、ふいにエリクスの指が、マイラの髪を漉いて首筋を伝っていった。あまりのことに動揺して顔を上げると、そこには切なそうにマイラを見つめるエリクスの青い瞳があった。
(どうしてそんな目で私を見てるの?)
その視線の意味がわからず困惑するマイラの首筋から手を外すと、エリクスは再び前を向いて歩き始めた。
― ― ― ― ―
ディーンは図書室から出ると、廊下でばったり兄のユギに出くわした。ユギは軽く眉を上げると、持っていた本を軽く上げて「よう」と声をかけてきた。
「兄さん、今日は会議って言ってなかった?こんな所でフラフラしてていいの?」
「あー、まあいいんだよ。あんなの適当に出れば。それよりお前が図書室に来るなんて珍しいな。」
表情も変えず、時間がないはずのユギはのんびりとディーンに話しかけている。
「別にいいだろ。それよりほら、早く行きなよ!不良教師って言われるぞ!」
ディーンがグイグイ背中を押しながらそう言うと、ユギはハイハイと面倒くさそうに返事をしてから去っていった。ディーンはその後ろ姿をじっと見守る。
(兄さん、俺、この世界に生まれて初めて楽しみに思えることができたんだ。でも・・・)
振り返って誰もいない図書室を眺める。ここは向こうの世界と何ら変わりない場所。だからこそあまり近寄りたくはなかった。
ディーンはその静まりかえった空間から目を背けると、兄とは反対方向に歩き始めていった。