134. 嵐
マイラは翌日、朝から大忙しだった。
やはり予想通り嵐がこの村に迫ってきていたようで、村中から依頼されて家屋や畑などに強化魔法をかけることになったからだ。エリクスも膨大な数の依頼書を見ながら少し頭を抱えていたが、店を出る時にはもう気持ちを切り替えたのか、笑顔で仕事へと出かけていった。
「さて、私も頑張ろう!」
店での仕事もエリクスがずっと近くにいることも、慣れないせいかまだ少し気恥ずかしい。それでもこうして自分の力が求められていること、自分の存在を誰かに必要とされていることはとても幸せなことだとマイラは実感していた。
エリクスと分け合った依頼書を小さなカバンにしまい込むと、マイラも店のドアに鍵をかけて出発した。何気なく空を見上げると、どんよりとした灰色の雲が山のずっと向こう側まで広がっているのが見えて少しだけ胃がキュッとなるのを感じた。
それでもいつものように元気に歩き始めたマイラは、村にある何十軒もの家々に次々と魔法をかけていった。
嵐がもう近いわねえ、無理しないで危なくなったらすぐに帰るんだよ、と顔見知りの村人達に心配されながら、昼過ぎまで休むことなく仕事を続けていった。
途中、簡単に昼食を済ませると、もう一度空を見上げて顔を顰める。
「さっきより空が暗くなってる・・・」
明らかに雲の厚みが増えてきているのがわかる。そして風もさっきよりも少し強まってきていた。
そして、あの日の光景が蘇る。
増水した川、強く降りしきる雨、時々体が吹き飛ばされそうになるほどの強い風・・・
「ジェイク・・・ううん、大丈夫。私今度こそ村の人達を守るよ。」
嫌な予感を振り払うように何回か軽く頭を振ると、マイラは立ち上がって再び仕事に戻った。
だが残すところあと数軒、というところでぽつぽつと雨が降り始める。マイラは急いで残りの家々を回ると、忘れている家はないか確認してから走って店まで戻った。
そして、そこで思いもかけない人物に再会することとなる。
鍵を握りしめたまま店に駆け戻ると、軒下に立つ艶やかな服装の女性が目に入った。彼女は窓から店の中を覗き込むように眺めていたが、マイラの足音に気付くとゆっくりと振り返った。
「えっ・・・セシーリア様?」
まさかの人物の登場にマイラは青くなりながら急いで入口へと向かう。雨に濡れてはいないようだが、こんな場所に長く待たせるわけにはいかない。
「ああ、戻ってきたのね。よかったわ。」
セシーリアはいつもと変わらぬ美貌と穏やかな笑顔で、マイラに小さく手を振った。
「雨は大丈夫でしたか?すぐに開けます、中へどうぞ!」
雨に濡れて冷たくなり始めた手は、寒さからなのかそれとも別の理由からなのか、少し震えていた。そのせいか若干手間取ったものの、どうにか鍵を開けて店の中に二人で入る。
セシーリアに来客用の椅子を勧めると、マイラは奥の棚からタオルを取り出し彼女に手渡した。温かいお茶を淹れ、緊張しながら彼女の前に座る。するとセシーリアは柔らかな笑みを浮かべてお茶を一口飲み、カップを置くとゆっくりと口を開いた。
「マイラさん、お久しぶりね。今日はね、あなたにどうしても聞きたいことがあってここに来たの。ああ、エリクスはこのことを知らないから、言わないでくれるかしら?」
「は、はい。あの、それで私に聞きたいことというのは・・・」
店の外では先ほどよりもさらに強くなった風が、ガタガタと店の窓を揺らし、唸るような音を立てている。マイラは不安に押しつぶされそうになりながらも、自分の手を強く握りしめながらセシーリアの言葉を待った。
「あなた、エリクスがルーイ家を捨ててここに来たことは知っているの?」
マイラは言葉を失ったままセシーリアの顔を凝視する。彼女は小さく息を吐きだすと、真剣な面持ちになり椅子の背にゆったりと体を預けた。
「その顔、知らなかったのね。そう、あの子はルーイ家よりもあなたとの未来を選んだの。それがどういうことかわかるかしら?」
マイラは視線を床に移し、憔悴した表情で小さく頷いた。
エリクスは休みを取ってここに来たわけではなく、ルーイ家、ルーイ商会の跡継ぎという大きな役目、そして家族も捨ててここに来たのだ。そうさせてしまったのが他ならぬ自分であるという事実に、マイラは眩暈を感じていた。
セシーリアはカップのお茶を飲み干すと、静かに席を立つ。そして呆然としているマイラの横を通り、玄関に向かって歩きながら言った。
「エリクスはね、全てを捨てる覚悟でここに来たの。あなたにはどんな覚悟があるの?・・・覚悟がないなら、早めにあの子を返してちょうだい。」
ドアが開き、中に強い風が吹き込む。だがマイラはもう顔を上げることができなかった。そして、ドアは静かに閉まった。
それから二十分ほど経った頃、エリクスがずぶ濡れになりながら店に戻ってきた。マイラはタオルを持ってぼんやり立っていたが、エリクスは魔法で大体の水を取り去ると、マイラからタオルを受け取り眉をひそめた。
「マイラ、どうした?何かあったのか?」
明らかにおかしな様子を見せるマイラを不審に思ったのか、エリクスはマイラの手を握りしめながら声をかける。だがマイラはうまくその問いに答えることができなかった。
「マイラ?」
さらに追及しようとしてくるエリクスに戸惑っていると、それを遮るように勢いよくドアが開いた。
「マイラさん!大変なんだ、弟が、ジェイクが戻ってこないんだ!」
頭も体もびしょびしょな状態でそこに現れたのは、ジェイクの兄であるセトという男性だった。
エリクスが彼をどうにか落ち着かせて話を聞いたところによると、ジェイクは朝から、自分が勤める工房が川の近くにあって心配だから残してきた工具などを取りに行く、と言って家を出たらしい。だがそれからもう何時間も経つのに全く家に戻ってこない。
セトも彼の工房に行ってみようと思って外に出たのだが、嵐が近付き川も増水していて危ないと近所の人から止められてしまい、仕方なくここに助けを求めて来たとのことだった。
「頼む、あいつに何かあったのかもしれない、一緒に行ってくれないか!?」
セトの言葉に、マイラとエリクスは顔を見合わせる。そして同時に大きく頷いた。
「行きます。でもセトさんはここにいてください。私とエリクスさんだけで行きます。工房の場所だけ教えてもらえますか?」
「すまない・・・地図を書くよ。」
そうして簡単な地図を書いてもらい場所を確認した二人は、しっかりと手を繋いで店を飛び出していった。
三十分ほど早足で向かったその工房は、思っていたよりひどい状況になっていた。だいぶ古い建物だったのか、壁や屋根は風であちこちバタバタと音を立てて揺れており、窓の一部が飛んできた枝のようなもので割れていた。
二人は落ちてくるものや飛んでくるものに注意を払いながら、工房の入り口を見つけて強めにドアを叩く。
「おかしいな、もしかしてもう帰ったのか?」
「どうかなあ。あ、でも鍵は掛ってないみたいですね。入ってみますか?」
「そうだな。強化魔法をかけてから中に入ろう。」
エリクスは何回か手を振って魔法で建物に必要な処置を施すと、そのいつ壊れてもおかしくないような古い工房の中に入っていった。マイラも後に続く。
「すみません、どなたかいらっしゃいますか?」
マイラが大きな声で中に呼びかけるが、誰もいないようで返事は無い。エリクスは躊躇なく奥へと入っていき、すぐに戻ってくると首を横に振った。
「誰もいないな。どこに行ったんだろう。まだ近くにいるかもしれない。周りを探してみよう。」
「はい!」
念のためもう一度中のあちこちを確認しながら玄関に戻り、ドアを開けた。するとドアの向こう、工房近くの林の中で、何かを拾って歩いている人影が見えた。
「あ、テイラーさん!?」
マイラがそう叫ぶと、隣にいたエリクスは驚いてマイラの顔を見た。声が届いていないことを確認したマイラは、エリクスをその場に置いて走りだす。
「マイラ、足元に気をつけるんだ!」
そんな声も、激しい風雨の中でかき消えていく。バシャンバシャンと大きな足音を立てながらジェイクに近付いたマイラは、再び大きな声で呼びかけた。
「テイラーさん、危ないです!もう帰りましょう!!」
「えっ、マイラさん!?」
彼は体に打ちつけるような強い雨に翻弄されながらも、何かを腕に抱えて立ち上がった。エリクスもようやくその場にやってくる。
「テイラーさん、お兄様が心配しています。ここは川に近いし危ないので、急いで戻りましょう!」
マイラがそう言うと、彼は暫し考えてから言った。
「でも、大事なノートが飛ばされちゃって・・・あれは師匠から受け継いだ宝物なんです。だから、あれが見つかるまではどうしても帰れません!」
嵐に負けないように張り上げた大きな声は、悲しみに満ちているようにマイラには思えた。それほど大事なものなのだろう。そんなことを思っているうちに、彼は唐突に走り出した。
「あっ、ちょっと待ってください!テイラーさん!?」
しかしこの時彼が向かった先には、今にも決壊しそうな川が轟々とものすごい音を立てながら、大口を開けた捕食者のように三人を待ち受けていた。