61. ナタリアの接近
それからしばらくの間、マイラは学校と家とを行き来しながらコツコツと勉強を続けるだけの単調な日々を過ごした。
魔法の実技の方は以前エリクスが教えてくれたように得意な土魔法と移動魔法が中心となっていたため、特に自宅での練習も必要なかった。
だがその穏やかな日常の中でも、マイラの心の中では小さな変化が起きていた。
ここ最近エリクスもイリスも、マイラを動揺させるような言動が多くなってきたように感じ、少し距離を置いた方がいいのではと考えるようになっていた。
そうしてマイラは少しずつ彼らとの接点を減らし始め、二人っきりになるような時間は極力作らないようにしていった。
そんなある日の朝。
前日の夜から冷え込みが厳しくなっていたため、イリスはマイラのために少し厚めのコートを準備していた。
部屋でそのコートをマイラに着せてカバンを手渡すと、それと同時にイリスは自然な形でわざとマイラの手に触れた。
「あっ!?」
焦った様子のマイラはカバンごとスッと手を引き、急いで部屋を出ようとする。それを見たイリスは大股でマイラの横を歩き、まさに今開けようとしていたドアを手でグッと押さえてそれを妨害した。
「何するのイリス!?」
「マイラ様は私を避けておいでですか?」
「・・・」
「それは、私がこの間あなたの額にキスをしたからですか?」
「!!」
赤くなっていく頬をじっと見つめながら、イリスはドアから手を離した。
「申し訳ありませんでした。あなたを困らせるつもりはなかったんです。少し性急過ぎました。あなたとのことはゆっくり進めていきます。だから今はあのことは忘れて、いつも通りに接してください。あなたが冷たいと、俺は・・・」
「イリス・・・」
マイラは悲しそうな表情に変わっていく彼を、どうしても放ってはおけなかった。
「うん、わかった。ごめんねイリス。でも本当にああいうことはその、やめてほしいの。だから、イリスのこと嫌いになったわけじゃないから落ち込まないで!」
イリスはそれを聞くと少しだけ笑みを浮かべて頷いた。そしてドアを開ける。
「ありがとうございます。それではお見送りいたします。」
「うん。」
(マイラは優しい。そして俺に甘い。それにつけ込むようなことをしてしまって申し訳ないが、今はマイラの心が離れてしまわないようにするのが先決だ)
イリスは細く小さな背中と柔らかな髪が揺れる後ろ姿を見ながら、ゆっくりと階段を降りていった。
そしてその日もいつも通りエリクスといい距離感を保って学校に向かっていると、彼は急に忘れ物をしたと言って、マイラをその場に置いて家に戻っていった。
普段から少し早めに家を出ているマイラはまだ時間に余裕があるのを確認すると、兄が戻ってくるまで道の端に寄って彼を待つことにした。
するとその時、ふんわりと風に乗って花のような香りがマイラの鼻に届く。
(いい香り。何の香りだろう?)
そう思ってキョロキョロと辺りを見渡していると、マイラはふいに肩をポンと叩かれ、驚いて振り返った。
「わっ!?あ、ナタリア様!?」
「マイラさん、おはようございます。」
「お、おはようございます・・・」
登校時には必ずどこかで顔を見かけるものの、最近はほとんど声をかけられることもなくなっていたナタリアからの急な接触に、マイラは動揺を隠せなかった。
「今日はエリクス様とご一緒ではないのかしら?」
ナタリアは相変わらず美しい。花のような香りは彼女の髪が揺れると香ってくるため、整髪料か何かなのだろう。
「ええと、今お兄様は忘れ物を取りに行っています。」
「まあ、そうなの!では今はマイラさんとお話できるわね!」
「え?私ですか?」
「ふふ!ええ、そうよ。マイラさんとは是非仲良くなっておきたいと以前から思っていたの。もちろんエリクス様のことはとてもお慕いしているわ。でもそればかりが理由ではないの。」
ナタリアはマイラの腕に手をかけ、優しく微笑む。
「あなたにもとても興味があるのよ。ねえ、先輩後輩の関係ではあるけれど、私達もお友達になりません?」
「え?お、お友達、ですか!?」
想像もしていなかった提案に、マイラの頭の中にはたくさんのはてなが浮かんでいく。
(お兄様との仲を取り持って欲しいのかな?それとも私の何かが気になってる?もしかして私の魔法のことがバレてるとか!?)
困った困ったと思って曖昧な笑みを浮かべて首を傾げていると、そこにエリクスが急いで戻ってくる姿が見えた。
「あら、もう戻ってきてしまったのね。じゃあマイラさん、考えておいてね!」
「え?」
てっきりエリクスを待っているのだと思っていたマイラはすっかり拍子抜けしてしまい、口を開けたままその輝く金色の髪が遠ざかっていくのを黙って見送っていた。
その後マイラと合流したエリクスにナタリアと何があったのかとしつこく聞かれたが、まだ何もないこと、お友達になりたいと言われたことだけを話し、足早に登校すると逃げるように教室に飛び込んだ。
(もう、相変わらず過保護なんだから!)
マイラはカバンを自分用のロッカーに入れると、必要なものだけ出して席に着く。ナタリアのことは疑問は残るものの、デジレの時のような敵意は感じなかった。
結局その日はそれ以降ナタリアに声をかけられることはなかったが、マイラは一日中彼女の気配を窺って過ごすことになった。
次の日の放課後。マイラがクラスメートに挨拶をして教室を出ると、廊下にナタリアが立ってマイラを待っていた。
「ナタリア様!?」
「マイラさん!待っていたわ!」
「ええっと・・・」
マイラが動揺してあたふたしていると、ナタリアはニッコリと微笑んでマイラの腕に自分の腕を絡ませた。彼女の紺色のコートに金色の髪が映えて美しいなあなどと場違いなことを考えていると、ナタリアはその間にズルズルとマイラを引っ張って外に連れていく。
「あの、一体どこへ向かっているんですか!?」
校門を出たところでやっと我に返ってそう尋ねると、ナタリアは嬉しそうにふふふと笑い、指をさした。
「あそこよ!あの路地の奥に小さなカフェがあるの。そこでお茶をしましょう。もちろん私がご馳走するわ。」
「え?ですが・・・」
目を向けた先にある路地には小さいが洒落た店がひしめいている。人通りも少なくない。ナタリアに危害を加えられるような場所ではなさそうだが、つい裏があるのではないかと勘繰ってしまう。
「エリクス様にはそのことを手紙にして机の上に置いておいたから大丈夫!さあ参りましょう?」
だが結局強引なナタリアに流されるようにして、マイラはその路地の奥にあるというカフェへと連れ去られていった。
小さいが上品な雰囲気のあるその店で、マイラは今、機嫌の良さそうなナタリアに微笑まれながらお茶を飲んでいる。
(どうしてこんなことに・・・)
話すことも思い浮かばず、ひたすらカップを口に運ぶ。
「マイラさん、私がお声をかけたこと、不思議に思っていらっしゃるんでしょう?」
「え?あ、ええと、まあ、はい。」
相変わらず勢いでは嘘がつけないマイラは、言葉を濁しながら頷いた。ナタリアは美味しそうなフルーツが散りばめられたケーキをゆっくりと口に運ぶ。最後にお茶を一口飲みこむと、上品に微笑んで再び口を開いた。
「実はね、私、デジレ・メローとはかなり揉めていたの。しかも、家族も巻き込んでね。」
デジレの名前がナタリアの口から飛びだしたことに驚き、マイラはお茶を噴きだしそうになる。慌ててごくんと飲み込むと、じっとナタリアの顔を見つめた。
「驚かせてしまったかしら?ごめんなさいね。でも本当のことなのよ。あの人、エリクス様のことで私にずっと嫌がらせをしてきたの。私だって決して彼に好かれているわけではないのに、あの人は私が彼に近寄るのも嫌だったみたい。」
「どうしてそこまで・・・」
焦茶色の丸テーブルの上に、ナタリアはそっとカップを置いた。その顔は厄介ごとに悩まされてきた人特有の、疲れと諦めのこもった表情に変わっていた。
「エリクス様のことがなくても、同じ科で同じくらいの成績でしかも我が家と彼女の家は同業だったこともあって、何かにつけてあの人にライバル視されていたのよ。だからといって私が彼女に何かしたわけではないわ。むしろ関わりあわないようにしてきたつもり。でもデジレさんはしつこく嫌がらせをしてきたの。」
ナタリアはため息をつくと窓の外に目を向けてから続けた。
「教科書を捨てられたり、机を汚されたりなんて可愛いもの。エリクス様と話をした日なんてカバンが切り裂かれていたのよ。・・・そんな彼女が、あなたと揉め事を起こして以降姿を消した。彼女の家の仕事も、デジレさんの不祥事が広まって、今は大変なことになっているらしくてね、我が家への攻撃もぱったり止んだの。」
「・・・そんなことがあったのですね。」
マイラの同情的な視線に笑顔を返したナタリアは、それまでとは打って変わって明るい声で話し始めた。
「ええ。それでね、きっとあなたが何とかしてくださったんじゃないかなと思って、今日はどうしてもお礼が言いたかったの。私をあの人から救い出してくださってありがとう。」
マイラはとんでもないと言うように手も首も振って目を丸くする。
「そんな、お礼だなんてやめてください!私はただ襲われたので反撃しただけなんです!結果的にナタリアさんを救うことになっただけで、私なんて何もしていませんから!」
ナタリアはふふふと面白そうに笑う。
「わかっているわ。でも私はあなたとこれをきっかけに本当にお友達になりたかったのよ。エリクス様のことは・・・憧れてはいるけれど本当はもう無理なのはわかっているの。それに今は気になる人もいるしね。」
少し親しみのこもった口調に変わってきたナタリアに、マイラの緊張感も薄れていく。
「そうなんですか?それじゃあ兄のことはもう?」
「ふふ、彼はずっと私の憧れの人で居続けるでしょうね。でもそれだけよ。そうだ、最後にデジレさんのことだけど。」
マイラはハッとしてナタリアの言葉を待つ。
「魔法陣の発動に失敗したようで、かなり精神に異常を来しているらしいわ。通常の陣だって危ないのに、どうも相当危険なものに手を出していたようなの。ただ、その情報をどこから手に入れたかはわからないんですって。マイラさん。」
「はい!」
ナタリアはテーブルの上のマイラの手に自分の手を重ねた。細く柔らかい指は冷え切っている。
「あなたには注意喚起もしておきたくて、こうして無理言ってお会いしたのよ。何か恐ろしいことが起きている気がするわ。あなたは大切な方の妹さんだもの。困ったことがあったら今後はいつでも私に相談してちょうだい。」
「ナタリア様・・・はい、ありがとうございます!」
マイラは笑顔の美しいナタリアと微笑み合い、素晴らしい友人ができたことを心から喜んだ。だがその胸の内には、新たな不安の種も芽生え始めていた。