45. イリスの裏の顔②
イリスが父の書斎のドアをノックすると、「入れ」という低い声が聞こえてきた。息を大きく吸ってからドアを開けると、きつい香水の香りが鼻をつく。
「イリス、帰ってきたか。」
父イーライ・ウェイリーは、白髪の混じる黒っぽい髪を後ろに撫で付け、驚くほど皺のない綺麗な顔立ちをしている。だが微かに浮かぶ眉間の皺だけは、年齢ではなく彼の性質を窺わせるものだ。
そしてイーライの隣には、強い香りの発生源である若く美しい女性が立っていた。
「久しぶりですね、イリス。」
「ええ、本当に。メリーアン。」
彼女は妖艶に微笑むと、それまでしていた話を続けた。
「とにかくそういうわけですから伯父様、第一段階は無事成功です。来年には本格的な縁談に進む予定ですわ。」
「そうか。さすがメリーアンだな。幼い頃から優秀だと思っていたが、これほど簡単に相手の懐に入り込めるとは。」
メリーアンはフフっと笑うと、ふんわりとした焦茶色の髪を揺らした。彼女はイリスにとっては従姉妹にあたるが、幼い頃からほとんど会ったことはなかった。だが会うたびに抜け目のなさを感じさせるその人柄を嫌悪していたため、イリスはその状況をむしろありがたいとさえ思っていた。
(相変わらず怖い女だな。こいつだけは敵に回したくない)
あの厳格な父をして『優秀』と言わせてしまう彼女の実力は確かなものだった。上級魔法学校を主席で卒業し、今年から彼女の母、イーライの妹であるメリッサの嫁ぎ先で早速幹部の右腕として働いているらしい。
「メリッサもアランも褒めていたぞ。一年目にしてこれだけ結果を出せるならいずれは後を継がせたいと張り切っていた。」
「まあ。結婚しても仕事を取り仕切らなければならないなんて大変ですわ。」
本心ではないのだろう。彼女は余裕の笑みを浮かべている。その様子を満足そうに見ていたイーライは、今度はイリスの方に冷たい視線を向けた。
「うちでもイリスがいずれは後継者となってさらにこの家を発展させていく予定だ。そうだな、イリス。」
父の言葉を否定することなど、我が家では決して許されない。
「もちろんです、父上。」
イーライは笑顔を浮かべるのすら勿体無いと思っているのか、当たり前のように無表情でその言葉を受け入れる。
「メリーアン、この縁談がまとまればそちらの仕事もうちの仕事もさらに大きくすることができる。だからこそ焦りは禁物だ。外堀をしっかり埋めていきなさい。」
「はい、わかりました、伯父様。」
そんなことを言われずとも彼女はとっくにそうしているだろう。そういう女だ。そしてその言葉は今の自分にも当てはまる。
(そうだ。この家とこの父から離れて俺自身の幸せを掴むためにも、焦りは禁物だ)
「イリス、お前の方はどうなんだ。仕事を休ませてまでこうして自由にさせている。例の件は本当にうまくいくんだろうな?」
イーライの鋭い目は、嘘などすぐに見破ってしまう。だからイリスはいつでも、彼の求める人間になるための努力を欠かさなかった。もちろんそれ相応の結果も出してきた。そしてそれは全て、一番大きな嘘を貫き通すために積み重ねてきたものだった。
「もちろんです。先日彼女のご両親にもお会いしてきました。かなり好感触だったと思います。」
「ほう。その証拠は?」
「その後も手紙のやり取りをしております。必要があればお見せします。・・・とにかく、かなり信頼はしていただけたかと。」
「そうか。まあお前の方はまだ少し時間に余裕を与えている。その分確実に結果を出しなさい。」
イーライはそれだけ聞くとすぐに興味を失ったのか、イリスから目を逸らした。
「わかりました。」
イリスはこれで用が済んだのだなと判断し、部屋を出る。
(メリーアンがついに動き出したか。好都合だな。彼女なら狙った獲物は逃さないだろう。後は俺が頑張るだけか・・・)
イリスは先ほどまでの策略と冷たい空気に満ちた空気をできるだけ早く忘れようと、優しく温かいマイラの笑顔を思い出しながら部屋へと戻っていった。
― ― ― ― ―
イリスが実家に帰ってしまってから、二日が過ぎた。
マイラは彼のいない時間を寂しく感じる自分に動揺し、これではまずいと、朝から準備を整えて図書館に出かける。
(家にこもっているから駄目なのよ!お兄様もなかなか帰ってこないし、余計なこと考える暇があるからいけないのよね。休みももうすぐ終わりなんだから勉強頑張らないと!)
揺れ動く心に向き合いたくないマイラは、勉強道具を詰め込んだカバンをしっかりと抱えて図書館に向かって歩き始めた。
この町にある大きな図書館は、誰でも利用できるかなり巨大な施設となっている。一見するとお城のようにも見えるので、初めてこの町に来た外国の人は、ここには王様でも住んでいるのかと思うらしい。
(まあこの国は議会制だから王様はいないけど。そういえばルーイ家も代々議会に席を置いているんじゃなかったっけ?)
先日エリクスの両親が来てくれた時は、あまりにも短い時間しか滞在してくれなかったのでそんな話もできなかった。マイラは次こそは色々とお話を聞いてみたいなどと考えながら、図書館の入り口にある大きなゲートをくぐった。
中に入るとその日は珍しく人が少なく、いつも以上に静かな空間がそこにあった。学生が勉強のために使える部屋もあり、マイラも何度か短い時間そこを利用したことがある。
この日もその部屋を目当てに来てみたのだが、中に入ってみるといつもは空いている席を探すのが大変なほど混雑しているのに、今日に限ってはガラガラでどこでも座り放題の状態だった。
(よかった、今日は座れそうね!)
マイラは窓際の、人が特に少ない場所へと移動し机の上に勉強道具を広げ始めた。最後にノートをカバンから取り出すと、何かがその間からヒラヒラと床に落ちていったのに気付いた。
「ん?何だろう?」
椅子から降りて机の下に落ちた物を拾い上げると、それは小さな手のひらサイズのカードだった。よく見るとそこには可愛らしい花の絵が描かれている。
(この花、実家の庭に咲いてる花だ!)
さらにその絵の裏を見るとそこには綺麗な字で『なかなか会えなくてすまない。試験勉強頑張り過ぎないように。実技の練習には必ず付き合うよ。』というメッセージが書かれていた。そしてその下にはエリーと、画家の時だけ使用する彼の名前が記されていた。
「お兄様・・・」
その小さなカードに描かれた絵は、兄が忙しい時間の中でマイラのためだけに仕上げてくれたものなのだろう。決して緻密な絵ではなかったが、実家で見ていたあの素朴で明るい色の花がまるでその絵の中で生きているかのような瑞々しさを感じる。
そしていつの間にこんなカードを入れたんだろうと不思議に思う気持ちよりも、自分のことを思って描いてくれた彼の優しさに癒される気持ちの方が、今のマイラの心を大きく占領していた。
彼のまっすぐに家族を思いやる気持ちは、たとえ今のマイラには少し辛いものであっても、やはり素直に嬉しかった。
マイラは兄からの心のこもったカードをすぐに目に入る場所に置くと、ペンを握って勉強を始める。さっきまであれほど寂しいと思っていた気持ちは、もうすっかりどこかに消え去っていた。
数時間後。勉強を終えて図書館の外に出ると、空はだいぶ暗くなっていた。日が落ちるのが早くなってきている。急いで帰ろうと早足で大きな通りに出ると、そこで思わぬ人達に出くわした。
「マイラ!」
「え、ケイト?それにミコルも!どうしたの?」
彼女の後ろには、困ったような顔をしたミコルもいる。マイラは戸惑いながらも二人に近寄ると、久々に会えた友人達との再会を喜んだ。
「久しぶりね。たまたまここを通りかかったらマイラの姿が見えたから走ってきちゃった。でも会えてよかった!ちょうど明日連絡しようと思ってたのよ!」
ケイトが興奮した顔でマイラに迫る。
「そ、そうなの?ケイトちょっと落ち着いて!じゃあ今夜はうちに来る?許可が出るなら泊まっても」
「行く!!泊まる!!着いたら家に連絡するわ!!」
「まあ、ケイト!?」
ミコルが慌ててケイトを止めようとするが、鼻息荒くマイラの手を握りしめている彼女の気持ちを変えることは難しそうだった。
「ミコルはどうする?」
「もう、ケイトったら。私も行くわ。私の場合は別に外泊に許可は要らないし。」
「そうなの?わかった。じゃあ行きましょうか。もう日が沈みそうだし。」
「ええ!行きましょう!!」
ケイトががっしりとマイラの腕を掴む。逃さないとでも言うようなその力に驚き、マイラは苦笑いを浮かべミコルはため息をついた。
(変な状況になっちゃったなあ・・・)
マイラは興奮しているケイトの姿に戸惑ってはいたが、二人が遊びにきてくれることはとても嬉しかった。
そうして急遽決まったお泊まり会に胸を弾ませて、マイラ達はおしゃべりに花を咲かせながら家路についた。




