137. 二人の未来
「マイラ様、ドレスの方は問題ありませんわ。ああ、今日がもう卒業式だなんて、私は朝から胸がいっぱいで・・・」
以前マイラがプレゼントしたハンカチを握りしめながら涙を手で拭うエレンを見ながら、マイラは苦笑しつつもその腕に触れて明るく慰める。
「もう、エレンたら泣かないで!それにそのハンカチを使ったらいいのに。」
「まあ!とんでもございません!マイラ様から貰ったこのハンカチは私の涙を拭くなんて勿体無い使い方ができるようなものではございません!」
「エレンはいつも大袈裟なんだから・・・」
やれやれと言わんばかりにその腕をポンポンと優しく叩くと、マイラは彼女から少し離れて大きな姿見の前に立った。そこに映るのは、三年前の入学式の日に見た自分よりも少しだけ大人っぽくなった女性の姿だった。
「本当にお綺麗です。お美しくなられて・・・きっとエリクス様もこのお姿をご覧になられたら驚かれますよ。」
「ふふ!そうかな?そうだといいな。」
卒業式を控えたこの日、あの入学式の日よりも落ち着いた色合いの青いドレスを身に纏い、今日の夜のパーティーのための最終確認をしていた。卒業式自体は制服なので、式が終わったら一度自宅に戻ってきてこのドレスに再び着替えることになる。
細部まで美しく華やかなドレスをじっくりと眺めながら、マイラはここに戻ってきた日のことをぽつぽつと思い出していた。
― ― ―
マイラ達があの小さな村からエリクスの屋敷に戻ると、門の前でエレンとキーツがそわそわした様子で待ち構えているのがまず最初に目に入った。
マイラは道中ほぼエリクスに手を握られっぱなしだったのだが、エレンの緊張した顔を見た途端、パッとその手から逃れて馬車の窓に飛びついた。
「エレン!」
「おっと、俺の大切なマイラをエレンに奪われちゃったかな?」
楽しそうにそう言いながら、エリクスも窓に顔を寄せて外を眺める。マイラは懐かしい建物を見上げながら、エリクスの息遣いを耳元で感じて振り返った。
「やっと、帰ってきましたね。」
「ああ。それにマイラが隣にいる。」
二人は微笑み合うと、再び窓の外に目をやった。
それからはただただ慌ただしく時間は過ぎ去っていった。キーツはテキパキとエリクスの指示で動き始め、エレンはマイラを捕まえると真っ赤にした目を潤ませながら、考えうる全てのお世話を次々にこなしていった。
その日は屋敷中を上げての歓迎会が行われ、大勢の使用人達がエリクスとマイラの帰宅を心から喜んでくれた。
そして翌日マイラはエリクスに、ヨアキムとセシーリアに会わせてほしいとお願いした。だが彼もまた元々そのつもりでいたようで、すでに会う約束を取り付けてあるとのことだった。
ただすぐに会うのは予定が合わず難しいとのことで、約束の日までは再び学生生活に戻ってその日を待とう、ということになった。
その二日後学校に戻ったマイラは、懐かしい仲間達に熱烈な歓迎を受け、ミコルには泣いて抱きつかれケイトには少し怒られた。ウィルとスヴェンはその様子を見て楽しそうに笑い、カイルは優しい笑顔を向けて再会を喜んでくれた。
そこからしばらくの間遅れを取り戻すべくケイト達と勉強に集中した日々を過ごし、十日ほど経ってからようやくヨアキム、セシーリアと会う日を迎えたのだった。
朝から急激に冷え込んでいたその日、マイラは冷えよりも緊張による腹痛を感じながら身支度を済ませると、部屋の前で同じく緊張した面持ちで待っていてくれたエリクスに手を引かれながら家を出た。
目的地はエリクスの実家。
馬車に揺られて現地へと向かい、まだ記憶に新しいあの大きな門をくぐると、見覚えのある広大な敷地が現れた。
緊張がピークに達する中時はあっという間に過ぎ去り、無情にも馬車は本邸の入り口前に横付けされてしまう。マイラはドキドキする胸を押さえながら、エリクスの手に支えられて馬車を降りた。
そして、応接室に入る。
だがそこで目にした光景は、全く予想もしていなかったものだった。
「え・・・お父さん、お母さん!?」
その部屋にいたのは、ヨアキムと仲睦まじく寄り添ってソファーに座るセシーリアと、その前のソファーで笑顔を見せるケントとアンジュだった。
四人はニコニコしながらマイラ達を迎え入れ、相当な覚悟を持ってやってきた二人を明るく和やかに受け入れてくれた。
「父上、母上、この状況は一体・・・どういうことですか?」
セシーリアがエリクスの疑問に落ち着いた声で答えた。
「あなた達がこちらに帰ってくると聞いて居ても立っても居られなくなっちゃって。話は早い方が良いと思ったから早速お二人をお呼びしたのよ。」
その言葉を受けて今度はアンジュが話し始める。
「マイラ、私達の事情は後でもっと詳しく説明するわ。でもその前に何か私達に言いたいことがあるんでしょう?」
マイラはハッとして四人の顔を順番に見つめると、表情を引き締めてからセシーリアの前に立った。
「セシーリア様、ヨアキム様、この度は私のせいでエリクスさんをルーイ家から引き離すような形になってしまったこと、本当に申し訳ありませんでした。それと・・・私は、エリクスさんのことを愛しています。」
その言葉にエリクスが反応し、素早くマイラの横に立ちその手を握った。
「今の私は幼くて、エリクスさんに相応しい女性とはまだ認めてもらえないと思います。でもいつか必ず認めていただけるように頑張ります。ですから、その・・・」
エリクスが言葉に詰まってしまったマイラを助けるようにそれを引き継いで口を開いた。
「ですからどうか私達二人の婚約を、認めていただけないでしょうか?」
ヨアキムはただゆったりと微笑みを浮かべ、セシーリアはじっとマイラを見つめている。アンジュはあたふたしているケントをまあまあと宥めながら二人を見守っている。
そしてそんな緊張した状態を打ち破ったのは、セシーリアの気取らない満面の笑顔と思わぬ一言だった。
「その言葉を待っていたのよ!!」
「え?」
「は、母上!?」
「ぷっ、嫌だわセシーリア、素が出ているわよ?」
最後のアンジュの一言がマイラを余計に混乱させる。そんなマイラの表情を面白そうに見つめながらセシーリアが口を開いた。
「ごめんなさいねえマイラさん、これまで散々怖がらせてしまって!ただあなたの覚悟が知りたかったのは本当なの。ああ、でもこうしてエリクスと一緒に戻ってきてくれたことで、あなたがルーイ家で生きる覚悟を決めてくれたんだってわかってほっとしたわ。」
「セシーリア様・・・」
セシーリアはソファーから立ち上がるとスッとマイラの前に立った。彼女から漂う甘い薔薇のような香りが、マイラの緊張を僅かに和らげる。
「私はね、別にエリクスが選んだ人ならどんな女性でも受け入れるつもりではいたの。大事な仕事を放り出してまであなたを探しに行った時にはむしろよくやったと思ったくらいよ。でもね、どんなに愛し合っていても、この家を背負っていくには相当な覚悟がいるの。」
マイラは黙ってただ頷く。セシーリアはマイラの手を取って続けた。
「だからあなたがエリクスを連れてここに戻ってこられるのかどうか、あなたの覚悟が知りたかった。そしてあなたはあの子と戻ってきてくれたわ。この家の大変な部分を受け入れようと決意してくれた。もうそれだけで十分なの。」
「セシーリア様、私・・・」
セシーリアは今まで見たこともないほど優しい表情を見せながら悪戯っぽく笑って言った。
「それにね、大親友のアンジュの娘さんですもの!むしろこちらがお嫁さんにお願いしたいくらいだったのよ?」
「えっ!?」
驚いてマイラが母の方を見ると、アンジュは苦笑いを浮かべてこちらを見ていた。
「セシーリアはね、学校の同級生で私の一番の親友なのよ。でも今の村に移り住んでからお互い忙しくてほとんど会っていなかったから、マイラが知らないのも無理はないわ。」
「そうだったんだ・・・」
「セシーリアはもちろんあなたのことを知っていて、時々手紙もくれたりしてたのよ。さあマイラ、もう一人説得しなきゃならない人がここにいるわよ?」
マイラはアンジュの後ろですっかり意気消沈している父ケントに気付き一歩前に足を踏み出した。だがそれを遮るかのようにエリクスがマイラの前に立った。
「マリーさん、ご挨拶が遅れて申し訳ありませんでした。私はマイラさんのことを心から大切に思い、私達は愛し合っています。どうか私達の婚約を許してはいただけないでしょうか?」
ケントはしばらく暗い表情で俯いていたが、渋々と言った様子で腰を上げるとエリクスの前に立って言った。
「エリクスさん、マイラは一人では抱えきれないほど多くの過去と能力を持って生まれてきた子なんだ。だからこれからどんなことがあっても、本当に一生あの子を見守っていくと約束できるかい?」
「はい、約束します。」
ケントは小さくため息をついてからマイラの方に顔を向けると、少しだけ切なそうな笑顔を向けて言った。
「マイラ、必ず彼と幸せになるんだよ。」
「お父さん・・・はい!」
感極まったマイラがケントに抱きつくと、アンジュもそこに加わり三人はお互いの幸せを願って抱きしめ合った。
そうしてその日の夜は賑やかな晩餐会が開かれ、六人だけのささやかだが温かい雰囲気の中で、二人の未来は心からの祝福を受けてその一歩を踏み出すこととなった。
― ― ―
大きな鏡の前でマイラは、その日のことを思い出しながら胸が温かくなるのを感じていた。だがその時、エレンの声がふいに意識を現実に引き戻した。
彼女は一枚の封筒を手渡すと、何か思うところがあるのか、マイラが受け取るとすぐに部屋を出ていった。
「手紙?誰からだろう?」
封を開け、中から小さなカードを取り出すと、マイラはその見覚えのある文字に目が釘付けになった。
それは、イリスからのメッセージだった。
『愛するマイラへ。卒業おめでとう。そして、エリクス様との婚約も決まったとエレンから聞きました。君が幸せになっていく姿を一番近くで見られないこと、それだけが本当に残念です。でも、きっとマイラなら幸せになれる。いや、マイラはいつだって今を大切に生きてきたよね。いつだって目の前にある幸せを大切にしていた。だからこれからはもっともっと幸せになれるよ。俺もそうでありたいと願う。そして・・・一生君のことを愛している。本当におめでとう。イリスより。』
マイラはその短い手紙に込められた自分への想いに胸が震えた。何もイリスに返すことはできないけれど、彼が今もこれらもずっと幸せでありますようにと、心から祈ることしかできなかった。
そして指でそっと涙を拭っていたその時、静かなノックの音が聞こえた。
ドアを開ける。
目の前に、金と青の煌めきが見えた。
「マイラ!」
「エリクスさん!」
二人はお互いの姿を見て笑顔を浮かべた。エリクスはマイラの手を取り、じっくりとその姿を目に焼き付けている。
「本当に綺麗だ・・・俺の妹はこんなに美しい女性だったんだな。」
「もう!お兄様、褒めすぎです!」
「ははは!いいじゃないか、『溺愛する妹』という設定なんだから。そして君は、本当に俺が心から愛する女性なんだから。」
目を細めて愛しそうにマイラを見つめるエリクスの顔が、次第にマイラの顔に近付いていく。
「ちょ、ちょっとお兄様、今ですか!?」
「この状況でお兄様と呼ばれるのも、何か胸にくるものがあるな。」
「なっ、何を言って」
「もう黙って。」
マイラの唇は、エリクスのそれに甘く塞がれていく。
静かで甘やかな時間が暫し流れ、それからマイラは頬を紅潮させたままエリクスの腕の中に包まれた。
「さあ、エレンを呼んでおくから制服に着替えて降りておいで。そうだ、下でリアが待っているよ。」
「あの、エリクスさん。」
愛おしい婚約者を仕方なく解放し、ドアに手を掛けたエリクスがゆっくりと振り返った。
「ん?どうした?」
マイラは言った。
「あなたを愛しています。明日からは妹じゃなくても、愛してくれますか?」
エリクスは黙って早足でマイラの元に戻ると、再び強く抱きしめて言った。
「マイラがもうこれ以上はいらないと言っても止められないぞ?」
「ふふっ、面倒に感じるくらい愛してくれるんですか?」
「もちろん!でも俺の愛は重いぞ?」
「もうとっくに知ってます!」
二人はそう言って笑い合うと、どちらからともなく再び唇を重ね合った。
そんな二人の横顔を明るく照らす朝の光が、少しずつ強まって部屋を暖めはじめる。
そして新しい季節の始まりを告げる高く朗らかな鳥の鳴き声を遠くに聞きながら、マイラは二人の目の前に続く無限の未来を、まだ見ぬ無限の可能性を、楽しく思い描いていった。
終
最後までお読みいただきありがとうございました!