47. 先の見えない今
昼食を終えると、二人は少し話をしてから明るいうちにと言って家に帰っていった。
マイラは急に静かになってしまった自分の部屋を少し寂しく感じていたが、夜にエリクスとの約束があることを思い出すと、再び明るい気持ちを取り戻していった。
そうしてその夜。夕食の時間が近付く頃、エリクスが珍しく早く帰ってきた。
「お兄様!今日は早いんですね!」
ちょうど階段を降りてきたところで帰宅したばかりのエリクスを見つけたマイラは、急いで彼に駆け寄っていく。
「マイラ、ただいま。今日は約束していたからね。さあ、一緒に夕食を食べて、それから実技の練習をしよう。」
彼は優しくマイラの背中に手を回すと、一緒に広々とした食堂に入っていく。
そして久々の和やかな夕食を終えると、動きやすい服装に着替えた二人はいつもの広い部屋へと向かった。
「さて、それじゃあ練習を始めよう。と言ってもマイラは今日お友達とかなり練習したんじゃないか?」
エリクスは軽く柔軟体操をしながらマイラに問いかける。
「はい。でもちょっと不安なところもあって・・・」
そう言ってマイラは今日練習した魔法を披露しながら、気になった箇所をエリクスにチェックしてもらう。いくつかアドバイスをもらうと、思った以上に良い仕上がりになった。
「いい感じだ。これで実技テストは問題ないだろう。後期は土と移動魔法が入るが、マイラは得意な内容だし、誤魔化す必要性も少ないから今年度は問題無いだろう。」
エリクスの言葉にマイラはほっと胸を撫で下ろした。今年度は、ということは来年度からはもう少し難しくなるのだろう。だが今は一つずつ、まずは目の前にあることを頑張らなくてはならない。
「わかりました。あの・・・今日は忙しいのに時間を作ってくれてありがとうございました。その、すごく、嬉しかったです。」
マイラが照れながらそう話すと、エリクスの動きが止まった。だがマイラは俯いていたので彼がどんな表情をしているのかは見えていなかった。
エリクスがスッとマイラに近寄る。
その手が、マイラの頭ではなく、頬に伸びた。
「え?」
視線が交わる。
「マイラ・・・」
何かを言いたいのに言えない、そんなもどかしさを感じさせるエリクスの指と瞳が、マイラの全精神を奪い取っていく。
綺麗な青い瞳、長く滑らかな指先。
何もかもを投げ捨てて、彼に想いを打ち明けられたらどんなに幸せだろう。
だが、マイラにはそれはできなかった。
「お兄様、もう、休んでください。お仕事でお疲れですよね。無理させてしまってごめんなさい。それと・・・」
マイラは頬に寄せられた温かい手をそっと両手で挟んで外した。
「素敵な絵を、ありがとうございました。嬉しかった、です。」
「マイラ、俺は」
「でももう、ああいうことはやめてください。」
「どうして!?」
「・・・」
(だって期待しちゃうから。もっともっとって、欲しくなってしまうから)
その思いを胸の奥底にグッと押し込めて、感情も押し殺して上を見上げた。悲しそうな彼の瞳が揺れている。
「・・・おやすみなさい。」
掴んでいた手をぱっと離し、マイラは走って部屋を出ていった。残されたエリクスの顔を、その時のマイラはどうしても振り返って見ることはできなかった。
― ― ― ― ―
マイラがいなくなってしまったその広い部屋は一瞬で静寂に包まれ、エリクスにはとても寒く感じられた。
深くため息をつくと、マイラのためにと準備していた飲み物を手に肩を落として部屋を出る。
(俺のことを嫌いになったわけじゃないはずだ。今日一緒に練習することをあんなに喜んでくれていた。それなのに、どうして・・・)
握りしめたグラスの中で、飲み物がピチャンと音を立てる。途中ですれ違った男性の使用人にそのグラスを片付けるようお願いすると、彼はどんよりした気持ちのまま自室に戻った。
浮かない表情で部屋に入ったエリクスは、背を丸めたままソファーに体を横たえると、数日前に母から言い渡されたことをぼんやりと思い出していた。
― ― ―
「エリクス、あなたに縁談が三つほど来てるわ。」
その日の朝、不機嫌なエリクスに美しい笑みを見せながら母は言った。
「はあ。またですか。」
「ええ。来年卒業なんだから仕方ないわ。そのうち二つはこっちで適当に断った。でも、一つは進める予定よ。」
「はい!?」
エリクスは母の言葉に驚き、魔力が一気に溢れ出した。近くにいたメイド達が慌ててその場を離れる。母はそんなエリクスを見ても眉一つ動かさなかった。
「あのバルターク家の長女との縁談よ。こんな機会、逃す手はないわ。」
「・・・裏があるのでは?」
セシーリアはうっすらと笑みを浮かべたまま、返事どころか瞬きすらしない。対照的にエリクスは次第に表情が強張っていく。
「エリクス。あの子に惚れたの?」
「!!」
顔を真っ赤にした息子を見て、セシーリアはようやく明るい笑顔を見せた。
「そう。それならなおさらこの縁談は受けなさい。これを逃したら次は無い。私もヨアキムも、あなたの力を必要としているの。」
「母上、ですが!」
「結果を出しなさい。本格的にこの話を進めるのは来年。それまでに足場を固めておきなさい。あなたが手に入れたいものを手に入れるために。」
セシーリアの言葉には、僅かだがエリクスへの愛が感じられた。だがすぐに母は非情な決断を下す。
「マイラさんにこの話をするのは禁じます。全てが終わるまでこの件に関わる話は何一つあの子に話してはいけない。あなた達の契約が終わるその日まで、あなたはこの試練に立ち向かいなさい。その先にあるはずの明るい未来のために。」
エリクスの青ざめた顔を、母はただじっと見つめていた。
「・・・わかりました。」
「契約を。」
そしてエリクスは、セシーリアと秘密保持の契約を結んだ。
― ― ―
部屋に戻り、机の上に置いてあった小さなカードを手に取った。そのうちの何枚かにはすでに絵が描かれている。マイラと過ごした彼女の実家での思い出を、少しでも絵として残しておきたかった。そしてそれをマイラが手に取って笑顔になってくれたら、と。
「マイラ・・・喜んでくれたのに、どうして。」
今から縁談が待ち受けている自分が、仮にも妹であるマイラにこの想いを告げるわけにはいかない。それでもお互いを好きだと思う気持ちがあるなら、いずれは・・・そう考えていた。
もしかしたらマイラも同じ気持ちなのでは、と思わないでもなかった。だがそれを追求することはできない。形にすることも叶わない。
(どうしたらいい?母は俺にどうしろというんだ?俺は、ただマイラと一緒に笑っていたいだけなのに・・・)
まだ何も書いていないカードをギュッと手で握りつぶすと、エリクスはそれを机の上に散らしたまま、ベッドに入り目を閉じた。
― ― ― ― ―
マイラはあの後自室にこもり、マルクに手紙を書き始めた。いつだって辛い時、苦しい時、何を相談するわけでもなかったけれど、マルクに手紙を書き返事をもらうと元気になった。彼の手紙には優しさと希望が満ち溢れ、大好きなあの村の風景が心の中にキラキラと蘇っていくのだ。
(側にいたいのに、いたくない。でも、会えるとやっぱり嬉しくなっちゃう・・・)
どれほど想いを募らせても、イリスの言うようにマイラはエリクスの『妹』でしかいられない。だからと言って妹として近くにいて、限られた時間甘やかされる生活があればいい、とはどうしても割り切れない。
「もっと、なんて望んじゃ駄目だよね。私にはやらなきゃならないことがあるんだから。」
溢れ出しそうな涙を必死に堪えて手紙を書き続ける。イリスが買ってきてくれた古代語の本を手にして、ふと彼のことを思い出した。
(イリス、ごめんね。それでもやっぱり私イリスの想いには応えられないよ・・・)
帰ってきたらきちんと話をしよう、マイラは手紙を書きながら、繰り返し自分にそう言い聞かせていた。
そして、長期休み最終日。この日はイリスも午後には帰ってくる予定になっていた。マイラはエレンに掃除をお願いし、勉強を始める。学校が始まればすぐに試験となるため、マイラは筆記試験だけでも結果を残したいと必死だった。
(ルーイ家の人間が成績が低いなんて、きっとまずいよね!)
エリクスにそうしたプレッシャーを受けたことはなかったが、マイラはこれほどの家柄かつ優秀な兄を持つ妹が成績が悪いなんてことになったら大変!と、勝手に焦りを感じていた。
コツコツと重ねてきた勉強の総まとめをしていると、小さなノックの音が聞こえる。エレンが掃除をしている手を止めてドアを開けた。
「マイラさん、お久しぶり。」
そこには思いもよらない人物、セシーリアが立っていた。
エレンは素早く掃除道具を片付けると、部屋を静かに出ていく。マイラは手紙を机に伏せると椅子から降りてセシーリアに丁寧に挨拶をした。
「先日はありがとうございました。今日はいったいどうされたのですか?」
マイラは突然の訪問者に動揺しながらも、穏やかに尋ねる。セシーリアは手でマイラにソファーに座るよう促すと、自分も足を組んで優雅に腰掛けた。
「マイラさん、あなたに聞いておかなければならないことがあるの。」
「はい。何でしょうか?」
セシーリアは微笑みながら単刀直入に質問する。
「あなたはエリクスと兄妹以上の関係を望んでいるの?」
「え?」
マイラはセシーリアの紫色の瞳に吸い込まれそうになり、慌てて目を逸らす。動揺のあまり、無意識に持っていたペンを床に落とした。拾おうとするとそのペンが宙に浮き、マイラの手に戻った。
「うふふ、驚いた?ごめんなさいね、変なことを聞いて。答えはあえて聞かないわ。でも一つだけ忠告しておく。あの子は我が家の正式な後継者なの。だからその伴侶は誰でもいい、というわけにはいかないのよ。この意味、賢いあなたならわかるわよね?」
マイラは全てを察し、そしてまっすぐに彼女を見つめた。
「私に何を言わせたいのかわかりませんが、私はエリクスさんと契約で兄妹になっただけです。それ以上でもそれ以下でもない。ご心配には及びません。」
セシーリアは笑顔のまま一瞬だけ目を伏せる。長いまつ毛がふわっと揺れ、そして立ち上がった。
「そう。とてもいい返事が聞けて安心したわ。じゃあ、帰るわね。」
マイラも急いで立ち上がり、別れの言葉を述べた。
ドアが静かに閉まり、入れ替わりでエレンがお茶を持って現れる。
「ああ、やっぱり間に合いませんでした・・・セシーリア様はいつもああなんですよ・・・」
落ち込んだ様子のエレンを軽く慰め、マイラは自分の机に戻った。
胸の内に、複雑な思いがぐるぐると混ざり合っていく。
だがこの時最も大きくマイラの心の中を占めていたのは、彼のことを完全に諦めなければならないという『絶望』だった。