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50. 転換点

 マイラはその夜の夕食後、重い足取りでエリクスの部屋に向かった。一瞬躊躇った後ドアを軽くノックすると、足音が聞こえドアが開いた。


「どうしたんだマイラ?」


 夕食の時エリクスは朝のことを蒸し返さないでいてくれたので、マイラは緊張はしていたがそれほど警戒せずに彼の部屋に入った。


 エリクスはドアを閉めると、マイラの顔を笑顔で覗き込む。


「なんだ、言いにくいことか?」


 少しだけ声色が変わった気がしたが、マイラは意を決してカイルとのデートの許可をもらうため、口を開いた。


「あの、明日、クラスの子と劇を観に行ってきてもいいですか?」


 エリクスは何を言われるのだろうとドキドキしていたのだが、あまりにも拍子抜けするような内容だったので、ほっとしてつい笑ってしまった。


「あはははは!何を思い詰めているのかと思えばそんなことか!もちろんいいよ。試験も終わったし、少し羽目も外したいだろう。行っておいで。夕食には帰ってくるのか?」

「ええと、たぶん間に合わないかと・・・」

「そうか。まあたまにはいいよ。楽しんでおいで。」

「あ、ありがとうございます。」


 マイラは肝心なことに触れないまま、許可を貰った、ということにして素早く部屋を出た。


(どうしよう、たまたま上手くいっただけだったけど、なんだかずるいことしちゃったみたいな気分・・・)


 バクバクする心臓の音を感じながら、マイラはそそくさと自分の部屋に帰っていった。




 翌日は雲一つない、素晴らしい天気となった。


 マイラは午前中イリスにあれこれと翌週のデートの予定を相談され、彼の嫉妬深さに辟易しながら身支度を始めていった。


 エレンには事情を話してあったので、劇を見に行くときに最適な服を選んでもらい、髪も綺麗に結い上げてもらった。


 それを見てイリスは一瞬目を丸くした後、これみよがしに大きなため息をついて首を振り、黙って部屋を出ていった。


(イリス・・・本当にどうしよう、あの人!)


 頭が痛いなあと思いながらも無事支度を終えたマイラは、予定通りに迎えにきたカイルと共に町に繰りだした。



 劇が始まるまでに二時間ほど時間があるとのことだったので、カイルの案内で今まで入ったことのないお店を見て回ったり、小さなカフェでお茶を楽しんだりして過ごす。


 カイルはずっと嬉しそうに微笑み、マイラもまた仲の良いクラスメートとの時間を心から楽しんでいた。


「そろそろ時間だね。行こうか。」

「うん。楽しみ!」

「そうだね。」


 そうして二人はゆっくりと劇場までの道を歩き、時間通りに席に着いた。


 前から五列目という比較的近い場所で見るその劇は、迫力満点で素晴らしいものだった。そもそも劇自体もこんなに本格的なものを観たことがなかったマイラはすっかりその世界に夢中になり、幕間になってもうっとりと目を瞑って余韻を楽しんでいた。


 だが再び劇が始まった時、マイラはふいに手の甲に温もりを感じて思わず声を出しそうになるほど驚いた。


 それは、カイルの手だった。


 こんな場所で声を出すわけにもいかず、マイラは黙って手を引っ込めようとする。だがカイルはしっかりと握って離してはくれなかった。


 仕方なくマイラは彼のその手をもう片方の手で突いて手を離すように促したが、彼はその手にも自分の手を重ね、マイラは全く身動きが取れなくなってしまった。


(どうしよう?こんな状態じゃ落ち着いて劇が見られないじゃない!?)


 動揺しながらも続きが気になって前を見ていると、上に重ねた手の方だけ解放してくれた。だがもう片方は何があっても離さないと言わんばかりにしっかりと握られている。


 マイラは諦めて前を向くと、手のことを無理やり忘れて劇に集中することに決めた。



 そして再び幕間の時が来る。


 ざわざわとそれぞれの時間を過ごす観客達の中で、マイラは少し怒った顔でカイルに物申す。


「カイル!もう、勝手に手を握るなんて!」

「あはは!怒っても可愛いな、マイラは。」


 全く響いていない様子のカイルにがっくりと肩を落とし、マイラはようやく返してもらった手をしっかりと届かないところにしまいこんだ。


「あと一幕で終わりだね。マイラが楽しんでいるようでよかった。」


 カイルがいつも通りの彼に戻ったのを見て、マイラも少しだけ緊張を解く。


「そうね。こんなに本格的な劇をこんなに間近で見られるなんて思っていなかったから、すごく嬉しいし楽しい!ああ、終わってほしくないなあ。」

「そうだね。俺もそう思うよ。」


 彼の言葉に違う意味が込められている気がして、マイラはハッとして彼の目を見つめた。そこには、マイラをじっと見つめ返すカイルの熱い視線が待ち構えていた。


 ドキッとして思わず目を逸らす。その瞬間ベルが鳴り、再びそこは暗闇に包まれた。



 最後の一幕が終わり、感動して笑顔いっぱいになったマイラは、浮かれた状態でカイルと感想を言い合いながら劇場の外に出る。


「でもあの人の演技は素晴らしかったわ!真に迫るってああいうことを言うのね!」

「俺はもう一人の女の人もよかったと思うなあ。」

「うんうん!わかる!あ、もう外は真っ暗だね。急いで帰らないと。」


 マイラがそう言って振り返ると、真顔になったカイルと目があった。


 周りには帰宅途中の観客が溢れ、マイラとカイルの間にも多くの人が通っていく。カイルはその隙間を縫って少しずつマイラに近付いていく。


「マイラ。」

「なに?」

「俺じゃ、駄目?」


 マイラは目の前に来たカイルをまっすぐに見つめた。そして手を伸ばしてきたカイルに、自分の思いを告げようとした、その時。



 パシッ、という乾いた音が耳に届く。それはカイルの手がマイラに届く前に、誰かの手で払われた音だった。


 そして目の前に、金色の輝きが揺れる。


「駄目だ。」

「お、お兄様!?」


 そこに現れたのは、冷たい声でマイラの代わりに答えを言ってしまったエリクスだった。


「マイラのお兄さん?」


 カイルはどうしてここに?という表情でエリクスを見つめた。エリクスはマイラを後ろに隠すようにカイルの前に立ち塞がる。


「申し訳ないが、俺が許可しない。マイラがどう思っていてもだ。今日はこれで失礼する。」

「え、あの、お兄さん!」

「行くぞ、マイラ。」


 マイラはそれ以上一言も声を発することができないまま、エリクスに引きずられるようにして近くに待機していたらしい馬車に詰めこまれた。


「お兄様、いったいどうしてここに!?しかもカイルにあんな失礼なことを!」

「マイラ」


 エリクスの低い声が、震えていた。


「な、何ですか?」


 その迫力に気圧されて、マイラは話していた言葉を途中で止め、彼の言葉の続きを待った。


「クラスメートって、カイルのことだったのか?」

「・・・はい。」


 怖い顔で追求してくるエリクスに、マイラは動揺する。


「俺を騙すようなことをして楽しいか?」

「そんなつもりじゃ」

「じゃあどんなつもりだったんだ!!」


 激昂する彼に驚き、マイラはうわずった声で反論した。


「ど、どうしてそんなに怒られないといけないんですか!?」


 怒りと興奮で上気した顔を見せるエリクスは、大きな声で叫ぶマイラと睨み合うようにして黙りこんだ。


 二人の間に、冷たく張り詰めた空気が流れる。


 それを先に打ち破ったのは、マイラだった。


「もう本当にいい加減にしてください!私はさっき彼にきちんとこの間の告白のことを断ろうと思っていたんです。今日一日デートをすれば彼も諦められるからって、そう言われたので。確かに誰と行くと言わなかったのは申し訳なかったです。でも何もやましいことはしていないし、そもそもお兄様には関係ないことです。もう、いい加減私のことは放っておいてください!!」


 叫ぶようにして一気に思いを吐き出すと、マイラは下を向いてはあはあと息を整えた。顔を上げたらまた怒りが湧いてきそうで、そのままじっと自分の靴を見つめていた。


 そして、エリクスが動いた。


 座席の上に置いてあったマイラの手にエリクスの手が重なる。マイラの頭上が暗くなり、驚いて思わず顔を上げてしまった。だがマイラはそれをすぐに後悔することになる。


「俺だけを見ていろって言っただろ、マイラ。」


 そこにはもうすでに『兄』の顔を持つエリクスの姿はなかった。目の前で自分を見つめているのは、明らかにマイラを女性として見つめる、切ない思いを抱えた男性の顔だった。


 もう片方の手が、マイラの首の後ろに回される。


「俺だけだ、マイラ。」


 その青さに心が吸い取られていくように、マイラはただひたすらエリクスの瞳を見つめてしまう。


「エリクス、さん?」


 首筋に回された手が燃えるように熱い。エリクスの青い目がどんどん近付いてくるのがわかるのに、マイラはもうその瞳に囚われて逃げられない。


「マイラは、俺だけのものだ。」


 彼の顔が目の前に迫り、マイラは目を大きく開いたまま硬直してしまった。怖いのに、逃げたいのに、もっと近付きたいと願ってしまう。そんな相反した感情に振り回されてパニックに陥り、マイラは瞬きすらできなくなった。


 互いの吐息が間近で感じられるほどに近付く。


 そしてエリクスは、唇で、柔らかなその頬に触れた。



 マイラの意識はその瞬間、プツッと途切れた。



 次に気がついた時、マイラはエレンに着替えさせられ、無理やり自分の部屋のベッドに寝かしつけられているところだった。


(あれ、私、さっきまで何してたんだっけ?)


 ぼんやりとした頭は何も思い出せず、まともに稼働しようともしなかった。


(何もわからない。眠い・・・寝よう、寝て、明日思い出そう・・・)


 マイラはそのままそっと目を閉じ、エレンはその様子を確認すると、部屋の灯りを消して静かに部屋を出ていった。


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