48. 希望の光
その日の午後、予定通りイリスはマイラの元に戻った。エリクスの屋敷に着くと、そこにいた使用人達と立ち話をしてからマイラの部屋に向かう。
「マイラ様、ただいま戻りました。」
イリスは行く前と何ら変わりなく、いつも通りの穏やかな表情と整った服装でマイラの前に現れた。だが彼の方はマイラの顔を見てすぐに、彼女の異変に気付いた。
「マイラ様、どうされたのですか?少し顔色が悪いですね。私がいない間に何か・・・」
「イリス!!」
マイラは、突然イリスに抱きついた。
イリスは予想外すぎるマイラの行動に驚きつつも、その体を全力で受けとめる。マイラは彼の胸に顔を埋め、ボソボソとくぐもった声で話し始めた。
「イリスの言う通りだった。私にはもう、諦めるっていう選択肢しか残ってなかった。」
「・・・何か言われたのですか?セシーリア様に。」
マイラはゆっくりと顔を上げた。
「知っているの、あの方のこと?」
「ええ、まあ。有名な方ですから。それと先ほどキーツが今日お見えになったことを話していましたので。」
なるほどと思っているとイリスが真面目な表情で話を続けた。
「ルーイ商会は元々大きく力のある商会でしたが、ここ数年は彼女の力でさらにその勢力を伸ばし、今や国内外問わずルーイ製の商品は人気がございます。・・・それに、エリクス様もそろそろご卒業の時期。もしかしたら縁談の話も来ているのではないかと。」
「縁談・・・」
放心状態で俯いたマイラは、イリスに頭を優しく撫でられていることにすら全く気付いていなかった。
「そう、そうよね。わかってたことだった。そもそも私の役目を考えたら当然のことだった。落ち込むなんておかしな話だわ。・・・イリス。」
「はい。」
マイラは再び顔を上げ、イリスから離れた。
「私、勉強を頑張るわ。そして約束通りあの絵を描いてもらって、この家を出る。」
イリスは近付き、マイラの冷え切ってしまった手を握った。
「わかりました。私はどこまでもいつまでも、あなたのお側にいます。」
「・・・え、でもそれは」
「あなたの心が手に入らないならそれでもいい。私に、あなたの一番近くの場所をいただけませんか?」
「イリス・・・」
マイラの心は揺れ始める。だが深い悲しみの中にいるマイラには、今答えを出すことはできなかった。
「わがままなのはわかってる。でももう少しだけ、友達として、側にいてくれる?」
イリスの目が大きく開かれた。
「・・・はい。どんなことがあってもお側を離れません。」
そうして二人は再びゆっくりと近付き、マイラは彼の腕の中で、苦しすぎて吐きそうなほどの想いを、少しずつ癒していった。
翌日、マイラはいつも通りの明るい笑顔を取り戻し、久しぶりの学校生活をスタートさせた。
前日イリスに散々甘えてしまったことを反省しつつも、彼から元気をもらい、新たな気持ちで頑張ろうと思えるようになったことを心から感謝していた。
エリクスと一緒に登校する時間は拷問のように胸が苦しく感じられたが、帰ればイリスがいる、学校ではケイトやミコルがいると思えば、どうにか耐えられそうな気がしていた。
(頑張ろう!私の目標のために!)
エリクスは少し顔色の悪いマイラのことを心配している様子だったが、マイラが「大丈夫です!元気です!」と言い張るのでそれ以上何も言うことはできなかった。
初日はそんな状態で何事もなく学校に到着し、教室では二日後に始まる試験の説明や、休み明けの大まかなスケジュールについての確認が行われていった。
久々のクラスメート達との再会は、マイラの苦しい思いをしばらくの間忘れさせてくれた。気心の知れた仲間達と休み中の出来事を語り合い、試験への不安をお互いに吐き出しながら、その日は午前中に帰宅することとなった。
そして二日後、とうとう三日間の定期試験がスタートした。
最初の二日間、マイラは思っていたほど緊張はせず、頭に詰め込んだことを一つずつ、落ち着いて試験用紙の上に書き記していくことができた。どの教科のテストも時間がかなり余り、じっくりと見直しをする時間も確保できた。
(記憶違いさえ無ければそれなりの点数が取れそう。よし、後は実技テストだけね!)
二日間かけて全ての筆記試験を終えると、マイラは翌日の実技試験に向けた最終確認をしようと、急いで家に帰った。
この日は「お兄様も試験があるんですから」と言ってエリクスの指導を断り、イリスにお願いした。彼は気付いたことをわかりやすく優しく伝えながら、マイラの納得がいくまで練習に付き合ってくれた。エリクスはその日の夕食時、少し不満そうにしてはいたが、あえてそのことには触れないように過ごした。
そうして迎えた試験最終日。
マイラは朝からかなり緊張していた。制服に着替え、身だしなみを確認し、何度も昨日の練習を思い出しながら階段を降りる。そして玄関先でイリスからカバンを受け取ると、彼の笑顔がマイラを励ましてくれた。
「マイラ様、大丈夫です。昨日の練習通りになさってください。とても素晴らしい出来でしたよ。」
「うん、ありがとう!頑張ってくるね。うう、緊張する!」
エリクスはそんなマイラの姿を見ながら、キーツが開けてくれたドアを通って先に外に出る。そしてキャッと言う声に反応し、驚いて振り返った。
「我が家に伝わる、緊張を解く魔法です!」
「もう!イリスはいつもそうやって揶揄うんだから!」
マイラが自分の手を握りながら顔を赤くして立っている。エリクスは何があったのかは見えなかったが、マイラの顔を赤くさせるような何かをイリスがしたことだけは理解した。
エリクスは今出たばかりの玄関を戻り、イリスを睨みながらマイラの手を掴む。
「え?お兄様!?」
「マイラ、もう行くぞ。遅れる。」
「うわ、ちょ、ちょっと引っ張らないでください!ねえ、お兄様!?」
口をきつく結び、マイラをぐいぐい引っ張るようにして外に出る。そしてその小さく柔らかい手を強く握りしめたまま、早足で歩き続けた。
「もう、いい加減にしてください!!」
エリクスはマイラに手を振り解かれ、大通りに沿って続く歩道の真ん中で立ち止まった。横を通勤、通学途中の人々がどんどん通り抜けていく。
「・・・マイラ、さっきイリスに何をされたんだ。」
マイラが赤くなった自分の手を見つめている。エリクスは自分ではどうにもならないほどの嫉妬心を露わにして、マイラに詰め寄る。
「な、何って、そんな大したことじゃありません。」
「じゃあどうしてそんなに顔が赤いんだ!」
マイラはあからさまに目を逸らした。
「・・・お兄様には関係のないことですから。」
「関係ない?」
「こんな場所でこれ以上この話をしたくありません。行きましょう。」
マイラはエリクスの横をすり抜け前を歩き始める。エリクスは顰めっ面のままその後ろ姿を追いかけた。マイラの後ろ姿を見ながらエリクスはなおも追求を続けた。
「関係ないことはないだろう。イリスが何かしたのなら俺が」
「何かをしたからと言って私が気にしていないんですからそれでいいでしょう?」
「じゃあどうしてあんなに顔を真っ赤にしていたんだ!」
「それは!・・・手のひらに、キスをされたから。」
「な、なんだと!?」
エリクスが叫ぶ。人々が振り返るのも気にせず叫ぶ彼をマイラは青くなって止めた。
「やめてください!!もう、本当に、こんな場所で!!」
マイラは無理やりその腕を掴み、先ほどよりも早足になって兄を引っ張って前に進む。エリクスは今度は少しだけ気を遣い、小声で話しかけた。
「どうしてそんなことを許しているんだ?マイラはイリスとはいったいどういう関係なんだ!」
「どういう関係でもありません!・・・今は。」
「今は!?」
次第に声が大きくなっていく。
「お兄様には関係ない話なんです。放っておいてください!」
「放っておけるわけないだろ!!」
「どうしてですか!?」
マイラは興奮が止まらない彼に業を煮やし、高さのある建物の間の人目につかない場所へと移動していた。
「どうしてって、それは」
「私達は兄妹です。それも契約上の。」
「・・・」
「何度でも言います。人目につく場所ではあなたの妹を、あなたを溺愛する妹を完璧に演じます。でもそれだけです。」
エリクスの腕から手を離したマイラは、そこで大きく息を吐き出した。
「私とイリスのことは放っておいてください。あなたには関係ないことです。お兄様が・・・無事婚約して私の代わりになる人が現れるまで、きちんと役目は果たします。」
その言葉に何かを感じとりハッとしたエリクスは、カバンを地面に放り投げるとマイラの二の腕を両手でがっしりと掴んだ。
「え!?」
「マイラ、母上に何か言われたのか?」
「・・・」
「もしそうだとしたら、君は」
「もうやめて!」
エリクスに掴まれた腕が燃えるように熱い。どうしてもそれを振り解けず、マイラはただ下を向いて解放を願った。この気持ちを知られたくない、ただそれだけを祈った。
「もしかしてマイラは、俺のことを・・・」
まるで身体中の熱が顔に集中してしまったかのように、マイラの頬が真っ赤に染まる。エリクスはその顔を見て、自分の考えが間違いではないのだと確信した。
だがマイラはその先の言葉を先回りし、全て否定する。
それは嘘のつけないマイラの、一世一代の嘘だった。
「私はイリスが好きなんです!もう本当に私に構わないでください!!」
その言葉に少なからずショックを受けたエリクスは、手の力を緩めた。その隙にマイラは走りだし、エリクスを置いて走って学校に向かっていく。
そしてその場に一人残されたエリクスは、混乱する頭を抱えて近くにあった壁に寄りかかった。
(イリスが好き?嘘だ!マイラのあの反応は、絶対にそんなんじゃなかった!!彼女は、マイラは俺のことを・・・)
エリクスは先ほど見た真っ赤になった顔とこれまでの言動を思い出し、マイラの自分への気持ちを改めて確信していた。
マイラが彼女の実家がある村で見せてくれたあの満点の星空、三年後も兄妹でいて欲しいと言った時のショックを受けた様子とあの切ない表情・・・今思えば、あれはつまりそういうことだったのだと。
そこまで考えてエリクスはようやく冷静さを取り戻すと、地面に転がっていたカバンを拾い上げた。
再び通学路に戻った彼のその青く澄み切った目には、これまでにない希望の光が宿っていた。