135. 一人じゃない
前方をよろめくように走るジェイクの向こうに、轟々と唸るような音を立てている川が目に入り、マイラは彼を必死に追いかけながら、先ほどよりも強い焦りを感じ始めていた。
息が上がる。手足が冷える。
それでももう二度と、あの日大切な人を救えなかった自分を繰り返したくはなかった。
「テイラーさん、待ってください!!その先は・・・」
マイラの声は嵐にかき消されてジェイクの耳には届かない。雨は先ほどよりも激しさを増し、近付くにつれはっきりと見えてきた川の色は、暗がりの中でもわかるほどに存在感を増し、濁っていた。
すると突然ジェイクが何かに気づいたように立ち止まり、方向を変えて再び走り始める。だがその時、川の上流に違和感を感じてマイラはパッと顔を上げた。
目を向けた先には、明らかに大量の土砂を飲み込んで暴走を始めた濁流がこちらに物凄い勢いで向かってきている。マイラは小さく悲鳴を上げた。
「ひっ!?」
その手前には、ジェイクが何かを拾おうと屈んでいるのが見える。
パニックになりかけた頭を必死で現実に引き戻したマイラは、ジェイクに駆け寄りながら手を伸ばした。その手から放たれた魔法は彼の前方に大きな壁を作り、濁流に飲み込まれないように少しずつその周りを囲い始める。
だがマイラの予想よりも流れは速く、魔法で全てを囲い終える前にその黒々とした恐ろしい濁流が、何かを掴んで立ちあがったジェイクを一瞬でその内側に飲み込んでいった。
「うわあああっ!!」
「ジェイク!!」
マイラは再び手を伸ばし、植物魔法を使って彼を絡め取ろうとしたが失敗。血の気が引くのを感じながらもう一度手を振り上げた時、ジェイクが勢いよく川から飛び出し、空中に浮き上がった。
「え・・・?」
マイラがそれを呆然と見上げていると、ふと肩に何かが触れた。それがエリクスの大きく温かな手の感触だと理解した時には、もうジェイクは川からかなり離れた場所へと移動させられた後だった。
「マイラ!もう大丈夫、彼を連れて安全な場所に行こう!」
ぼんやりと立っているばかりだったマイラの耳元で、エリクスが大きな声でそう告げる。それでもまだ動こうとしないマイラの手を強く握りしめたエリクスは、待っていられないというようにずるずるとその手を強く引っ張りながらその場を離れた。
三十分ほどして何とか安全な場所まで辿り着いた三人だったが、状況は決して良いものとは言えなかった。
川から離れた場所にある小さく古びた小屋に避難した三人だったが、人の手を離れて年数が経っているらしいその場所には怪我人を休ませられるようなベッドも、ブランケットらしきものさえも残されてはいなかった。
マイラはようやくそこでまともな思考力を取り戻し、エリクスの表情が険しいこと、ジェイクが思っていたよりも数段酷い怪我を負っていることに気がついた。
「かなり酷い怪我だな。川に流された時、流木や岩にぶつかってしまったんだろう。・・・マイラ、マイラ?」
エリクスの言葉はマイラの耳にしっかりと届いていた。病院から離れたこの場所では、今マイラがしなければならないことははっきりしている。
(わかってる、やらなければいけないことは。でも、体が動かない。頭がうまく働かない。どうしよう、怖い・・・)
小さな小屋の中でエリクスの上着を掛けて床に寝かされているジェイクのその姿は、マイラにあの日の記憶を、同じ名を持つ大切な友人を失いかけていたあの日の恐ろしい光景を、ありありと思い出させていた。
真っ青な顔で震えているマイラに気付いたエリクスは、魔法で衣類や髪に残っていた全ての水気を取り除くと、そっとその肩を抱き寄せて静かに、しかし力強く言った。
「マイラ、前を見るんだ。」
その声が、マイラの心を震わせる。小さな光が灯る。
「今のマイラは、あの悲しい出来事があった頃の君とは違う。何年も何年も努力を重ねて、今だからこそできることがあるじゃないか!それに俺もいる。絶対にマイラも、マイラの大切な人達も俺が守る!だから今見えているものから目を背けるな。今度こそ君のその力で、目の前の人を助けるんだろう!?」
マイラは俯きがちになっていた顔をゆっくりと上げた。
そして、すぐ横にある大好きな人の顔を見上げる。涙が溢れていく。
「エリクスさん・・・」
エリクスは目を細めて微笑んだ。
「マイラ、大丈夫。怖がらなくていい。もう一人で抱え込まなくていいんだ。俺が必ず、隣にいるから。」
その言葉が冷え切って硬くなっていたマイラの心と体に染み込んで、柔らかく温かく解きほぐしていく。そしてマイラは肩に置かれた大きな手の甲に自分の頬を寄せると、小さく呟いた。
「うん、もう私、一人じゃないんだ。」
心に灯った火が少しずつ大きくなるのを感じながら、マイラはエリクスからそっと離れると床の上に横たえられているジェイクの横に座り、目を瞑って祈るように手を組んだ。
そして目の前にいるジェイクのあの元気な笑顔を、治った姿をしっかりとイメージしてから口を開いた。
『どうか、ジェイク・テイラーさんの怪我が全て治りますように・・・』
するとその祈りの言葉と共に、マイラの手から徐々に光が溢れ始めた。放射状に広がる柔らかなその光は次第に強さを増し、エリクスはあまりの眩さに耐えきれず、腕で目を覆った。
そして数分後、その光が完全に消えた。
雨と風の音がエリクスの耳に戻ってくる。ゆっくりと腕を外し瞼を開いて床に目をやると、そこには顔や腕などにあった怪我がすっかり消えて穏やかに眠る、ジェイクの姿があった。
「すごいな、これが治癒の魔法か・・・」
エリクスは自分の目を疑うように何度も瞬きをすると、ジェイクの状態を確かめるため彼に近付いた。マイラは少し後ろにさがり、湿っていて冷たい壁にそっとその背を預けた。
そして、エリクスの後ろ姿をじっと見つめながら考える。
彼が青い傘を持ってマイラの前に現れたあの日のことを。
偽の妹としてエリクスと過ごした約三年間の日々のことを。
彼がずっと、マイラのことを大切に想ってくれていたことを。
(そうだ、私にはこの奇跡のような人生が、二度目のチャンスが与えられているんだ。それなのにエリクスさんの家柄とかセシーリア様のこととかを言い訳にして、この人生で私自身がめいいっぱい幸せになることから逃げていたんだ・・・)
マイラは壁から背中を離し、床に手をついて立ちあがった。
エリクスがその気配に気付いて振り返る。
マイラは一歩前に進むと、目の前に真っ直ぐ立ったエリクスを見上げて言った。
「エリクスさん、私、あなたを愛しています。」
「・・・え、えっ!?」
エリクスの頬が一瞬で真っ赤に染まる。マイラは微笑んでから言葉を続けた。
「だから、家に帰りましょう。」
だが今度はその顔色が一気に青ざめていく。その落差に驚きつつ、誤解を与えたことに気付いたマイラは慌てて言葉を付け加えた。
「ああっ、ち、違うんです!私も、一緒に帰ります!」
「ああ、そういうこと・・・って、いいのかマイラ!?」
ほっとしたのも束の間、エリクスは驚いた表情を見せてそう聞き返す。マイラは大きく頷いた。
「はい。私、ルーイ家の後継としてのお兄様を尊敬しています。セシーリア様には許してもらえないかもしれないけれど、それでもエリクスさんの一番近くにいることを、もう諦めたくないから。」
「マイラ・・・」
エリクスの右手が、マイラの左手をしっかりと握りしめた。
「だから、一緒に帰りましょう?私あなたと一緒に・・・帰りたい。」
「愛してる、マイラ!!」
そしてその小さく冷え切った手をグッと引き寄せたエリクスは、マイラの華奢な体を自分の胸の中に全て包み込んだ。マイラはその居心地の良さに改めて感動してしまう。
「帰ろう、一緒に。そして一緒に生きよう、ずっと。」
胸から聞こえるその心地よい声と将来を約束してくれるようなその言葉は、マイラの胸をキュッと締め付けた。だがそれは決して嫌なものではなく、甘く切なく、愛おしい気持ちが溢れ出していくような満たされた感覚だった。
「はい。」
強く互いを抱きしめあい、未来を約束しあった二人は、顔を近付けあったところで小さな呻き声に気付きハッとして動きを止めた。
ジェイクはまだ目覚めた訳ではなかったが、怪我が治ったことで無意識に体を動かせるようになったのだろう。
二人は互いに顔を見合わせ小さく笑い合うと、示し合わせたかのように同時に窓の外を眺めた。
嵐はまだ続いていたが、雨は少しだけ、弱まり始めていた。