51. エリクスの決意
時は少し前に遡る。
マイラが観劇のため出かけてしまった午後、エリクスは書斎で手紙を書いていた。
学校が始まったとはいえ、全く仕事に関わらないわけにもいかない。必要なやり取りは日々何かしらあるため、その日も学校の課題を終わらせるとすぐそれらに取り掛かった。
しばらく黙々と仕事を続け、ふと時計を見るとすでに夕食の時間になっているのに気付き、ペンを置く。
(そうか、今夜はマイラがいないのか・・・)
少しそれを寂しく思いつつも、試験勉強を頑張っていた彼女が楽しんできてくれればそれでいいと、微かな笑顔を浮かべて手元の手紙に封をした。
書斎を出て廊下を進み、階段を降りる。すると階段の下でイリスが苦い顔をしてエリクスを待っているのが見えた。
「どうしたイリス。ずいぶんと不機嫌そうな顔をしているな。」
イリスはその言葉には特に反応を示さず、事務的な口調であることを話しはじめた。
「エリクス様、今日マイラ様は観劇のご予定とか。ですがそのお相手がどなたかご存知ですか?」
エリクスはそう言われて初めて、昨日のマイラとの会話を思い返す。そういえば誰と一緒だと言っていただろうか?いや、特に誰と行くとも言ってはいなかった・・・
エリクスの表情を見てイリスは勝手に何かを納得し、小さく頷いた。
「やはり。おそらく聞かれたら素直に答えたと思いますが、聞かれなかったので話さなかったのでしょうね。マイラ様は今日、同じクラスのカイル様とお出かけになられています。」
「カイル!?」
エリクスはその名を聞いて、あの日あの診療所でカイルがマイラに告白をしたことを思い出し、真っ青になった。まさか今日一緒に行っているのがカイルだとは・・・
「まさか、あいつとマイラが!?」
「エリクス様、お迎えに行かれた方が良いのではないですか?」
イリスが意味ありげな表情でそう提案する。
「ああ。すぐに準備する。」
「馬車を用意してまいります。」
「いや、待てイリス。」
エリクスはふと何かに気付き、さっそく動き始めたイリスを引き留めた。イリスはゆっくりと振り向く。
「何でしょうか。」
「なぜ今さら俺の味方をするんだ?」
エリクスの疑うような視線を、彼は余裕の笑みで弾き返す。
「私は私とマイラ様の利益のためにしか動きませんよ。あなたの味方をしているわけではありません。」
「・・・じゃあなぜそんな情報をわざわざ俺に教えた?」
「私が悪者にならずにマイラ様から悪い虫を引き剥がすためですよ。まあ、あなたにとっても悪い話ではないでしょう?」
エリクスはイリスという男の抜け目のなさとマイラへの執着の強さを身に沁みて知る。だが今は時間がない。まずはマイラをカイルから引き離すことが最優先課題だ。
「君とマイラのことは後回しだ。とにかくすぐに向かう。馬車を頼む。」
「承知いたしました。」
イリスは全て自分の思う通りに事が運んでいるのを喜んでいるのだろう。その口元には僅かだが笑みが浮かんでいた。
そうしてその夜、マイラとカイルの逢瀬を邪魔したエリクスはその後馬車の中で暴走し、マイラの頬に勢いでキスをしてしまうことになる。
彼女の柔らかい頬の感触がエリクスの唇に伝わる。
あまりにも甘く、それ以上触れたら溶けてなくなってしまいそうな柔らかさに、エリクスの理性は一瞬で吹き飛んだ。
だが、マイラの唇も奪ってしまいたいという気持ちに抗えず再び顔を近付けた時、彼女の体がゆっくりと傾いていくのに気付き、青ざめた。
「マイラ!?」
慌てて首元に置いていた手で体全体を支え、マイラの名を何度も呼ぶ。しかしどうやら彼女は気絶してしまったようで、エリクスの呼びかけには一切反応しなかった。
理性をなくしたエリクスが無意識に大量の魔力を放出してしまったせいで、マイラの意識が一時的に奪われてしまったのだろう。
そんな状態になってみて初めて、エリクスは自分がしでかしてしまったことの意味を理解し、マイラを抱えたまま顔面蒼白になっていった。
(あれほどマイラの嫌がることはしないと決意していたのに。俺はいったい何をやっているんだ!!)
マイラの、まるで眠っているようなその顔を見る。高さはあるが小さい鼻、いつも笑っていて、だが時々怒りを見せるその大きな目とクルッとカールしたまつ毛、そして・・・
(この可愛い唇を、いつも俺の名を優しく呼んでくれる唇を、俺だけのものにしたいんだ、マイラ・・・)
悪いと思いつつもエリクスはその微かに開いた唇に指でそっと触れてみる。
その瞬間、身体中にビリビリとした何かが走る感覚がエリクスを襲った。
自分が心の底から、全身で、彼女を求めているのがわかる。だからこそエリクスはそこで必死に思いとどまった。
(駄目だ!俺はこのままじゃ駄目だ!マイラに何の問題もなく不安もなく俺の元に来てもらうために、俺は母上の用意した試練に打ち勝たないといけない。それまでは『偽の兄』で居続けないといけないんだ!!)
そして愛おしいマイラをそっと抱きしめると、小さな声で魔法をかけ始めた。
「ごめん。今夜のことは忘れてくれ。でも俺は、マイラがこれからも俺のことを好きでいてくれると信じてる。マイラ、俺も君が好きだ。だから、もう少し待っていてくれ。必ず、必ず俺がなんとかするから・・・」
キラキラとした光が馬車の中に満ち、マイラの頭上からその光が優しく降り注いだ。目が覚めた時には、この馬車で起きたことは全て記憶の奥底に眠ってしまうだろう。
「マイラ、俺のマイラ。ゆっくりおやすみ。」
指示を出し動き出した馬車の中でエリクスは、膝の上ですうすうと寝息を立てながら眠るマイラの髪を撫でながら、自分自身が立ち向かわなくてはならない未来、必ず手に入れたい未来を真剣に思い描いていった。
― ― ― ― ―
翌朝、マイラはベッドの上でぼんやりと窓の外を見つめていた。
朝食はイリスが気を利かせて部屋に運んでくれたので、パンを一つとゆで卵だけを食べ、疲れたと言って再びベッドに横になっていた。
前日のことは結局よく思い出せなかった。
カイルに別れ際何かを言われたことまでは覚えている。それに返事をしようとしたはずなのだが、誰かに邪魔されたような・・・そこまで考えるとその先が何も思い出せない。
イリスに尋ねると、
「エリクス様が迎えに行ったようですが、どうもそこでマイラ様が急に体調不良になって馬車で帰ってきたとのことでした。」
と、何ともよくわからない話をされてしまった。
(体調なんて悪くなかったのに、いったい何があったんだろう?)
だがマイラがどんなに思い出そうとしても、何一つそれ以上の記憶を引き出すことはできなかった。
結局その日は一日部屋でぼんやりと本を読んだり試験勉強で荒れていた机の片付けをしたりして過ごし、夕食の時間になってようやくエリクスと顔を合わせた。
「マイラ、体調はどうだい?無理は駄目だぞ。」
「・・・はい、大丈夫です。」
食事をしながらマイラに笑顔を向ける兄は、至っていつも通りの彼だった。だがマイラはエリクスが何か知っているのではないかと訝っていた。
「あの、お兄様、私、昨日・・・」
「マイラは倒れたんだ、馬車の中で。」
「え?」
エリクスの目はまっすぐにマイラを見つめている。その彼の目は、今まで見てきたどの目とも違うような気がして戸惑う。
「お医者様には診てもらったから心配はいらない。興奮による軽い貧血だったんじゃないかと言っていたよ。さあ、ゆっくりでいいからきちんと食事はとりなさい。明日からまた授業が始まる。体力をつけておかないと。」
マイラはすっかり良い兄に戻ってしまった彼を見つめながら、おかしい、と悩み始めた。
(カイルと劇を観に行ったことを知っているはずなのにそれについて何も触れないなんて、絶対におかしい!それに、どうしてこんなに冷静なの?いつもの彼なら・・・)
そこまで考えた瞬間、頭の中に小さな痛みが走った。
(何だろう?今何か思い出しそうだったのに!)
マイラはフォークを置いて手で額を押さえた。するとエリクスが黙って立ち上がり、マイラの元にやってくる。
不思議に思って見上げた彼の顔には、切なそうな瞳が揺れていた。
「お兄様?」
「痛むか?すまない。マイラをもう俺のせいで苦しめたくはないんだ。さあ、目を瞑って。」
その優しく眠気を誘う声が、マイラの瞼を重くしていく。
エリクスの手が、マイラの髪に触れた。
そして目を開ける。
エリクスは当たり前のように食事を続けている。マイラもフォークを手に、自分の皿を見ていた。
(何だったんだろう、今の?)
頭の痛みは消えていて、目の前の柔らかく煮込まれた肉が食欲をそそる。
「美味しそう!いい匂い!」
「そうだろう?うちのコックの腕は素晴らしいんだ。この煮込みは彼の得意料理だよ。さあ、ゆっくり味わって。」
「はい!」
そうしてマイラは気分が良くなった頭で何かを考えるのをやめ、目の前の美味しそうな食事に集中していった。